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インドのホラー映画は怖くない?

この記事についてはTwitter上のインド映画好き達が様々な感想を述べており、むろん私も気になった。

この件は記事の中の最後の一文

「どうもインド娯楽映画の形式や行楽気分のインド人観客、そして何よりインドの風土と幽霊などとは相性が悪く、日本のホラー映画ファンを唸らせるようなインド製ホラー映画にはまだほとんど出合えていないのが現実である」

に尽きる。好みの問題と、ホラー映画リテラシーの違い。

※個人的にはホラー映画は怖くなくても鑑賞価値があると考えている。また、最後に書いたように、私は日本のホラー映画ファンだが、怖さという意味でも唸っちゃったインドホラー映画もあるよ

あるホラー映画が怖いかどうか」というのは、「あるドラマ映画が泣けるかどうか」よりも普遍性に欠けるように思う。ホラージャンルが嫌いな人がいる第一のハードルの後に、第二ハードルの視聴者個々人の好み、そして第三に、超自然的なモノに対する解釈と表現には国や文化による偏差が大きいというハードルが我々を待ち構える。

①日本のホラー映画はどうかな?

私の考えでは、今の日本人が最も怖いと思うのはサイコサスペンス的なホラーだと思う。私は、最近の日本映画に限定すると、超自然要素が無い映画(『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)等)の方がずっと怖さを感じる。サイコサスペンス度の低い、ストーリー性重視のかつての怪談ものは盛りが過ぎたように思う。例えば『来る。』(2019年)は、日本的な妖怪の怖さと現実に起きている社会的な歪みが上手く繋がっており、ここ数年の日本ホラー映画の中では一番好き。怖いと言うより不憫さで泣けるっていうのももしかしたら、古典的怪談の楽しみかも。まあこれは原作が優れているんだけど。

他方、純粋に超自然系ホラーの『鬼談百景』(2015年)や、特に『不安の種』(2013年)では、やたらと変な人に付き纏われる気持ち悪さが恐怖に勝っているように思われた。怖さと生理的嫌悪感が混同されており、そこに、サイコサスペンス的な怪談の隆盛を感じる。

今も人気のネット怪談は、差別、虐め、モラルハラスメント、虐待、性愛関係のもつれ、ストーキング行為、痴漢、強姦犯、問題のある会社の先輩や近所の人など…現実的に悩ましい存在に対する不快感表明を肯定する機能を持っているように思う。そして、ストーリー性や「因果応報」的な宗教物語感も漂わせていたかつての「怪談」からは離れている気がする。何というのかな、人情が無いのにウエットなの。

では、「怪談映画」全盛だったとされる昭和三十年代の日本映画はどうだろう。大澤浄「新東宝のお化け映画と『東海道四谷怪談』 ジャンルの復活と革新」(内山一樹編著『怪奇と幻想への回路  怪談からJホラーへ』)を読んでみた。そこでは、柳真沙子「怪奇映画と観客」(『キネマ旬報』187号 1957年7月下旬号』※まだ読んでいないけど、この号は怪奇映画特集が載ってるので後で必読)という論文に言及しつつ、女性観客が女主人公の悲劇に共感し、悪が倒される様にこぎみよさを感じるような、女主人公=お化けとの情動的連帯におばけ映画体験の意味を見い出している…というように紹介している。怪談映画が「ザマミロ」的な快楽を体験する娯楽としての機能もあったということか。日本人が昔から百物語でそういう怪談を楽しんできたことを考えると、「日本人がホラー映画ないし怪談映画を心底震え上がりながら消費して来たか」というと、もっと色々な楽しみ方をしていたのだと思う。

②ホラー映画は震え上がる程怖くなくてもいい

怪談ドラマものや、心霊ラジオ番組が流行っていた八十年代に子供だった私も怖がっていたが、今思えば大人は、怖がる子供を見て楽しんでいたのではないかという気がする…。

そして、アメリカ人は大人も子供もはっきりホラーを楽しんでいるようだ。ハロウィンのときに公開されるホラー映画は毎年ヒットしている。昔ディズニーがミッキーマウスの幽霊エピソードをいくつもユーモラスに作っているところを見ると、日本のゲゲゲの鬼太郎的なウェットで暗い子供向けコンテンツの要素は皆無。それを見て日本の映画ファンは「アメリカのホラーは怖くない」と言う。一つには宗教などの文化的相違があり、もう一つは、ハリウッドのホラー(少なくとも80年代以降)が、キャアキャア言いながら怖がることを楽しむことを意図して作られているからなのではあるまいか(日本の『リング』『呪怨』、タイの『THE EYE』、韓国の『箪笥』がそれぞれハリウッドでどう脚色されたかを比較するのは面白い)。そして、ホラーの娯楽的要素は、恐らくどの国の映画消費にもあるはず。

なお、1970年代のアメリカのホラー映画(『エクソシスト』や『キャリー』等)は、本気で震え上がることを意図して作られていたと思われるが、文化的差異のため、日本人にはさほど怖くなかったかもしれない。対照的に、九十年代のサイコホラーブーム期のハリウッド作品の怖さは、文化的個性を超える普遍性…こんな人が隣にいたら困るというメッセージがちゃんと日本人にも伝わっている。

③私のパヨクセンサーが邪魔するの

今年の田中秀夫監督のヒット作『事故物件 恐い間取り』は、日常に潜む悪意や危険の兆候(アパートで階段を駆け上がってくる男の幽霊=性犯罪者?とか)も織り込んで結構怖い一方、キャアキャア言いながら怖さを楽しめるような作りになっていたと思う。その軽さは、元の引用記事の観点から言えば、ヒンディー映画『ストゥリー 女に呪われた町』と似ていた。あの作品は、「女って怖いよね〜好きだけど」というパリピ男子目線の魔女映画の系譜にあると思う。

その系譜では、スペイン映画の『スガラムルディの魔女』(2013年)がある。スペイン映画の名ダメ男役者ウーゴ・シルバと、嫌なハンサム男No. 1のマリオ・カサス(火サス!)をキャスティングしている。多分クマール・ラーマラオはマリオ・カサスと等価なのよ!!

ところで、魔女は、ちょっとドラァグクイーン的なオバジ精神が見えることもあって私は大好きだが、私のパヨクセンサーがミソジニー警報を発するので途中で余計な思考が邪魔してくる。「強い女は怖い女」→「悪い女」→抹殺すべきというキリスト教或いは一神教的な歴史的脈絡がはっきり認められるためである。

一方で、「強い女」概念がバカ男(というか男社会)をめたくそにする描写は、ここ数年、ネットフェミニズム運動の波を受けて、サメ映画wに次いで人気の映画的快楽である。その意味でトップランナーのシャーリーズ・セロンは、マッド・フェミニズム怒りのデスロードを2003年辺りからずっと走り続けてきた。『オールド・ガード』は、シャー様がアフリカのデスロードを徒歩で数千キロ歩いてアフガンに達している。シスターフッド、千年くらい続くモノガミーゲイカップル、人種への配慮、アフリカへの手出しなど、この時代を象徴する作品である。

『スガラムルディの魔女』と『オールド・ガード』は同じもの(怖い/強い/怒っている女)を正反対の意味づけで描写していると思う。しかし、どちらが私のパヨクセンサー(ツイフェミセンサーと言ってもよかろう)に引っ掛かるかと言えば、圧倒的に『スガラムルディの魔女』なのだ。非常ーに皮相的な違いなのにね。

ポリコレ・フィルターでは「ダメ」と出てきても「すごく面白い」という身体感覚が勝る映画というのは絶対ある(私にそれを教えてくれたのは『シカゴ』(2002年)私は妥協のない映画シカゴ学派!!!)。一見「差別的だ!」と見える映画が、よく見ると全く正反対のエンパワーメントにもなり得る。そして、ポリティカリーコレクトだからと言って何の偏見も滲んでいないとは言えない。

「サイズが少し合わない服」を着ないと社会に出られない仕組みに囚われて生きる自分が、様々な現実とどう折り合いをつけるか?の問題なのかな。そのときに「自分が好きなもの」を否定すべきではないと思う←これはパヨクリハビリをやっても尚パヨクの治らない私が言うのも何だが。自分の身体感覚(欲望)を否定する人は、他人のそれも簡単に否定する。頑張ればできるはずだと思うからね。欲望って、表面上否定してても違う形で出てきちゃって、それを自己否定して捩れていく…。

さて、少し戻って、上記大澤論文は、中川信夫監督『東海道四谷怪談』(1959年)は、人間の内面を映像化する表現主義を多用しているのに伊右衛門の心だけが全く分からない作りになっていると指摘している。自我や自意識のからっぽな、社会性の器でしかない伊右衛門は面子とか獲得感情みたいな男性的欲望の集合体としてできあがっており、自我を覗き込むと、優柔不断かつ大変精神的に弱いキャラである。これって、男性は観てて怖いか不快だったのではないだろうか。中川信夫版の四谷怪談は、本当にお岩が気の毒になる作りで、一見しなくても女が武家社会の犠牲になった物語なのだが、伊右衛門に同情の余地は無く、お岩も気の毒一辺倒であるが故に、復讐の味は格別で、女性客はニヤニヤしたのかも知れない。

④インド映画の怒れる女神モチーフ

最初の話に戻る。インドのホラーは何故怖くないのかを考えるには、インド映画にとっての超自然現象描写の意味は何か?という点も検討した方がいいのかもしれない。最近日本でも公開された、アヌシュカシェッティ主演『Bhaagamathie』(2018年)は心理サスペンスとオカルトホラーのバランスが大変よかった。

同じくアヌシュカシェッティ主演の『Arundhati』(2009年)は、華やかな歌と踊りのシーンもありながらちゃんと悪魔祓い・退治のホラーになっている(下記シーン参照)。そして、怖いかと言われたら、私は怖くないけれども、文化的想像力の領域の話にもなるような気がする。

『Arundhati』はのちにベンガル映画でもリメイクされた。本作では、悪魔祓いはもっぱらムスリムの仕事だが力がいまいちで、結局ヒンドゥーのモチーフである怒りの女神パワーで魔を滅ぼすという展開が面白い。タミル映画『パダヤッパ いつでも俺はマジだぜ』(1999年)では、ラジニカーントにコケにされたラームヤ・クリシュナンが怒り狂って踊る。あれ、私には滑稽なのだが、あれは怒る女神モチーフだから畏怖を感じるべきかもしれない。

上記も、女に化けた蛇が、明らかに悪辣な蛇つかい(眉毛!)の笛で正体を暴かれるのだが、いちいち着替えてから蛇使いの前に出て来ることと、律儀に蛇踊りをするシュリ・デヴィのせいで、畏怖の念もありつつ、私にはちょっと滑稽。

私の観たところ、インド映画の超自然ホラーが怖くないのは、途中から日本昔ばなし感が出るせいかもしれない。日本ならばアニメで十五分で終わらせるような宗教説話を二時間半にわたってこってり描くのがインド映画。

上記映画はホラーでもファンタジーでもないのに、最後に女の怒りが引き起こした超自然的な力で大洪水が起きている。もはや神の領域。インド映画における個別の超自然現象は神の力の前には些末過ぎて怖くなりようがないのではあるまいか。南インド映画では、ヒーローが神がかると直ぐ現実超えてしまうし、現実と空想を明確に区分していないとも聞いたことがある。

なお、最初に引用した記事は、インドにおける、英国由来とみられるゴシックホラーの系譜についても言及している。Netflixを観ているとそれも多いに感じるが(『タイプライター』とか)、

やはり土着のヒンドゥーの考え方の前には説得力が弱く、「外来」感が否めない。

結局、筆者にもしオバジ心でアドバイスするとしたら

もしよかったらぁ、ね、いいの、ホラー嫌いでもぉ、だけどね、色んなホラー映画、怪談映画を観てぇェエエ

に尽きた。ごめんなさい。

⑤おまけ:とっておきのインドホラーがありますぜ旦那

それでもやっぱり、インドのホラーが怖くないことに納得が行かないんですかい旦那…?『Tumbbad』は、そんな旦那さんにとっておきのがありますぜ…

インド特有の欲望戒め系の因果応報物語(つまり、アニメ『日本昔ばなし』の怖いエピソードみたいなのを百倍位に濃くしたやつね)でありつつ、描写には、80年代ハリウッド的なチープな気持ち悪さがうまくミックスされている。その気持ち悪いビジュアルが怖さ=戒めとして機能しているし、最後まで物語にとってその造形や怖さに意味が感じられる。ちなみにインドでも映画としての評価が高かったらしい。

他方、怖さを意図した作品ではないが『パドマーワト 女神の誕生』(2018年)なんて、歌も踊りも豪華絢爛でありながら、破滅の物語でもあって、充分に怖い。あれに超自然的ホラー要素を足したらホラー作品になると思う。何が言いたいかと言うと、歌と踊りの有無と怖さは関係がないだけでなく、見せ方によっては相性が非常によいってことよ。

おまけのおまけ:韓国の怪談読み上げ動画が好き

私は、日本的な怪談ももちろん怖い。最近、眠れない夜の子守唄として、勉強もかねて韓国の怪談読み上げ動画を聴くんだけど、日本のは怖くて聴けないの。韓国の怪談は、日本と似ているが、①幽霊の8割は恨み女、②具体的な文句を述べ、気が済んだら直ぐ消える、③幽霊(鬼神)がフィジカル暴力を行使する、④妖怪や神的存在にバリエーションが無い、等の日本的でない特徴があるので、私も楽しめる。ちなみに彼氏はベンガル語の怪談話を聞きながら寝ているらしい。同床異夢の日印カップル…

なっげ…

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