見出し画像

竹美映画評99 傷と苦痛が切り開くあっぱれクィア人生! 『Chitranganga』(2012年、インド、ベンガル語)

今回の映画は、ベンガル映画界で活躍したRituporno Ghoshという映画監督の作品。ベンガル映画は淡々とことが進んでいく中で、人々の心の弱さや変化を追っていくのが特徴。これが観るとなかなか疲れるのだが、いい作品だった。

あらすじ
ダンサーであり舞台演出も行う同性愛者男性のルドラ(Rituporno Ghosh)は性別転換移行手術に臨んでいる。そこで、病室に来たカウンセラーの男にこれまでの経緯を語るよう促され、ドラム奏者の若い男、パルトとの出会いから始まり、性転換手術に至った経緯を回想していく。

内省的なベンガル映画

ベンガル映画は、まさにサタジット・レイの『大地のうた』の伝統をそのまま引き継いでいるように思われる。淡々と主人公たちの心の機微を捉えて行き、人間に共通する喜びと哀しさを表現するのが上手い。また、インド各言語の映画の中で、共同体から切り離された個人を最もうまく描いているのがベンガル映画のように思う。集合的な正義や名誉などしがらみから抜けられないインド社会を背景に、特に男性の弱っちく情けない姿を描き出すことに成功している作品が多いように思う。

ベンガル映画は知的でちょっとお高く留まっているようなところがある。今回の作品の監督・主演・脚本(自作自演)まで務めたRituporno Ghoshは、既に故人であるが、自身は同性愛者を公言していた模様。

本作はクィア映画としては、ペドロ・アルモドバル作品と並ぶくらいの独特な世界を持っている。こういう、観終わった後に考えたことも無かったような気持ちになる映画って最近無かったので本当によかった。

ちなみに、同性愛者男性なのになぜ性転換を?という疑問はお話の中で説明される。エキセントリックで、己の魂が要求する通りに突っ走り、傷つき、それでも前進を続けて来たルドラなりの生き様が最後にどこに辿りつくのか。

ルドラの回想シーンは、自分が振り付けをし出演もした舞台演劇のお話「Chitranganga」とオーバーラップしている。このお話は、女の子として生まれたのに、父親である王の手で男として育てられた娘の物語であるらしい。ルドラとはちょうど反対のようでいて、全く違うところに着地する。

クィアの「ごめんなさい」

いつも仏頂面でお高く留まったルドラは、ドラァグクイーンがそのまんま生きているような人だ。仕事場では決して妥協を許さないし、恋愛遍歴も華やか、両親とは確執がありながらも同じ家で暮らしている強気の人である。決して社会や親族の圧力になんか負けない人間だ。

彼が「性別を変えるわ」「だから(両親のために)家を出て行ってあげる」と両親に告げるシーンでは、既に様々に「普通ではなかった」が故の葛藤や対立を経て来た両親とルドラの間にある哀しい軋轢が見える。

ただここで面白いのが、決して妥協はしないルドラが両親と一緒に暮らすことを選択してきたことだ。日本人からすれば、親のすねかじりかと思うわけだが、これは親孝行であり、ルドラにできる精一杯の妥協なのだろう。ルドラの妥協とはすなわち時間をかけた両親への償いである。

強気で親に反抗しつつも、心のどこかで「申し訳ない」という気持ちも持っていることが漏れだしてくるところは、抑えた演出ながら凄いなと思った。

社会との対抗関係が描かれないクィア映画

親との関係を繊細に描いているのと対比されるかのように、ルドラが社会との対立関係を意識しているような描写が出て来ないのも面白い。

彼はそれなりのお金持ちの出身であり、芸術の仕事をしていること等から、彼は適材適所なクィア人生を送っている。既に怖いものなんか何もない。中高年に差し掛かり、人生を共に歩いて行く人がいたらいいなと思っている。

そこで現れたのが、彼らの劇団員の紹介で来たドラム奏者のパルト。自由人の彼はヘロイン中毒で、物を盗んで売り飛ばそうとしたり、公演直前なのにトイレでドラッグをやってハイになったり、最後にはルドラをひどく傷つけることになるクズな男。エキセントリックなルドラと惹かれ合う。或いは寄生先を見出したというべきなのか。そこに妥協がなく、インド男の哀しさがよく出ていて感心する。

一方、パルトの描写もやっぱり社会生活における葛藤はあまり感じられない。

本作のクィア、ルドラとパルトは別に社会と争っているように見えないのである

本作のようなテーマのインド映画については、最近のボリウッド映画が英語圏のLGBT作品をなぞっていることに促され、「保守的な社会対個人の自由」という枠組みで考えがちである。しかし、ルドラの自由さについて来られない周りの方がおかしいのだということが、監督さんの中で随分前に結論が出ているのだろうか、「クィア」という部分が映画の土台になってはいるが、それは折込済で、更にその先にある「人間として悩むこと」にフォーカスが行っているように見えた。

インド映画において個人を縛るものは、第1に家族であり、次に財産の多寡、最後に社会関係である。田舎では社会関係も厳しいわけだが、都会ではその最後のしがらみから免除される可能性が高い。そして財産があれば敢えて家族に頼らずとも自立して生きられる。

インドの映画の場合、この自由の内容が多くの場合は「好きな人と結ばれる」というロマンスで代替されることが多い。本作は、それを踏襲しながら、その実着地点はロマンスの成就ではない。むしろ破綻してしまうことでルドラは(既に強い人間なのだが)、更に強い人間として生まれ変わる。

そうルドラにとっては、あらゆる傷や困難は、自分をより強く、美しく鍛え上げ、「自分が何を望んでいるのか」を掘り下げるためのツールなのである。何と逞しい!

傷さえも私の力に

少し前を知っている日本のオネエとしては、こういう「強く生きなきゃならないのよ!」と生き様晒す映画はしっくりくる。年とってきて益々そうなって来た。アルモドバルもそのタイプであろう。アルモドバルは、過去のインタビューで、「アメリカでは、ゲイならゲイ、という形で一つの顔しか許さない。人にたった一つの顔しか許さなんいなんて窮屈」というようなことを言ってアメリカの映画界の在り様を批判していた。

本作のルドラや、タイ映画『ビューティフル・ボーイ』のパリンヤーは、性的少数者であるということの先にある孤独や、クィアである以上どうしても叶わない夢や願望の挫折や傷をどうやって自分の人生の一部に織り込んでいくのかという知恵を見せている。

その中で社会との葛藤だってあるはずだが、それがメインにはならない。社会との葛藤をメインに据えるということは、社会によってつけられた傷が今も傷んでいるというところに主人公のアイデンティティの中心が据えられ、その傷に苦しむ顔しか持ちえない物語になるということだ。アメリカのゲイやレズビアンの映画がそうなりがちだった中で、その傷の段階を越えてしまった戸惑いを、トッド・スティーヴンス監督は『スワン・ソング』で表現したし、『ステージ・マザー』は、自由のその先の寂しさに触れている。

目下のLGBTQ+戦争についてもいつか誰かが語ってくれるだろうが、アメリカの様相と映画の描き方が連動して、現状そうであるように、どうしても敵味方の宗教戦争の代理として表現される可能性が高い。

また、「強く生きるのよ!」というメッセージは、現代日本の特に若い人にとっては、「サベツ構造の隠ぺい」のように感じられることだろう。だって強くなれない私はどうしたらいいのサ、と考え、アメリカ的な「傷が今も傷んでいるんだ」という物語の主人公として自己定義する方が今は主流だからである(今読んでいる『欲望会議』という本では、それではその人は本当には救われないのだと言っているのだが)。

しかしながら、外から、中年オバジとして眺めていると、「本当はそんなに社会的な傷は痛んでないですよね」と見える人がいたり、柴田英里さん言うところの「弱者に憑依している」人が見えてしまう。他人のことなのであまり言わないようにはしているが。

『ミッドナイト・スワン』をもう一度考える
日本でもこういう話が作れそうなのに出て来ないのは何故なんだろう。日本では社会と個人(特に男性)の対立がはっきりしない。男のすることは、異性愛の不倫から、同性愛、性別変更・転換、異性装まで幅広く許容されて来たので、あくまでインドやアメリカとの比較になるが、男が体験する社会的葛藤の物語に説得力が弱い。であれば、そういう中で本人の欲望や挫折を見つめ、強者と弱者の両方を併せ持つ存在として描くという方向性が開けている。

が、それが欠けている『ミッドナイト・スワン』は中途半端に終わるのだろう。「凪沙さんは結局のところどういう性格の人なのかは最後まで分からない」という感想は今も変わらないし、むしろ『Chitranganga』を観てその考えが強まった。

性別転換という一大事を前に、そしてネグレクトされている一果を前に、凪沙が自分の中でどんな願望を発見し、どうなって行きたいと願い、それが叶えられなかったり叶えられたりしたのか、が描き切れていない。断片を寄せ集めて見せた結果、単に変わっているけど不憫な人、で終わってしまうのだ。草彅剛の上手い演技が空回りしている。

もちろん「不憫な人」の話は私だって好きなんだが、それだったら木下恵介の『日本の悲劇』観た方がずっしりと来る。同作の望月優子演じる母親は自分の願望を掘り下げることすら叶わない。戦後すぐのシングルマザーが背負っているものは21世紀の東京のトランス女性とは違うということに直ぐ目が行き、映画として考えるとどうしても、戦後すぐのシングルマザーの方に目が行ってしまう。

内田監督は、『ミッドナイト・スワン』で社会的な葛藤を描きたくなかったのであれば、猶更、同作を凪沙が自分の願望を掘り下げていく系の映画にした方が、テーマ的にもしっくり来たのではあるまいか。あの作品は、岩井俊二映画的なきれいさでまとまってはいたが。

スノッブなときもあるベンガル映画はそのようなことを考えさせてくれた。今回の映画は、ほとんど自分の分身を描いた作品で、内面を掘り下げることに成功したのだと思う。今後もRituparno Ghosh 作品を、体力気力の許す限り観て、紹介していきたい。

ベンガル映画がほとんど日本で紹介されないのはもったいない!

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?