竹美映画評75 ご利益の対価『Ammoru』(1995年、インド(テルグ語))

インド映画特有の映画ジャンルがあるとすれば、それはヒンドゥー教映画とも言うべきジャンルだと思う。ヒンドゥーの宗教的想像力において起こり得る全てがそこにあるのだと思われる。日本にいる間に『Satyam, Shivam, Sundharam』(1979年)を彼氏に勧められるままに観たのは非常に勉強になった。

日本だと、『日本霊異記』から『まんが日本昔ばなし』までに見られるような、因果応報、つまり、「悪人に罰が当たる物語」として生き残った物語は最近はあまり目にしない。むしろ新海誠さん的な日本神話の物語の方が戻って来ているのではあるまいか。多分あの一連の物語は、仏教を介して珍しく長きにわたりインド的なものが日本に残留・定着したのだろう。一方それはあくまでも外から取り入れた要素であるが故に、今の時代には廃れるのかもしれない。

おはなし

田舎の村を災厄が襲ったとき、女神アンモル(まだ20代のラムヤ・クリシュナン!)が普通の女の姿に身をやつして村に降り立つ。村で親切を受けた女神はその村を祝福するも、女神降臨に気がついた村の女が自殺して命を捧げる(ぎゃー)。それにより、アンモルは村の守護神となった。時は過ぎ…養子のバヴァニは、その家の息子ゴラクが黒魔術で少女を殺そうとした(あんた…)ところを目撃して警察に通報したことで家族に逆恨みされ(家族主義の業)、虐めの日々が始まる。一家は、金で村の女シャーマンを買収、偽のご神託でバヴァニに裸で外を歩かせ辱めようとする(ひどすぎる)。そこへその家の別の親戚で善良な医師であるスリヤ(I need a HERO!)が帰郷、彼女と結婚することで悲惨から救い出す…と思われたが、やっぱりバヴァニはスリヤのアメリカ出張中に様々ないじめに遭うも、無事にスリヤの子を妊娠。しかし、ガンジーの誕生日の恩赦で出所したゴラクが黒魔術を総動員して二人に復讐を開始。かなりひどい!一方、敬虔なバヴァニを女神アンモルは見放さず、少女の姿(この子が最高なの…)に身をやつし、バヴァニの命を守るが、誤解のために、バヴァニは彼女を追い出してしまう…さあどうなる!?

ジャンル命名の難しさ

虐めシーンの凄惨さ、黒魔術のえげつなさ、そして女神アンモルの凄まじい怒り、少女の姿で次々に問題を解決するおかしみ、悪者への呵責なき処罰が余すところなく描かれ、2時間という時間があっという間に過ぎてしまった!バヴァニを養女として迎えた一家が皆悪辣か愚昧に描かれていてそれも怖い。お金持ちであるが故に傲慢で欲深、バヴァニを殺してしまえば彼女の持っている資産も自分たちのものになるのだからとあの手この手でいじめる。しかもただのいじめ方じゃないの。「ガス灯」効果で、彼女を精神的に追い詰めちゃう!いかにも彼女を気遣うふりしてどんどん追い詰める。サイコホラーです。まじで怖いの。でもインドホラーをまとめた本には本作は載っていない。本作は、テーマがテーマだけに、ホラーだと考えることはできないのだろう。

前に、インドの知人に「『KANTARA』はホラーみたい」と言ったら「あれはホラーじゃない」と強く否定されたので、やっぱり私の察知できないホラーと神話ファンタジー(ヒンドゥー教映画)を分けるコードがあるのであろう。『KANTARA』を巡るインド国内の議論の熱意を見る限り、取扱注意に類するトピックである。

祝祭のシーンは面白い。この集落は女シャーマンがいるのだが、お寺との力関係はどうなっているのだろう。また、アンモルは物語の設定上、ヒンドゥーの女神のようだが、本当のルーツはどうなのだろう。シャーマンが神を降ろし、お告げを告げる…そういうところが、『KANTARA』的なのだ。アーンドラプラデーシュでもやっぱりああいう地元神とシャーマンの関係が見られるんだろうか。本作がヒットしたことに鑑み、これがテルグ語圏では普通に受け入れられたというのは意味があるのだろう。

家族を大事にする社会の裏側の顔が…

そして本作は、インドが誇る家族主義の影の部分ばっかりが出て来るのがしんどい。妊婦になったバヴァニに「村に一つしかない電話を壊した」という罪をなすりつけ(いや村人も、電話の持ち主も全員が誰が張本人かとか見てるんだけどさ…)、路上で棒でひどく殴りつけるのよ…それを無表情に傍観する村人たちの目線が対比される。ああいうことが実際に起きていたということだろう。権力者の家族のことに、恐らくカーストの違いもあいまって、周りの人々は口出しできないんだろう。あの傍観のシーンは怖い(テルグ赤色映画にも頻繁に見えた描写なんだけど)。あれはそもそも喧嘩ですらなく、一方的な家族内のいじめなので何もできんのだろう。

主人公バヴァニは最後の最後まで言わばマゾ的に悲惨な仕打ちに耐える役になっている(Wikiによれば彼女は本作で演技の評価を得たそうだ)。当時の観客に受け入れられるのがそういう役まわりだったのだと思われるが、孤児で、その家の優しい夫しか彼女を守ってくれない中、養母その他に虐待される。孤立無援で家や村から出ていくことはかなわないのだ。何と言っても養子になった家が実家なので…。出口のない女性の受難を感じる。

お寺の住職だけは彼女の本当の味方だが、他人である彼が家に干渉してまで彼女を保護することは不可能で、彼女を家から連れ出すためにぎりぎりできたのは、「よし、女神アンモルのために火渡りの儀式をして悪いものを祓おう」という方便を使えたことくらい。しかも火渡りってあんた…むろん家族はそこで彼女を事故死させようと画策するも、アンモルが彼女を保護し、村人はやんややんやの大喝采で神を讃える!何かもう狂っていると思うんだけど、こうした儀式は、秩序維持や、ガス抜きや、もしかしたら、ターゲットになった人がコミュニティから許してもらう機能すら担っているんじゃないかと思われる。

タダで手に入るものなんかない。

本作は、因果応報のことも描いているが、どちらかと言えば、「ご利益を得るために人間は大きな犠牲を払わねばならない」ということが繰り返し描かれる。ゴラクが祈る神は無論黒魔術系の神なので悪いことのために拝まれるのであろうが、何と、処女の娘を土に埋めて捧げろと通達してくる。このゴラクが面白くて、自分の肉親を媒体としてその都度自分の神様を降ろして語らせるのだ!何つー家族…。

そもそもが、アンモルを村に引き留めるために一人の女性の命が投げ出されている。彼女は聖なる犠牲なので、幽霊になって恨み言一ついう権利が無い。それが彼女の自発的行為ならまぁいいかって思うけど、「彼女が自分から身を捧げた」ことにしよう、というコミュニティの総意が裏にある感じもして闇。

アンモルは途中でバヴァニの誤解により家から遠ざけられ、助けることができなくなる。何かそういう、神様を呼び出すにもルールがあるというのは、公平でもあるし、神様なんだから個人的に「この子のことはほっとけないのよ!」とはならないのが何とも正直で面白い。むろん、物語を面白くするための設定ではある。「何をしたらアンモルが助けてくれるか」は途中アンモルに帰依した人物が何度も言うのだが、バヴァニには伝わらず、「どうやって最終的に神様を呼び出すか」で物語を面白く引っ張っている。と同時に、ゴラクの所業の恐ろしさ、残酷さが際立ってくる。

幼女の姿をした神様≒ミーガン?w

他に惹かれたのは、神様アンモルがこの世に「仕方ないなあ」と出て来てバヴァニの傍にやってくるやり方。幼い少女の姿で出て来るのである。幼い少女なのに世界の全てを知っているの。ゴラクと対峙するやすぐ正体を知ったゴラクに、「神はただあなたと遊んでいるだけなのよ」らしきことを言う。何つーことだ…すごい力を持っているのにおすまししている幼女って、ミーガンだよね!

ミーガンは、神の化身でもあるんだ。w裁定者。『バイオハザード』に出て来るアンブレラ社のAIホログラム少女も同じね!とにかく彼女の振る舞いが観るモチベーションになったことは確か。祝祭のシーンではシャーマンの振りをして、実は神様自身が踊りまくっているという面白さもあった。

本作のプロデューサー・監督コンビ(多分脚本も)は、アヌシュカ・シェッティ主演『Arundhati』も製作した。分かるなー。のちにアヌシュカ・シェッティとラムヤ・クリシュナンは、テルグ映画の決定版『バーフバリ』二部作で共演、激しく対立!何かそれも分かる気がするわ。また『KANTARA』がなぜヒットするか、という大まかな疑問にまた一つ答えを得た。こういうのがずーーーっとあった国なんだね。大いなる(正体は本当はよく分からないのだとしても)神に帰依することが何よりここの人にとっての幸せなのだ。そして家族主義。『クマリ』は父系が母系に変わったところで起こる問題は同じだと示唆した。バヴァニは核家族を形成することになろうが、家族主義に対するアンチテーゼなのか、これから新しく神の祝福を得た大家族の歴史が始まるのか、何とも言えないところである。非常に面白かった。

参考:『クマリ』


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