見出し画像

それでもドキュメンタリーは嘘をつく

■ドキュメンタリーとは?

著者/森達也(もりたつや)
1956年生まれ。ディレクターとしてテレビ・ドキュメンタリー作品を多く製作。1998年オウム真理教のドキュメンタリー映画「A」を公開、ベルリン映画祭に正式招待され、海外でも高い評価を受ける。現在は映像・活字双方から独自の世界を構築中。

今回紹介する「それでもドキュメンタリーは嘘をつく」は、2008年に文庫化(角川文庫)されたものです。

本書では森達也が手がけたオウム真理教の事件後のドキュメンタリーの経緯、その他の作品でもその時に感じていたこと、考えていたこと等が書かれています。さらにドキュメンタリーが世界的にどのように変化してきたかも体系的に書かれています。私は「ドキュメンタリー」とはどのように定義されるかをはっきりと認識していなかったこともあり、そういう意味で興味深く読みました。

「報道」は公正中立というものであり、主観をなるべく排除して中立的な位置から伝えるという認識はありました。これは恐らく広く認識されていることだろうと思います。

この本を読む前の私の「ドキュメンタリー」の捉え方は、この「報道」に近い捉え方で、ドキュメンタリーにはテーマはあるにしても、事実に即して、ある程度中立的に撮影していくものと捉えていました。

この本の中で森達也が言っていることで重要な箇所があります。

「~ドキュメンタリーが捉える現実は、結局のところ虚構なのだ」(P14)

「~強調しておきたいことは、プロバガンダが必ずしも作品の価値を下げるものではないということだ。すべての作品がプロバガンダであると極論できることは前述した。問われるべきは作り手が依拠する思想やイズムが、個人の情動や主張として屹立できているかだろう。」(P47)

*プロバガンダ・・・広く触れ知らせること。思想や教義などの宣伝。
*依拠(いきょ)する・・・よりどころとする
*イズム・・・主義、主張。
*屹立(きつりつ)・・・どっしりとそびえ立つ。確固として揺るがない。

前述した森達也の言葉は私なりに解釈すると

ドキュメンタリーから主観性を取り除くことは不可能で、結果的に「普遍性」を持てるかどうか。

ということになるかと考えます。

■森達也と小林秀雄

ふと、森達也のこの辺りの考え方を読んでいたときに思い出したのが、評論家、作家である小林秀雄の放った言葉

「私小説は決定的に死んだのである」

これは、昭和10年に出された「私小説論」の中で書かれた言葉です。

なぜ、小林がこのように言ったかといえば、私小説が台頭してきて、多くの作家たちがその手法を取り入れたが、
「彼等は、描写と告白とを信じ、思想上の闘いには全く不慣れで、個人と社会の問題を抽象する力を欠いていた」

*抽象する・・・
いくつかの事物に共通なものを抜き出して、それを一般化して考えるさま。

森達也の言う

「問われるべきは作り手が依拠する思想やイズムが、個人の情動や主張として屹立できているかだろう」

小林秀雄の言う

個人と社会の問題を抽象する力」

両者とも、その作品が「普遍性を持ち本質的であるかどうか」が重要であると。

なので、森達也はドキュメンタリーを通して
「作品」を創っているのだ感じますし、
そこに普遍性を求めているのだと思いました。

ドキュメンタリーも私小説と同じく、「描写」「告白」のインパクトが強く、リアルなエネルギーが全面に出てきます。そのリアリティーの奥にあるものを引っ張りだし、ドキュメンタリーをひとつの「作品」として昇華させ、普遍性を持たせることは、作り手の力量がかなり問われるのだろうと創造できます。

「ドキュメンタリーの嘘」の向こう側に
思いも寄らぬ「真実」があるならば、
僕はそれを見たいような・・・
見たくないような・・・

本当の絵画や彫刻、映画、ドキュメンタリー、音楽というのは、
触れてしまうと「痛い」「うっ」というものがあるように思います。
その後、人生感が変わり、世界の認識が大きく変わるものだ思いますし、
そんな作品に触れると世界と統合されていく感覚を持てることがあるのかなとも思います。

とりとめもないお話にお付き合い頂きありがとうございました。

暑い日が続きますので、皆さま体調崩さぬように、ご自愛下さい。