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竹美映画評56 『セイント・モード/狂信』(“Saint Maud”、2019年、イギリス)

今回の『セイント・モード』は、若い看護師の女性を主人公に、信仰は救いになり得るのかと問うている。重病で死期の近い元ダンサー女性アマンダの住み込み介護をすることになった看護師モードは、神によって救われ、常に神を傍に感じる経験から、アマンダのことも救おうとする。初めはうまくいくかに見えたモードの介護は、アマンダが呼び入れた若い女性の登場で躓いてしまう。更に、モードは偽名で本名はケイティーであることが明らかになる。逃れたい過去が追いついて来たとき、彼女の精神はバランスを崩していく。

どうもこれだけではよく呑み込めなかったため、本作が長編デビューのローズ・グラス監督が2014年に撮った短編映画『Room 55』も観た。

こちらは、偶然泊まったホテルで一夜を過ごしたある女性の物語。知らなかった自分の内面を知り、より豊かな、そして自分で自分のルールを決められる人間に生まれ変わることを祝福する作品である。そう考えると、自分の知らなかった内面を旅しながら、益々自分を嫌悪し、自ら進んで「自分の外にあるルール」に縛られていくのがモード=ケイティーだ。彼女は、何かをきっかけに極端な方向に突っ走ってしまう、真面目で余白というものがない人物。彼女の行動は、宗教や神への信仰が反転すると、酒場の社交性、望まないセックスを媒介にしたつながりのような、やはり「自分の外にあるルール」によって決まる。信仰の中にも外にも「自分」がいない。

劇中の超自然現象は、彼女の本音が求めている何かなのだろう(『Room 55』の表現に従うなら間違いなくそう)。体が反応し、セリフで語られない分、嘘が少ないように見えるのである。神を傍に感じるとき、彼女は性的な恍惚を得ているかのようだ。現実のセックスは一方的で不快な体験でしかないのに。そして、アマンダともその体験を共有したと思い込む。実際のアマンダは、病に苦しみ、死をひどく恐れつつも、若い女性と自宅で逢瀬を楽しんでおり、そちらに満足しているのだった。

終盤、モードの前に突如悪魔が出現する。基本的に、一神教ホラー映画の中の悪魔は、我々が心の深いところで恐れている部分を的確に突いてくる習性がある。「自分の外のルール」の方が自分よりも大事なのだから、悪魔の言葉で告発される「自分」というのは隠し、燃やし、抑圧しなければならない。性的な恍惚や、時折彼女に話しかけてくる神の声が悪魔だったのだという解釈も可能ではあるものの、明確ではない。そこが、アメリカのホラー映画『The Unholy』が、聖母マリアの声を聴く少女のことをそのように描くことで、宗教と神が明確に勝利するという流れとは対照的で、面白い。

信仰の命じる大半のことが自分の欲望とマッチする人は、「外」と「内」が自然にバランスを取り、実に経済的に幸せと平穏を得られる。このタイプが、自分が求める真の欲望と、信仰の命令との間に大きな齟齬を見つけると大変だ。より他者に対して抑圧的で攻撃的になる可能性が高い。『NY心霊捜査官』の原作者ラルフ・サーキは本来このタイプではないかと思うが、悪魔祓いというガス抜きを見つけられて本当によかったと思う。

ホラーは個人の救済と、周辺の人々への理解や受容という面で役に立つこともあるのである。うまくいかないと『キャリー』のママのような狂信者になる。ママとキャリーの不幸は、性差の作り出す不公平な社会の犠牲者として表現されるだろうが、それだけではママの立ち位置は理解できないと思う。自分の中の混沌と欲望を直視して解放するよりも、抑圧する方がマシだという結論に達することは、宗教の観点から見たら正しい判断だし、彼女は主体的にそれをやり、何かに復讐したかったはずだ。そんなママに反抗したキャリーは「悪魔の子」である。が、我々は「悪魔の子」を通らなければ、主体的に生きようがないじゃないか。

一方、神の言う通り100点満点では生きられないんだから、ばれなければちょっとのガス抜きを許してほしいという本音と、まあまあ厳しい戒律に従っているという建前が正面衝突すると、イラン映画『セールスマン』のような地獄絵図に陥る。多くの場合、女性や外れ者が制裁を受ける。「悪魔の子」が生きる余地は存在しないのである。社会のために一定数の犠牲を常に必要とするという意味では宗教が社会原理としてきちんと機能していると言える。

他には、これが一番多いのではないかと思うが、自分の「外」にある信仰よりも、自分の「内」の声を信じるタイプは、信仰との間でうまく折り合いをつけ、救われるだろう。

そこに、「ちょうどよいバランス」があると信じたいが、本当にそんなポイントはあるのだろうか。これが個人差が大きすぎて定義はできない。

また私の話に戻る。日本人として育った上、両親の実家がどちらも、新しい状況に順応して伝統をさっさと捨てていくタイプ(しかも片方は左翼)だったが故に、「宗教」のことが肌感覚で理解できない。「人形を捨てるのが何となく気持ち悪い」とか「神社やお寺を区別しないが、行くと特殊な気持ちになる」というレベルでの感覚しか持っていない。したがって、生活上の様々な言動に、ああしろこうしろ、さもないと地獄行きだと脅かす一神教に対しては強い拒否反応が出てしまう。

ほとんど忘れていたのだが、私は、十代のある時期、毎週プロテスタント系の教会に行っていた時期がある。韓国語を教わっていた韓国人の先生が、彼女が通う教会の日曜学校に来ている同じ世代の韓国人男子を紹介してくださったのだ。そこで信仰について色々な話を聞いたのだが、私の中には「何で私のことを知りもしない人から、これが正しいとか、ああしろこうしろと言われなきゃいけないのだろう」という天邪鬼な疑問が生じていた。或いは、周りに一人もクリスチャンがいないのに、自分だけ違うものに取り込まれることが怖かったのかもしれない。まして、わずか数年後、大学時代には自由なゲイとして結実する「身勝手さ」を持っていたしね。

その割に左翼思想には抵抗を感じていなかったんだから面白い。ともかく、私にとって、信仰が救いになるという文化を体得するチャンスは失われた。

アメリカやムスリム国家のような一神教信仰が強い地域の悪魔憑き映画には、常に悪魔の攻撃に怯え、その実本当は神様を一番恐れているという緊張感がある。インドの神々のように全く頼れない。生きてるだけで罪なのだと言われ、天使は神のメッセージを伝えに来る死刑宣告人なんだから、救いとは何か分からない。アメリカホラーでは、70年代の作品にその緊張感と絶望感が顕著だと思う。80年代には社会が自由化したのか、諦めたのか、一気にホラーが元気になる。「悪魔の子」であることに開き直ったのだろうか。しかし、『ライトハウス』における男性特有の抑圧と暴力の嵐を見ると、やっぱり、アメリカの平均値としては開き直っていないのだと思う。ラルフ・サーキの件もあるし。一方、イギリス映画である『セイント・モード』は「救済なんか無い、現実があるだけ」と開き直っているように見える。ラストシーンは彼女を斜め下から捉えているが、『Room 55』では歩み去る主人公の背中を映している。見比べてみれば、どちらが希望として描かれているか、と言えば一目瞭然であろう。
https://note.com/takemigaowari/n/n9d5caf2c0f19




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