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竹美映画評39 コメディにするのは難しいんだろうな 『ミッドナイトスワン』(2020年、日本)


トランス女性を巡る議論が大戦争みたいになってきた中で、下記のようなことを書いた。

そして、そういう状況下で公開される『ミッドナイトスワン』という映画について、「誰かを断罪したり白黒つけたりする前に、まともな頭の人には「色んな人がいるんだねえ…」と伝わり、美の基準という意味で言うなら美の物差しの数が増えるような内容であることを願う」と書いた。

さて、その意味ではどうだったかな。

トランス女性と、ネグレクトされた中学生の親せきの女の子の交流を描いた映画で、岩井俊二映画と草彅剛の熱演が交互に挟まっているみたいな作品だった。私は映画自体は楽しんだ。後述の通り、よくよく考えると色々出ては来るんだけど。。。そしてまず、断罪という意味では、一緒に観に行ったお友達の意見に乗っかって言うならば、「母親」を断罪している映画だと言える(改めて考えてみると、『おくりびと』とか『嘘を愛する女』と同じ意味合いで母親を救ってないんだな…)。

美の基準の拡張という意味では…特に変わるところは無かったかな…。でもそれは非常ーーーに難しい、人類史の革命のような行為なので、できなくてもいいと思う。

尚、上記のお友達の評は、一果の母親の描写をはじめ「脚本がなってない、に尽きる」とのことだった。私は、映画は自分の心の奥底にあるものと繋がるかどうかでしか観ないので、分析的な視点で見ることができないの。でも、監督さんが何か言っちゃって軽く炎上した経緯や、絶賛と非難の両極端になっている状況などとその意見を総合し、「なるほどなあ。。。」と思って勉強になった。

私の印象として、映画のよかった要素は、草彅剛さんが80%で一果役の服部樹咲さんが15%で、残りを他の上手い俳優さんが分け合ったのだな、と思った。観ながら感じたことは、お話がつながっていない、という感じ。このシーンとこのシーンの間に何があったんだろうか?と思ったり、「どうしてこうなったんだろう?」と思うところへの説明が若干足りなかった。多分に、友達の感想に影響を受けているので真っ新の私の感想ではないんだけど、内田監督自身も社会的な作品として撮ったわけじゃないみたいなことをおっしゃってたので、「見せたい、撮りたい」シーンを繋げた映画なのだと思う。

実は、草彅剛さんの演技を初めて観たのもあって、お笑い番組のコントに見えてしまったの。。。同作に対して不謹慎な意見かもね。でも、冒頭のシーンで、バーのお客さんを相手に「子供の時海に行って、スクール水着を着たかったの…」という話をした場面は、私にはコメディに見えた。映画のテーマから考えて結構重い話をし始めたのに、周囲が明らかに引いていたからそこは凪沙の性格描写のシーンなのかな、と私は無意識に判断したんだね。つまり、凪沙さんは若干空気読まないタイプの人なのかと。でもそうでもなかった。

あのシーンは性格描写のシーンではなかった。それどころか、凪沙さんは結局のところどういう性格の人なのかは最後まで分からない。言葉づかいはほぼ全編通してタメ口の女性言葉。そこが、草彅剛さんの持ち味がちょっとほのぼのしているのもあり、何となくユーモラスに見えてしまうのね。私も、私の彼氏もちょっとクスっと笑ったところが何度かあった。「こういう女性的な言葉遣いをするゲイの友達(トランスの人ではなくてね)がいる!」と二人ともピンと来たのだ。

草彅さんも悩んだんじゃないかな…。演出に対して真剣に取り組んで凪沙さんという人物を作り上げていたと思うので、熱意とリアリティは感じた。でも、いかんせん、性格描写が少ないものだから、「悲惨な状況の中にいるオネエが言いそうなセリフTOP20」みたいな感じになってしまっていた。となるとコメディとして読めてしまう。草彅剛さんという素材を活かし切れてなかったんじゃないかな…。

いやいやこれは真面目な映画だからここで笑ったらダメよね、なんて頭の中で否定しながら見るとなると、一果の方に目が行くんだけど、彼女の成長や変化も何だかもうちょっと分かるようなシーンがあるとよかったな…。凪沙に踊りを教えるシーンとか、海に行くシーンとか、最後のバレエのシーンとか、いいところいくつもあるんだけど。たとえば母親が凪沙の家に現れたシーンは唐突で、その後のシーンと繋がってなかった。

お友達のりんちゃんの複雑な感情の変化について説明をもうちょっと入れるか、いっそ省いて「最初はライバルだったが後に一果最強の支援者となる友達」役にしちゃった方が気が散らなかったかもしれないね。

海のシーン辺りで、韓流ドラマ級の強引なこってこての展開にした方が、最後素直に感動できたんじゃないかという気がした。或いはコメディか。

断片は痛々しかったり、苦しかったり、うれしかったりしたので、切り取られている部分には共感した。でも全体としては…テーマがテーマだけに、観る方(あたし)も力入ったし、賛否両論になっていたのを意識して普通の感想だったら書けないわ!!!と世界に30人位いる竹美のファンのことを考え自意識でいっぱいになっていた。

コメディは毒そのものである場合がある。特にトランス女性のことを扱うとなると、今の時代、毒の部分ばかりが非難されるかもしれない。ユーモラスな部分が出て来るなら、それはそれで活かせば面白い映画になるんじゃないかな。非難の嵐を意識した結果、ああいう仕上がりになったのかな…とも思うけど、好意的過ぎるかしらねw多分違うな。

トランス女性に関するネット上の議論は、私もLGBTの端くれなので目にするのだが…本当に苦痛を感じていたり、苦悩する人々の個々の痛みに寄り添う姿勢は、残念だがどの陣営からも感じられない。あくまで日本国内の印象だけを言うけど、左翼系とそれ以外の代理戦争みたいな感じもする。

本来は人を癒して世界を豊かにするはずだった精霊を、レジスタンスが奪って魔改造して世に放ったところ、全然予想もつかなかったような動きをして人々を巻き込んで暴れ始めた。攻撃を受けた人々が反撃し始めると、レジスタンス側は「反撃する人々は悪の帝国軍の手先だ」と考えて猛攻撃し始めた…みたいな状況ではないかと思う。私は、トランス女性を巡る議論の内容についてはちゃんと理解していないと思うので、中身については議論しない。でも、議論の在り様については感じ取れる。

ナウシカのいない『風の谷のナウシカ』みたいになっていると思う。現実はそうなのだ。世界を背負って皆が生きるために争いを平定してくれる人なんていない。そういう残念な世界の素顔が見える騒動だと思う。

もし…ちょっとでも当事者の苦痛のことを考えているなら、例えば「手術しろ!」とかどうして言えるんだろうね。優しくない言葉がどこでどう受け止められるか、分かってないんだろうな。色んな勢力が乗り込んで来ているので、反撃に忙しいのだろう。

その反対側の人たちだって、男性が女性専用の空間に入って来たのを咎められたときに「トランス女性です」と自称するような状況等への懸念に対してきちんと説明しないまま、「我々の意見に反対する人はトランスフォビアで差別主義者だ」と決めつけている。宗教的意識高い系の態度はそこがいかん。

ここまでくると、このトピックも、左翼系思想とその反対側との代理戦争の一つなんだなと分かる。落ち着き先がどこにも見えない。そういう中で『ミッドナイトスワン』は、痛みの断片がコラージュのように散りばめられ、凪沙の意志や性格ははっきりせず、一果の踊る姿の方が印象に残ってしまうのだった。

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