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ソーシャルスリラーとホラー映画から見る現代社会 ⑧陰謀論に共鳴する私の弁明

前に紹介した西崎憲は、アメリカの都市伝説と陰謀論好きな傾向について以下のように書いている。

都市伝説がつねに「解釈」というかたちになることに注目してもいいかもしれない。まず、解釈されるべき事象が与えられ、つぎにその解釈が現れる。そこに自分をとりまく世界、ひいては自分というものを解釈したいという欲求を見てとることは可能だろう。都市伝説の解釈は因果という形で現れることが多いが、因果とは、物事の存在する理由である。それは、つまり存在意義にも似たものである。都市伝説には、物事の意味を見いだして、安心したいという欲求が隠れているのかもしれない。あるいは解釈を許さないものに囲まれているので、それにたいする無意識の抵抗として、都市伝説は現れたのかもしれない。いずれにせよ現代のアメリカ人たちが自分たちを取り囲むもののなかに、隠された意味やコードを探しだそうとする傾向が強いということはおそらく事実だろう。そういえば、アメリカ人たちは陰謀について語るのがじつに好きである。共産主義者の陰謀、ユダヤ人の陰謀、黄禍、黒禍、宇宙人等々。ニューイングランドの人々は、落雷にあたった者の生活のなかに罪を探しだし、因果を読みとったわけであるが、二十世紀のアメリカ人たちも、心性においては、さほど変わっていないのかもしれない。(ベン・C・クロウ著『アメリカの奇妙な話1 巨人ポール・バニヤン』336~337ページ)

アメリカ人の心性の中での都市伝説と陰謀論の近さについて指摘しているのが面白い。日本における都市伝説は、「ピザゲート」のような政治闘争まがいの陰謀論的な意味合いを帯びることがほとんどない。

隠された「悪」を探し出し、それによって「私の支持する正常なアメリカ」の輪郭を作る。アメリカのホラー映画が最も得意とする悪魔映画や、その相似形であるソーシャルスリラーははっきりそうした傾向を有している。イギリスのホラー作家クライブ・バーカーは、小説「ミッドナイト・ミートトレイン」(『ミッド・ナイト・ミートトレイン』集英社文庫)の中でアメリカ人の陰謀論好きについて書いている。NYで起こる猟奇殺人事件について登場人物が「あいつらのやり口」について「おれたちをだましつづけるつもりでいやがる」と「陰謀論」を開陳したことについて、主人公カウフマンは「それはそれで魅力的な説のような気がしてきた」として、こう内省する。

その説が気に入った理由は自分でもわかっていた。愛する街に罪をきせたくないのだ。この事件を街の責任にしたくないのだ。しかし、カウフマンも、心の底では割りきっている。地下鉄のトンネルで、いずれ見つかる怪物は、人間以外の何者でもない、と。(17ページ~18ページ)

カウフマンは、陰謀論に対して幻滅した態度をとっているが、これはアメリカ文化に対するイギリス文化からの目線ではないかと思う。アメリカでは、ピザゲートのように悪魔崇拝に紐づく現代アメリカの陰謀論を、マッカーシズムから繰り返された社会的パニックとして説明する視点もある(このような形で政治闘争が行われる)。この陰謀論というのは、全ての立場を取る人を誘惑して取り込んでしまう。戦乱の裏には必ず隠れた大きな悪意があるはずだという考え方にコロリといってしまう人間が世界各国に出現する。例えば私である

私は、陰謀論などには自分は騙されない、自分はそのような数ある思考法・見解の中から自分だけの方法で真理に近いものを選んでいるのだ、という思い込みを持っている。「ピザゲート」は信じないが、西側諸国の策動はぼんやり信じている

まことに偏っているではないか。自分の外にモンスターを必要とし、「正常」の中にその都度の自分たちを代入して安心しようとするアメリカのホラー映画の発想法と、私の考え方はここにおいて完全に一致している。また、この考え方には、「絶対悪」を外に置いておくことによって、自分が責任を感じないで済むという慰めと、「他の人が見ていないものが自分には見えている」という快楽がある。多分私はこの見方をやめないのだろう。奇妙なことに、アメリカ映画が大好きな一方で、アメリカを「絶対悪」としておきたい意思が私の中に息づいている。そこに全く矛盾を感じなかったのだが、その矛盾に自覚的でないが故に、ウクライナ戦争という現象に対しては解像度の低い思考しかできないのかもしれないという疑念に愕然とした。

そもそもソーシャルスリラー映画について何かを書きたいと思った動機が「悪を暴いて批判してやりたい」という、ソーシャルスリラー的な欲望だったのではないだろうか。恥を暴かれた気持ちになった。そういう陰謀論と相性の良いアメリカホラーを愛する自分とは結局、とっくの昔にアメリカという得体のしれない巨大な国体に取り込まれているのである。

アニメの『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』(2013年)を思い出す。仲間たちと共に魔女と戦う理想の魔法少女になった暁美ほむらがある日自分の住む世界に疑問を持つ。その疑念はどんどん膨らみ、遂には、自分の願いが作り出した思い込みの世界に安住している自分を発見する。それは「悪」であり、自らが仲間と(特にまどかと共に)打倒したいと思っていたはずの在り方だった。それがまさに自分自身なのだと知ることはつらい。しかし最後にほむらは自分の欲望を生きる方を選ぶ。

何となく「悪いこと」と思っていたことを自分自身が実践していたと気が付く。そのときに大きな視点の転換をするかどうかと迫られる。転換してしまうと、「悪」が悪ではなくなり、自分の伴侶となる。すると、なぜそれを恐れていたのだろうかと疑問に思ってしまう。それはそれで人生には必要なことではないだろうか。私にもまた転換期が訪れるのだろうか。

「悪」はいつもすぐそばに

ソーシャルスリラーは、現実に存在する人々を紐づける形で「悪」を描き出しつつ、実は陰謀論的な発想に乗っかって我々を楽しませている。現実に紐づかない形で「悪」を描写すれば、悪魔映画にできる。どちらの作品群も、「悪」が自分の外にあることを前提としているという点では相似形なのである。そしてその点で政治闘争向けだ。人類向けではない。アメリカ国内向けなのである。

私が映画の中で目にして理解したつもりになっているアメリカ国内の価値観の対立や動揺も、実は虚構なのだろうか。私が元々持っている反米感覚と、それと相反するようなアメリカ映画への憧れと賛美は、私の中に捻じれた陰謀論の亜種を産んで終わってしまった。正直言って、日本の流れにはとっくの昔に乗り遅れていたが、その外の世界の流れにも乗り遅れているように思う。

他人事としては、陰謀論によってその人が元気になるならそれでもいいのではないかと思っていた。しかし、自分のウクライナ戦争に関する意見が陰謀論的だと他の人に言われてみて初めて思ったが、私にとって陰謀論者とは恥のレッテルなのだ。陰謀論者に対する見下しが私の中にあるのだろう。それは、『タッカーとデイル』に明らかな、進んだ都会人⇒未開の田舎人への蔑視と何が違うのだろうか。また、同作に出ていたように、自分自身が実はその見下していた対象そのものだったのだと発見する体験はあまり楽しくはない。

「悪」は自分ではないのだと切り離すアメリカのホラー映画の思考法は、自分の犯した罪に一つの区切りをつけてくれる一方、抑圧的に作用することもある。また、集団レベルで実践すれば、他者集団を憎み徹底的に破滅させたいという政治的な欲望が高められる。旧世界を捨て、西へ西へと拡大を続けて来た国家にとってはそれがエネルギー源となって来た。したがって、どこまでも、そのような分断志向が必要なのかもしれない。

私は、上記のような分断志向をあまり隠さない80年代アメリカ映画、つまりは「悪」が自分の外にあると描く作品を好んで観て来た。一方で、自分の中に自分と不可分の存在として「悪」が存在すると描くタイプのホラーも存在する。このジャンルに気が付き、自分がそれに惹かれていると気が付いたのはここ数年のことである。この作品群の主人公たちはほぼ全員が人生に困難を抱えており、それに付随する形であったり、全く思いもよらない形で怪異と直面することになる。そしてそれは、自分の中にある狂暴性や暴力、醜い欲望等を発見し、見つめ、対決し、そして自分の中に取り込んで成長していく過程に他ならない。

「悪」を飼い慣らせ

豪州ホラーの『ババドック~暗闇の魔物~』(2014年)はまさにこれを描いていると言える。同作は幼い子供を育てるシングルマザーの苦闘を描いている。学校では、お宅のお子さんは問題を抱えていると言われ、車の中では子供がぎゃあぎゃあ騒ぎ、我慢の限界に達する母親の般若の形相は恐ろしい。それでいて手を抜くことはできない(それはしたくないのだと思う)。そこへ、子供を狙う怪異が出没し始め、子供への対応と魔物の両方を相手取ることを余儀なくされる母親の物語である。怖いと言うより、不快感やストレスの方が強い作品だ。

この作品は、魔物(モンスター)をどう取り扱うかという点において、アメリカの、特に私の好むような(と敢えて言うが)悪魔祓い映画やソーシャルスリラー作品とは大きく違っている。母親は、魔物を怯ませた上で、自分の家で飼い慣らすことにしたのである。最初は得体のしれない存在だった魔物「ババドック」は、最後には大人しいが油断のできない猛獣ペットと化した。これはいうまでもなく、母親が自分の中にあるモンスター性と向き合い、自らが主導権を握ることに成功し、一旦モンスターに勝利を収めた過程なのである。

しかしここで強調しておきたいは、母親がモンスターを打倒しなかったことだ。それは自分自身の中にある好ましくない感情さえも、自分なのだと引き受けることである。悪魔のせいだと考えて悪魔祓いをし、その実自分を抑圧する(それだって方便の一つだと思う)アプローチとは全く違っている。

『ババドック』は、母親として子供に見せたくない顔を次々に見せてしまう作品だ。でも人間は強いストレス下に置かれるとわずかの時間でそのように変貌するものだ。「こうなりたい」「こうあるべきだ」という理想を持って接しても、子供や病人は次々に保護者・介護者の理想に挑戦し、彼らのちっぽけなプライドをぶち壊していく。その後に残るのは疲労感とやり場のない怒り、そして自己嫌悪である。否応なく、自分の中に隠れている「悪」と向き合わされるのだ。それは『エクソシスト』の「悪魔」のしていることと同じである。他人と関わるということは、少なからずそのような体験を含むものだ。

悪魔との関係が変わっていく

米国の悪魔は嘘を見破り真実を突き付けて喜ぶ露悪的な存在である。一方、所謂ダークファンタジー映画では、最初は悪魔のように見えた存在と主人公との関係が次第に変化していく。最初は正体が分からない存在に怯える(ホラーの段階)。しかし、やがてそれが主人公と対話するようになる(ファンタジーの段階)。最後は、その存在が主人公の中に組み込まれるか、或いは主人公がその存在を乗り越えてしまい、主人公は勇気をもって現実世界に還っていく。この種のダークファンタジーでは、ホラーやファンタジーの段階は、主人公以外の人物から見て「客観的に」実在してもいいし、しなくてもよい。ホラーやファンタジーを愛する者の中には、超自然的存在が現実の中に存在してほしいと考える人もあると思うが、ル=グィンのファンタジー論や、ミヒャエル・エンデのファンタジー『はてしない物語』では、最後主人公は何かを手にした後、必ず現実に帰って来る。「悪魔」との関係の変化を通じ、自分自身が成長していく。それがファンタジーの面白さだ。一方で、関係の作り方を誤ると決して還って来られなくなるとも警告している。『はてしない物語』は、人間とは一人一人が終わりのない物語なのだと言っている。同時に、物語の中に吸い込まれてしまうと、もはやそれは人間ではいられなくなってしまうのだ。

『怪物はささやく』(2016年)は、原作本も優れているものの、子供にとって全てである家族の死を体験しつつある少年コナーの前に怪物が現れ、三つの物語を語る代わりに「お前の真実を語れ」と迫る。コナーには全く心当たりがない。物語が進んでいく中で彼が最後にたどり着いた真実は、それを認める位なら死んだ方がまし、と『ダーク・アンド・ウィケッド』の母親が想像したであろう種類のものだ。彼はそれに対決し、自分のものとすることで、家族の死を受け入れる力を得る。『バーバラと、心の巨人』(2017年)も似ている。

怪異よりも怖い現実を扱う「ソーシャルスリラー」

また、悪というものが否応なく外から襲い掛かり、悪に取り込まれそうになる子供を描くホラーもある。メキシコ映画『ザ・マミー』(2017年)である。ギャングによる誘拐殺人が横行する街で、親が失踪してしまった子供たちが、死者の声に怯え、やがてその声に導かれて、現実世界のギャングに対抗する勇気を得る物語である。同作の子供達は、その年齢にして既に残酷さや暴力に取り込まれてしまっている。ギャングへの憎しみから自分自身がギャングのようになっていく。そのような過酷な現実を子供のセリフで語らせている。そうすると、観ている側としては、もはや怪異のシーンの方が怖くなくなって来るのである。グアテマラ映画の『ラ・ヨローナ~彷徨う女~』(2019年)もまた、怪異のシーンの方が怖くない。過去の軍の横暴が生んだ悲劇をラテンアメリカに伝わる女幽霊の物語に寄せて描いている。

上記の作品を思い出し、改めてアメリカのソーシャルスリラーのことを考えた。アメリカのソーシャルスリラーと、このように社会に実際に起きている悲劇や苦痛をホラーの形に取り込み、悪と対決して打倒する物語は、ソーシャルスリラーとは言わないのだろうか。これは最初の方で触れた、武家社会の抑圧的システムが生んだ悲劇としての『東海道四谷怪談』はソーシャルスリラーと何が違うのだろうかという疑問に繋がる。

実はこれについては明快な答えを持っていない。感じとしては、「悪」との向き合い方がどのように描かれているかがキーではないかと思う。また、「この集団を排除すればいいんだ」というメッセージが透けて見えて来るアメリカのソーシャルスリラーに比べ、上記『東海道四谷怪談』も『ザ・マミー』も『ラ・ヨローナ』も、一旦怪異は去っていくものの、生きている者にとって忘れがたい足跡を残していく(『四谷怪談』では関係者が皆死んでしまうが)。怪異の描写を全て抜き去っても物語が依然として成立しているという点が、『ダーク・アンド・ウィケッド』同様、大きく印象を変え、私にとって忘れられない印象を残しているのだろう。

そもそも、ソーシャルスリラーという区分け自体が、私がアメリカ映画に投影している欲望から出来上がった虚構なのかもしれない。この点についてはいつか分かるときが来ればと思う。

案外長くなってしまったので今回はここで終わりとする。やっと終章に入れそうな気がして来た。次回は、人類の先進的な社会実験場である北欧ホラーを眺めた後、本質的に差別的なものを織り込んでいるアメリカのホラー映画と私がどのように関わって行くのかという点について考えて、この長い拙文を終えたい。

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