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頑張れることも才能だ

最近時間だけはあるのでテルグ語も勉強している。
南インドの言語で、残念ながらこの地域でしか使われていないが九千万人位の話者のいる言葉。
నేను ఈ రోజు ఇంటిలో ఉన్నాను 私は今日家にいます
とか書いて喜んでるの。

最近、『何かに頑張れる』というのは才能ではないかと思うようになった。私は外国語の勉強とか、大して面白くないホラー映画を観ることとか、長文を書くことは頑張ってる意識は無く続けられるが、片付ける、掃除する、興味の無い事に集中する、目上の人を無条件に立てる、お世辞を言う、甘えない、ということを他の人達並みに、少なくとも本音が透けて見えないようにうまくやることが下手くそだ。多分他人の何倍も頑張ってようやくできるようになるかもしれない。

会社にいたときは、そういう苦手なことができる自分になれたのだと錯覚していたが、所詮錯覚で、現実が「あんたってほんとにちゃんとできないね」と教えてくれるたび、つまり会社で同じミスをするたびに感情的になってしまっていた。大人気ない。だから、会社から早く離れるべきだったね。周りには申し訳ないよ。迷惑かけたし、早めに離脱して、自分の向いてる方向をきちんと探ればよかった。いい経験だったけどね。もういいや、って数年前から分かってたのに。

我々は、他人の動きが自分より劣っているのを見ると、あんたは頑張ってないとか、できないのではなくやらないだけだとか、苦労知らないから弱音をはくんだとか、自分の適性が才能だとも知らずに相手に非情なことを言ってしまうものだ。私は上記の不得意なモノが寄り集まって社会性が無い人になってしまった。だが、例えば外国語の勉強ができない、分からない、という感じが理解できないと思う。特に発音とか。やった分だけ、使って間違えた分だけ知識は広がるだけだと私は思っている。だから、そこそこのレベルまでやれる。韓国語はこれから更に磨きをかけて使い物になるものにしていく。

でも、多分、英語なんて教科書見るだけで吐きそうな人もいると思う。

仕事を辞め、改めて探し始めたが見つからず、無職が本格化した辺りで、塾講師で英語を教えるのはどうかな?と思ったりもしたが、私は数学や物理がマジで無理だったのを思い出し、英語が苦手な子供に教えるのは無理だろうなと思ってやめた。中高レベルの英語の試験のロジックを丁寧に説明する自信はあるが、言語化されない、分からない人の気持ちに寄り添えるだろうか?

現代国語の成績は毎回赤点レベルでダメダメだったけど、古典や漢文は外国語のつもりでやっていたので実は予習が嫌じゃなかった。むしろ好きだった。勉強すれば点取れたから。

じゃあ、私が今目標としている日本語の先生になるのはどうなんだろうか。多分、わかんない気持ちを想像するために今勉強しているのだね。沢山の「分からない」「もうやだわ!」をこれから見て学んで、プロの先生として成長できるかどうか。不思議だけどね、出来そうな気がしてる。社会性が無い分は表面的な社交性が補ってくれているため、私は、人当たりは悪くない。

ただ社会性が無いため、相手との距離を計りかねることがしばしばあり、主に私の方の期待値というか一方的な思い入れが強すぎて、人が離れて行ったり、或いは自分が自爆事故を起こす。しかし、あくまでそれは友人関係のこと。教える人としては何とかしようと思う。できそうだから。

こんなふうに前向きになれるまで少しだけ時間がかかったが、「できない人の気持ち」を別の形で知っている自分、最初の職場で虐められた自分、その過去を克服したかったけど挫折した自分、それを克服できなかったから別の道を選んだ自分を忘れなければ、色々人を困らせたり自分も困り果てた体験が、少しは他人と自分の役に立つのではないかと予感している。そうなったとき、初めて、社会に対する潜在的な怒りと恨みとうまく付き合えるようになるかもしれない。

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