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ソーシャルスリラーとホラー映画から見る現代社会 ⑥アメリカホラー映画を彩るLOVE

LOVEはアメリカを救う

今回はソーシャルスリラー性が全く無いホラー作品群についても見て行きたい。アメリカホラー(のみならずアメリカ映画自体の特徴かもしれないが)の中で愛されて来た物語の一つは、「超自然の絶対悪」対「モノガミー家族の愛」の対決で、後者が前者に打ち勝つ物語である。

今回は少々本筋から外れるが、私のアメリカ映画に対する歪んだ愛憎とこの件が案外結びついている気がするため書いてみた。

ソーシャルスリラーの立役者としてブラムハウス社に言及してきたが、最初に同社がその名を知られた作品は、低予算+アイデア一発勝負で世界的ヒットとなった『パラノーマル・アクティビティ』(2007年~)シリーズである。同作の第一作目は超自然現象に若いカップルが立ち向かう物語であり、言わばアメリカホラーの鉄板ネタ。その結果が敗北であれば怖いし、勝利なら爽快だ(ただし勝利すると続編は作りにくくなる)。同社はまた、ある一家に悪魔が取り憑く恐怖を描いた『インシディアス』(2010年~)シリーズを製作、ヒットさせた。これは現在もなおヒットしているユニバーサル社のホラーシリーズ『死霊館』(2013年~)とも根本的な形式は共通している。

この種の物語の中での「悪=モンスター」に対抗する「正常」の立ち位置には、概ね皆が安心できるものが代入されている。要するにマジョリティの物語だ。マジョリティ性は、ソーシャルスリラーの脈絡ではあまりよいこととしては捉えられない。マルクス主義的映画論者のロビン・ウッドなら、もっと進んで打倒すべきものと言うだろう。とは言え、彼自身もパートナーがいたのである。

例え、片親の家であったり、同性パートナーの家であっても、カップルや親子、友人同士、他人同士の間で生まれるLOVEを全面的に肯定している物語は、多くの観客に安心感を生む。アメリカにおいて「LOVE is LOVE」という合言葉は、同性婚の連邦レベルでの合法化の前に聞かれたが、LOVEはアメリカの社会がインクルーシブになれる可能性を秘めた概念の一つではないかと思う。しかしながら、その後やってきた「ワタシ・セクシャル」の洪水(LGBTQxxxxx∞)はまず核家族のLOVEを拒否し、やがて子持ちの同性愛カップルも、異性愛カップル同様、そのマジョリティ性を批判されるような気がしている。皆が本心でそれに耳を傾けるかどうかは分からないが。

アメリカ映画の中のLOVEは、神様からチャージされたLOVEである。特別だ。日本人の私から見るとアメリカのホラー映画にはLOVEが溢れかえっているように見える。反対に、日本のホラーで「愛」でモンスターに打ち勝ったと見える作品がほとんど思いつかない。アメリカ風だと銘打って宣伝・公開された『スウィートホーム』(1989年)では、モンスターと対峙させた力を、宮本信子演じる主人公は「愛」ではなく「心の力」と呼んでいる。『異人たちとの夏』(1988年)のように、幽霊を愛してしまった悲しい物語は存在するものの、愛によって魔物を倒しているように思われない(ところで、あの作品でもし「愛」が幽霊を追い払ったのだとしたら、同性愛の物語のように読める。永島敏行がいかにもだ)。

日本は、伝統的には、裏切りによって非業の死を遂げた女の霊が復讐のためこの世に留まるタイプの文化(東アジアからインドまで確認できる)である。また、あの世まで死んだ妻を迎えに行ったのに姿を見たらキモくなって逃げ帰ってしまったという、イザナギとイザナミの国だ。愛というよりも執着と言った方がいいような物語である。『リング』(1998年)では、最後、松嶋菜々子演じる主人公は、愛なのか欲望なのか分からない感情に突き動かされ、結局怪異の望み通りに動いている。

子供時代に『ポルターガイスト』等の家族愛ホラーを観たとき、「この一家はこんなに愛し合っているのに、自分の家では違うなあ」と思ったことを覚えている。それが何なのか分からなかったのだが、違って当然だったのだ。何となくうらやましいような気持ちを持ち、自分の家のことを寂しく感じた。もしかすると、超能力少女や、同作の霊界に連れ去られる少女にやたらと感情移入してしまうのは、この時期の気持ちが影響しているのかもしれない。時が過ぎて色々経験し、アメリカの家族も見た目ほどLOVEに溢れてはいないことがホラー等の中で繰り返し描かれ、LOVE=愛は見えにくくても、お互いを思い合い、労わることを学ぶことのできる日本の家族の在り方について考えるようになった。

豪州映画の『レリック ー遺物ー』(2020年)は少々違った印象を残す。認知症の祖母と過ごす中で血族の秘密を知った主人公が、血族という因習に還っていくことを選ぶ。LOVEを讃えるよりも、家族という呪いに取り込まれていく物語と見える。そこが独特だった。私としては、ソーシャルスリラー的なものを期待して観たら肩透かしだった。父親が不在という点が肝要なのではないかとも思ったが。監督の祖母は日本人で、監督が日本で祖母と会った時の体験がベースになっていると語っているため、日本的なものを入れたと見るべきなのかもしれない。

アメリカ映画はそうはいかない。どんなにいがみ合っていても愛し合っているから、LOVEがあるから大丈夫だと自分に言い聞かせ、毒母に目をつぶる結末を選んだ娘を描く『8月の家族たち』(2013年)の世界が健在だ。同作は非ホラーだが、作中の母は完全にモンスターだ(メリル・ストリープはモンスターを演じるために女優になったのではないかと思う程すばらしい)が、許されている。八十年代の感動作とされた『愛と追憶の日々』(1983年)は今観ると発達障害ホラーだが、アメリカでは今でもそう言われないのだろうか。私の理解している豪州映画なら、必ず残酷な形で落とし前をつける。コメディと見せかけた血も凍る豪州映画『ミュリエルの結婚』(1994年)を観よ。そこがアメリカとの温度差。豪州ホラーには湿度と暗さが付いて回るのだ。必ずしもLOVEが勝つわけではない。また、日本ならば、誰かの(多くの場合は女性の)我慢に吸収されることになる。『嘘を愛する女』(2018年)には顕著だ。そう考えると、『おくりびと』(2008年)の主人公の妻は、我慢戦略と生殖戦略をその都度使って主人公を責め立て、一貫性は分からないものの、なかなかに主体的に生きていると見える。

ホラーだと思わなかった母娘映画『ボルベール 帰郷』~スペインのホラー~

スペインの映画監督、ペドロ・アルモドバルは、ホラー映画への興味を以下のように語っている。

僕はホラーというジャンルのいろんな点に興味がある。まず、ホラー映画は、僕たちの恐怖を描くんじゃなくて、僕たちのなかにあるもっとも謎めいた部分、すごく人間的なものを描いている。それからホラー映画は、人間の身体という材料を加工する。ただし、ほとんどシュールレアリスム的な視点からだ。身体は切断され、変形し、映画の風景になっている。その風景のなかで、すべてが起こる。そういうのはとてもおもしろい。それからホラーは、とても開かれたジャンルでもある。ユーモアにさえ開かれている。いろんな誇張を許容する。そういうところがすごく好きだ。(フレデリック・ストロース編石原陽一郎訳『映画作家が自身を語る ペドロ・アルモドバル 愛と欲望のマタドール』フィルムアート社、144ページ)

ここまで興味を語っている彼がホラーを撮っていないのは不思議な気もしたが、上記の本の中で『ボルベール 帰郷』(2006年)は幽霊譚だと明かしている。

五〇年代にラマンチャで子ども時代を過ごすということは、たまらなくおそろしいことだった。少なくとも、僕には堪えられないことだった。でも、五〇の坂を越えて突然、僕の当時の生活や、母のことや、近所の女性たちのことを考え直してみた。で結局、そういうものは僕の子ども時代の幸福な一部分だったとわかった。こういう女性たちは、僕にとって、人生の出発点そのもの、人生の祝福そのものだったんだ。それから、フィクションの出発点でもあった。だって、僕が幽霊の話、死んだ人が戻ってくるという話を聴いたのは、この頃だったから。そういう恐ろしい話が僕の心に深く刻み込まれた。(前述書322ページ)

と語っている。同性愛者であるアルモドバルにとって、フランコ政権下の田舎という場所は厳しい場所だったのだと思われるが、後から思い返した故郷の風景を三代の女性の物語として描き出した。同作のLOVEは女性から女性への家族や友人としての愛である。分かり合えず、疎遠になり、死んだ母親を思い出しては恋しさと憎しみで胸を痛める娘のライムンダは、自分もまた、母親として娘の危機に直面したことで、初めて母親の気持ちを考えるきっかけを得る。そこへひょっこり戻って来た母親を本当に幽霊だと解釈しても話のつじつまは合う。日本の漫画『寄生獣』で「あなたの胸にある穴を開けた相手にもう一度会いなさい」というアドバイスが出て来る場面がある。同作では既にその相手は死んでおり、驚きの形で「再会」するが、ホラー映画は理想の再会を許してくれる。

アメリカ映画のLOVEは宗教に紐づいているため、どことなく強迫観念的なところがあるが、アルモドバルのLOVEは、狂暴で、自分勝手で、一貫性がなく不思議な形を取る。そして大概は歪んでいる。『オール・アバウト・マイ・マザー』(1999年)のエステバン(「あの人は男の悪いところと女の悪いところを持っている」)のように。とはいえ、アルモドバル作品の中では『ボルベール』のLOVEはもっと馴染みやすい。

スペインのホラーはどことなく日本人のような感じで「あちら側に行った幽霊」を信じている。『ボルベール』をホラーとして読むと、日本の怪談の好むテーマの一つ、死んだ親しい人が自分を助けるために、現世に戻って来てくれるという想像力を持っている(中華圏、韓国、インドでの死者は主に悪鬼であるためか、この形式は未確認)。『異人たちとの夏』が近いだろう。最後、イレーネは自らの贖罪も込めて余命幾ばくもないアウグスティナに寄り添う。相手を幽霊だと思い込んでいるアウグスティナは、イレーネに「とてもさびしい」と告げる。アレハンドロ・アメナバル監督『アザーズ』(2001年)もそうだ。『アザーズ』のLOVEは、宗教的な厳格さから来る強迫観念と罪の意識を自らの意思で乗り越え、新しい境地に着地しようとする。

どちらの作品も、同性愛者男性というカソリック的な保守性の強いスペインではマジョリティから外れている存在が製作しているというのは面白い。

今回はLOVEとホラーについて少し考えてみた。こうして考えてみると、私が好むホラーにおけるLOVEというのは、家族愛、その中でも、実際にはうまくいかなかった関係を死後に何とか直そうとする怪異のLOVEなんだなと思う。私は、死によって引き起こされた未解決のまま放り出された数々の謎に答えが欲しいのだろう。それによって、今ある自分がこれでいいのかどうかと確認したいのだろう。自分の家の中に、憧れのアメリカ風のLOVEは見つけられなかったし実際信じてもいなかった。次は、表面的なLOVEを破壊し、その嘘を暴いてやろうという欲望を帯びた存在、アメリカホラーの立役者である悪魔のことを考えてみたい。その中で「アメリカ風のLOVE」の違った顔も見たいと思う。

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