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【トークシリーズ#4・レポート】アサダワタルさんに聞いてみる!「生活と表現とシェア」

ゲスト:アサダワタル(文化活動家)
聞き手:高林洋臣、久保田翠(認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ)

自宅などのプライベートな空間を外部の人に少し開く「住み開き」の提唱者であり、音楽をはじめとした表現を通じて、人や街の記憶を呼び起こし、共有するアートプロジェクトを各地で展開するアサダワタルさん。住まい方そのものに表現を見出し、さまざまな背景を持つ人の生活に表現的にアプローチするアサダさんに、人と人とがつながり、生活がシェアされていく場のつくりかたや、そのような場における表現の役割についてうかがいました。

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はじめに

アサダ:僕は大阪生まれ大阪育ちで、20代半ば頃まで主に音楽をやっていました。24歳でNPO法人ココルームに出会って、スタッフをしながら大阪府西成区の釜ヶ崎とか新世界と呼ばれるエリアで、音楽や演劇や紙芝居を通じてアクションを起こしていく活動をはじめました。そして、障害のある方や壮絶な人生を生き抜いてきた地元のおじさんなど、いろんな背景を持った人と、バンドに限らずいろんな表現活動をするようになりました。地域やいろんな分野に関わって、アーティストだけではなくいろんな立場の人が協働しながら表現活動をすることで、コミュニケーションが生まれていくようなことをアートプロジェクトと言います。当時はそんな言葉も知りませんでしたが、アートプロジェクトを企画演出することが自分の表現だと思うようになりました。
 30代以降は、東京、滋賀、福島、青森などに一時期滞在しながにとっては、コミュニティと関わることは生活そのもので、どう面白いら、市民と一緒にプロジェクトを行なっています。空き家を活用してアクションを起こせるかということを考えています。家族とも生活実一緒に場をつくったり、福島では復興公営住宅に毎月通って、自分験をしながら東京と新潟の二拠点生活を送っています。の町に帰れなくなった被災者と一緒にラジオ番組をつくったり。障害のある方と一緒に表現の場をつくる仕事のご縁で、品川区に新しくできた施設にも関わっています。
 演奏するとかCDを出すのと比べて、こういう仕事はつかみどころがないんですね。参加者となら時間や場を共有できるのですが、その場でしか起きないことをどうやって広く伝えるかずっと考えてきた結果、本を出版する機会をいただきました。20代後半に、仲間とシェアしていた自宅をいろんな人が出入りできる状態にしていく活動をしていて、住んでいる場所を開くので「住み開き」と名付けました。そしたら、どうやら同じようなところが各地にあるらしいんですね。他の人のことを知ったらもっと面白いやり方ができるかもしれないと思って、訪ねて行って家の面白い開き方を取材しました。彼らは、家を劇場にしたり、自分の趣味の博物館にしたり、絵本文庫にして子どもに開放したり、屋上に菜園をつくって地域の人に開放したりしていて、それはその人の住み方なりの表現なんじゃないかなと思ったんです。この本がきっかけで、自分がやっているアートプロジェクトについても本を書いて出版を通じて伝えていけたらいいなと思うようになりました。
 そのうち大学の仕事(教員業や研究業)もやりだして、現在は、いろんな人と混じりながら現場をつくることと、それを伝えるために執筆したり大学で仕事をすることをぐるぐる回すといった感じです。僕にとっては、コミュニティと関わることは生活そのもので、どう面白いアクションを起こせるかということを考えています。家族とも生活実験をしながら東京と新潟の二拠点生活を送っています。

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「住み開き」から生まれる新しいコミュニケーション

アサダ:2009年7月18日.8月30日まで1ヶ月半かけて、「自分だけの場でしか起きないことをどうやって広く伝えるかずっと考えてきの場所をみんなのための場所へとちょっとだけ開く。そんな楽しいた結果、本を出版する機会をいただきました。20代後半に、仲間とひと手間についてちょっとだけ考えてみませんか」ということで、大阪市内の自宅を開いている場所をまわる「住み開きアートプロジェクト」をディレクションしました。はじまりは、2006年.2009年まで関わっていたマンションの一室「208南森町」でした。ここで仲間6人とホームパーティやトークイベントや予約制で鍵を貸し出して入ってもらう展覧会などをやっていました。当時、僕は大阪市の文化事業に関わっていたのですが、行政の仕事というのは制約があります。それを乗り越える面白さもありますが、息が苦しくなるときがあって、小さくていいから自分たちの好きなことをやる場所をつくりたいと思って、仲間と家を開放していたんです。
 イベントスペースのようなことをするなら、よほど大きな家でないと狭いし、大きな音も出せないし、プライベートを脅かされる可能性もあります。でも、この家を開いて面白かったのは、人のふるまいが変わるということ。本当に住んでいる家なので、エプロン姿で出て行って、みんな席を分けずにぐちゃっと座って、何か飲んだり食べたりしていると、いつの間にかトークイベントが始まっている、というようなことを意識的にやっていたのですが、僕が当時いくつか場を開いていてどうしても超えられなかった壁、つまりお客さんと迎える側という役割が、家という空間だといい意味でルーズになっていったんです。例えば、ケーブルがなくてプロジェクターが映らないときに、公共ホールのイベントだったら、「不手際だなぁ。お前ら何やってんだよ、お金とってるのに。早くしろよ」と思うお客さんがいると思うんですよ。でも、こういう場では手伝ってくれる人が出たりするんですよね。迎える側も弱みを見せられることで、徐々に線引きがなくなって場が柔らかくなっていって、みんなでこの場をつくっている感じになっていく。
 家を開いている人たちは、もともとは場所を借りるお金がないから家でやりはじめたということなんですが、「家だからこそそういうコミュニケーションが起こるよね」という話をしてみると、確かにそうかもしれないと関心を持ってくれました。そして、一度ここを味わった人の中には、生活の延長線上で自分でもこれくらいだったらできるかもしれないと、実行に移す人も出てきて。それを見た時に、これが世の中に広がったら革命的なんじゃないか、みんなが小さい場をつくったら最強なんじゃないかと思ったんですよ。最小でいうと2畳で「2畳大学」という定員5人くらいの空間をやっている梅山晃佑くんという友人がいます。彼はいま引越しして、ちゃぶ台を持って路上に出る「流しのこたつ」というやり方でも2畳大学を続けています。
 こういうことをすると、コミュニケーションという意味でも鍛えられるし、どこで開いてどこで閉じるかということもわかる。個人をどれだけ他人に開いたり閉じたりするかという塩梅が如実に場に現れる。これは表現だなと思って「住み開き」を提唱し始めました。僕自身、滋賀の長屋に住みながら家でパーティーしたりご近所さんを呼んだりしつつ、いろんな住み開きスポットを取材させてもらって本にまとめました。
 この本をまとめたのは2012年なんですが、最近、最新の事例を追加した文庫本を書いています。特に面白いのが群馬県の「たむろ荘」。当時、群馬県立女子大学の学生だった本田美咲さんたちがやり始めたところで、ボンビーガールという番組にも出ていました。築40年くらいの空き家をシェアハウスにするために借りようとしたら、住めないと思うからと断られてしまって、交渉して30万円で買い取ってしまった。2階に群馬女子大の関係者が平均して3、4人住んでいて、もともと店舗だった1階を開放して、トークイベントや上映会などをやっています。
 たむろ荘の理念、これがかっこいい。「居ること自体に料金が発生するシステムばかりが増え続け、無意味にたむろすることが困難になりつつあります。たむろ荘はそんな時流に逆らい、人が自由にごちゃごちゃする場として生まれた大喜利みたいなスペースです」とあって。彼女たちは大学時代にアートマネジメントを学んでいるんですが、「仲のいい人たち同士で生活したって面白くない、呼んでもいない人が勝手に来てお茶を飲み散らかしていくみたいなことが日常で起きないと全然面白くないし、頑張っていないと思う」と言ってて、その時点で相当面白いでしょ。だから、「ごちゃごちゃ」が起きるようなコミュニケーションをどう日常生活で生み出すかということを、かなり意識的にやっていて、わざと場を曖昧にしている。当時、まちづくりや地域活性という文脈でニュースに取り上げられたんですが、本人たちは拒否こそしないけれど、全くそういうふうには思っていないんです。助成金の誘いもあったらしいんですが、その文脈に染まってしまうので全部断っているそうです。何かに偏ったり何かの目的に回収されないように、「何やってんの、この場所」とずっと言われ続ける大喜利みたいな場をやることに命をかけていると言っていて、すごいなと思いました。
 実践レベルでは混沌と曖昧なことがあるんですが、僕も話したり書いたりするときに伝わりやすい文脈で言葉にすると、だいぶ薄まる部分もあるので、葛藤します。今回取材してみて、そういう現場をやるときに、意味や目的がひとつではなく、いろんなものが混じってる曖昧さ、ルーズさ、いろんな人たちが間違って入り込めるような、間違ったことが起きてしまうようなノイズ、余白が場にたくさんあることは大事だなと、あらためて思いました。

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音楽を介して被災者の生活に寄り添う「ラジオ下神白(しもかじろ)」

アサダ:最近は復興公営住宅に訪問するという活動もしています。福島県いわき市小名浜下神白に2015年にできた団地で、帰宅困難区域を含む富岡、大熊、浪江、双葉の4町の方々が6棟に分かれて住んでます。ここでコミュニティづくりに関わる機会をいただきました。「ラジオ下神白 あのときあのまちの音楽からいまここへ」というプロジェクトで、一緒にプロジェクトをやっている小森はるかさんが撮ってくれた10分程度の動画がyoutube(*1)に上がっています。

*1「ラジオ下神白 あのときあのまちの音楽からいまここへ」ドキュメント

 今まで大きな田畑があるような地域に住んでいた人たちが、初めて集合住宅に住むことになり、どう人とつながるかがずっと課題でした。集会所に人が集まっているんですが、来れない人も多い。来れる人が常連化していくと、他の人が入りにくくなる。いろんなタイプの人が交わるにはどうしたらよいか。来てもらう人を増やすという発想よりは、家に訪ねて行ってつながりをつくれるような仕掛けがあればいいんじゃないかと思って、ラジオ番組をつくろうと思ったんです。
 それぞれが自分の住んでいた町の思い出を語って、他の人がそれを聞いた時に、何号棟の何々さんはそういう方なんだなということがわかってつながっていけるような、団地の中だけで聞くことができるラジオ番組です。ただ普通に話をすると震災体験に直結する可能性もあって難しいので、音楽を挟んで、感性に訴えるというか表現的にアプローチすることによって、個人の面白い部分が見えてきたらいいなと思っています。毎回住人の方3.4人に取材して、これまでに約75分の番組を第6集までつくりました。電波を飛ばしてラジオで聞いてもらうのが物理的に難しかったのと、訪問するきっかけがほしくて、ラジオ番組を入れたCDをつくっています。例えば、第1集は「常磐ハワイアンズセンターの思い出」ということで、浪江の3人の方に話を聞きました。第2集は「あの頃の仕事・家族の風景」ということで、大熊のご夫婦、富岡と双葉の単身のおふたりとか、町ごとに聞いていきました。団地を出られた方といま住んでいる方をつなぐ「さよならの代わりに」という特集もありました。CDはこの団地限定で全戸を回って配布しています。配布するときには、リクエストカードを持っていって、リクエストに応えるかたちで「取材しに行っていいですか?」というふうにして次の方が決まっていきます。
 その中でも特に付き合いが深くなったのが、ヨコヤマケイコさんという方でした。「青い山脈」をリクエストくださった方です。いま90歳なんですが、実はこの世代では珍しく40歳まで独身で東京に出ていて、英語をしゃべりたくて、アメリカ軍の駐屯地の喫茶店とかアメリカ軍のベビーシッターとして働いていた。その喫茶店で聞いた「青い山脈」が大好きだったという思い出から、記憶が戦後とか子どもの頃とか、いろんなところに飛び交う。その人そのものや背景が見えてくるお話でした。95歳で最高齢のタカハラタケコさんとも毎月交流しているんですが、彼女と先ほどのヨコヤマさんは「青い山脈」でつながりました。ふたりともこの曲を聞くので、「これは誰のリクエストなんだろう?」というかたちで、曲や思い出を通じてつながったんです。そういう人の出会いを意識しながら、音楽アルバムをつくるように、ラジオをつくっています。
 話は逸れますが、7年前に、借りて返せなかったCDを100枚展示する「借りパクプレイリスト」という企画をやりました。全部ポップが貼ってあって、返せなかった理由が書いてあります。これが今さら新聞で取り上げられました。「音楽の力」という特集で、しかも「記憶がつなぐ人と人」と書かれて、こそばゆいんですが。でも実際、先ほどの「青い山脈」でも、ヨコヤマさんとタカハラさんは、違う思い出を持っているけれど、つながった。「借りパクプレイリスト」では同じのが3枚出てくれば、当然3人ともエピソードは違うわけです。このポップに書かれていることは、音楽を聞く分には要らない話で、音楽性とは無縁なんだけれども、僕はやっぱり、生活とか背景とか文脈を持って聞くと、同じCDが同じCDじゃなくなるんだと思う。
 下神白でも、家を訪ねて生活の中に僕らが入り込んでいく時に、音楽という手立てがあることで、3年やっているとずいぶん認知されてきて、CDを受け取ってくれたり家に入れてくださる方が増えてきました。怪しいものは怪しいので、もちろん「けっこうです」と言う方もいますけど。そんな中、「実は団地を離れることになったんだけど、これからもラジオCDって送ってくれるの?」という相談を受けるようになりました。団地を出て元の町に戻られた方もいれば、悩みながらも新しい土地に家を建てる決断される方、ここを終の住処にするかどうか悩まれている方もいて、そういう方々と交流しながらやっています。

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人々の生活にアクセスする手立てとしての表現

アサダ:このプロジェクトでは、団地の生活に僕ら外部の人間が入って行って、音楽を通じてコミュニティをつないでいくわけですが、その時、僕らは支援している感覚ではないんですよ。というよりは、音楽を通じてその人の人となりを感じるライブ感がある。彼女たちがニュースで紹介される時は必ず「被災者」というくくりで紹介されます。でも、僕らはそういうことは聞かないし、わざわざ音楽を挟むことによって、直接被災の話ではなくて、いろんな回り道をして曖昧な領域を行き来して、その人の生きてきた雰囲気を受けとろうとする。こういう出会い方って表現活動だからできるんじゃないかなと思ったんです。そして、僕らが出来たのだから、東北や被災地に関わりたいけれど行ったことがない人たちがいるとしたら、そういう出会いのチャンネルとして、ラジオ下神白は使えるんじゃないかと思ったんです。そう思ってやったのが「報奏会」というイベントです。東京で関心がある方に来てもらって、レコードを流すのもアナウンスも全部その場でやりながらラジオごっこのようなことをして、団地の住民の声を聞いて「この人どんな人生なんだろう」と想像する。そして最後は「青い山脈」をみんなで歌いました。
 その中から次の展開として「伴走型支援バンド」を結成しました。これまで僕は生演奏をあえて避けてきたんです。生演奏をしてしまうと音楽が勝ってしまって、「音楽ってすごい力があるね」「みんなで楽しかったね」という話になりがちで、それはちょっと違うんだよなというのが自分なりにあって、地味にラジオをやってきたんです。でも、いよいよ住民さんとの関係性できて、「青い山脈」といえば誰々さんというように、住民同士で曲ごとの思い出が共有されてきたんです。なので、その曲を東京でバンドがカバーして、団地に演奏しに行ってみんなで合唱するというプログラムを今やっています。バンドメンバーの募集では、どうしてこのバンドで被災地に行きたいのかを書いてもらって、面接では演奏をしてもらうんですが、技術を見るのではなくて、本人にとって音楽とは何かということを語ってもらいます。「現場との出会い方のためのバンド」なんですよね。生活に入っていく手立てとして、こういう表現は使えるんじゃないかと思っています。
 僕がこのプロジェクトを通じて思うのは、支援しに行っているように見えるけれども、実は現場から受ける影響が相当大きいということ。最初は支援しに行くきっかけが得られると思っていたメンバーも、「自分たちが面白かった」「行けてよかった」と言います。そこが大事だと思うんです。福祉の現場でも僕は同じことをいつも思っています。自分たちが何かしてあげるという話ではなくて、自分たちが面白いと感じられる現場が山ほどあって、いろんな背景を持っている人の生活に、よいかたちでアクセスする手立てとして表現があるのだと思います。

ディスカッション

高林:ラジオに出る人も聞く人も団地の住民ということで、団地内で表現が行き来しているのは、無理に表現が崇められてない感じでいいですね。私たちの活動は「障害者」という言葉が勝ってしまって、なかなか他の部分に焦点が当たらなかったりします。音楽というクッションがあることで、その人個人の深いところや情みたいなところで繋がっていくというのは、面白い事例だと思います。ただ、音楽をやりすぎると音楽が勝ってしまうということで、塩梅が難しいんですね。

アサダ:表現って、やればやるほど表立って強度を持つので、それと日常生活をどう行き来するかということは、住み開きをやっている時からずっと考えていました。派手であればいいというものではないし、かといって何もやらないと生活そのものとしか言いようがないようなものになっていく。舞台に上がっていく感じと、舞台から降りているんだけど、この「間」にこそ大事なものがある、というのを常に考えています。

参加者1:昨年、次女の企画で、家を開放して障害のある長女の作品展をやったんです。次女がどうしても家でやらなきゃ意味がないし、作品だけを飾ってもしょうがないと言って、家族を全部出しちゃう企画をやったんですが、いろんな人が面白がって来てくれたんですよ。みんな、家族そっちのけで話していて、お客さん同士で仲良くなっていくし、勝手に入ってきて勝手に帰るみたいな感じで。あまりにも人がたくさん来すぎて、お客さんが案内していたりとか。

アサダ:面白いですね。僕がプロジェクトをやっていて、いつも思うことでもあるんですが、住み開きをしている方の中には「何もやらないのが究極の理想」と言う人や、1割は計画を立てても9割は余白を残しておくと言う人がいます。場が出来上がってくると、家主が途中で席を外して寝ちゃっても勝手に回っていくというようなことがある。ここは誰々さんの家だということはわかっているんだけれど、みんながそのことをいい意味で意識しすぎることなく、その人を介さずとも誰かと誰かがつながる状態を見られるのは幸せなことだと思います。

参加者2:マンションの一室で本屋をやっています。僕がいなくても、何をやっていてもいいから誰かがいてくれる、というふうに変えていきたいなと思っているんですが、いまはまだ「お店」という体を成しているんです。ただの場に集まって来て、あわよくば本を買ってくれるぐらいになるといいなと思っています。いっそ住んでしまって、自分が寝るまでやっているとか、起きたら店が開くとか、そのぐらいのほうがいいのか。今は営業時間つくって、やっぱり店としての体を大事にしちゃってるんですよね。

アサダ:市川ヨウヘイ君という友人がやっている、メガネヤという古本屋さんがあるんですが、ウェブには「南森町のマンションの一室で10年以上古本屋さんを営業している。古本屋を開放してホームパーティーやトークイベントやスナックイベントなどを開催」と書いてあります。「南森町のマンションの一室」というのは元208南森町です。当時、208の常連だった市川君は、自分の家で古本屋をやっていたんですが、自宅が手狭になったのと、208を気に入ったのもあって、そこを借りて古本屋さんをはじめたんです。元208の空気を彼も知っていてやっているからかもしれませんが、古本屋さんが場を開いていろんなことをやっているというよりは、家的な空間で古本もあってなんでもやっている曖昧な領域になっています。この場でお金のやりとりがあって本が売れているかというと、たぶん微妙だと思いますが、彼は本よりももっと他の何かを動かしてる気がしますね。

参加者2:先日、ある集まりの人たちが車座トークをやっていたんですが、どんどん話が逸れて、あるお母さんが学校の校則がおかしいという話をしはじめて。その時、そういう話を誰かに聞いてもらいたい人はたくさんいるけれど、職場などではあまり話しているわけではない、ということに気づいたんです。それをうまく店の本を使ってやっていけば、広がりがあるかなと思っているんですが。

アサダ:そうですよね。というのも、この市川君が普段やってることは、ほぼ人生相談なんです。みんな悩みを解決しようと思って行くわけではなくて、ふらっと行って本を読んだり話をしていると、失恋とか子育ての話がぽろっと出てきて、彼はそういう話を受け止め続けている。いや、ただ受け止めているというよりは、いい意味でズラしたり、他の関心につないだりもしているかと。さっきの団地で音楽を介して話すのと一緒で、僕らが「なんちゃら訪問です」という感じで行ったら、話す内容はたぶん違ったと思うんです。音楽でもなんでもいいけれど、入口がたくさんあって、ちょっとつつくと、なかなか出てこなかった話がたくさん出てくる。それを出口のほうから見ると、完全に悩み相談のように見えるけれど、「悩み相談に乗ります」と入口から言ってしまうと、人は来ない。

参加者2:それをゆるくやるのは、けっこう難しいなと思っています。世の中の人は本屋に行っても店員と話はしないと思うんですが、自分はその真逆をやっているので面白がって来てくれる人はいると思う。自分も話を聞くのは楽しいし、いいアドバイスしなくてもいいやと思って聞くんですが、聞き流すのは難しくて、わりと正面から受け止めちゃうんですよね。

アサダ:自分ひとりで受け止めたって、結局受け止めきれないし責任持てないので、何人かでバトンタッチしていったほうがいいんじゃないでしょうか。

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ササキ:住み開きをしていた時の生活が表現になるという感性と、子育てはどう連続していますか。自分の血縁家族ができた時に、その感覚は変わったのかつながっているのか。

アサダ:大阪から滋賀に引越してから上の子が生まれました。子育てしながら住み開きしていると子ども連れにも来てもらえるし、今後もこんな感じでやっていくのかなと思ってたんですが、一方で僕は仕事で東京にいることが多くて、滋賀と東京が半々くらいになっていくと父親不在の状態になるじゃないですか。まずいなと思って、2人目が生まれるタイミングで東京に家族で引っ越しました。そこから生活を整えるのが大変で、ネガティブに言うと家を開く余裕がなくなった。あえてポジティブに言うと、仕事で場づくりをやたらめったらやっているので、家でまでやるモチベーションが下がったんです。そんななか、子どもの保育園問題や僕の仕事の今後のこともあって、しばらくは妻と子どもたちは新潟で実家と近居、僕は東京に住みながら新潟に通うことになりました。
 というわけでもう住み開きはやっていないんですが、こういう家族の変遷自体を書こうと思って、この2年間、ウェブ平凡で『ホカツと家族』という連載をしています。リアルタイムで全16回書き終えて、12月に本になります。家族公認で赤裸々に書いているんですが、同時に、僕が「この家族いいかも」と思った方に取材をしに行って、合間に違う家族の話が入るという構成になっています。どうやって家族を開いていったかとか、どう家族の変化を受け入れるかといったことを、悩みながら実践している人たちと一緒に言葉にしていこうと思って。それはそれで住み開きという形で場を開いていた時とは違うつながりができました。この原稿を読んでくれて、うちの家族にも思い当たることがあるというような人と。
 「住み開き」の本でも31事例取り上げましたが、7年くらい経っているので半分ぐらいやめてるんですよ。そのほとんどが家族や生活環境の変化によって、やめたり移転したり、店や仕事など違うかたちになったりしています。生活と直結している表現ゆえに、もろに生活の影響を受ける。もうすぐ出る文庫本では、やめた人がやっていた当時をどう思っているのかも取材しました。面白かったのは、やったことでこういう縁ができてよかったと言っている人の現在を見ると、住み開きを経て違うステージに上がっているという意味で、住み開きはスタートアップ的な生活実験の場だったんだろうなと思います。

久保田:アサダさんはヘルパーをやっていた時期もありますよね。たけし文化センター連尺町では、障害の人の生活を支えることの中に、住み開き的な遊びは入り込めるのかということを実験しているんですが、そういったことで何か感じていたことはありますか。

アサダ:僕がヘルパーをやるきっかけになったのは、槙邦彦さんという尊敬するヘルパーの存在です。槙さんは大阪東成区でココペリというNPOを運営されていて、脳性麻痺の方や車椅子の方の支援をやっていらっしゃいました。一方で、演劇とか音楽もやっていらした。2005年に、ココペリのメンバーさんとココルームで、障害のある方と演劇作品をつくる「ほうき星プロジェクト」をやりました。その時、僕は演出用の映像を撮るために、メンバーさんの生活に入って行ったんです。ヘルパーについていくわけですが、メンバーさん本人とも仲良くなって一緒に寝泊まりしながら撮っていたときに、ヘルパーの仕事は面白いんだなと感じました。それまでは、ミュージシャンとしての槙さんの姿を見ていたけど、彼がヘルパーをやっている姿も全くブレていなかった。この人は、音楽もヘルパーも面白いと思ってやっているんだ、アート活動と生活が地続きなんだ、ということがわかったんです。それで、自分が障害のある方と何かすることに関心を持った時に、支援の現場にも一度入ってみたいと思って、ヘルパーの勉強をしたり現場に入ったりしていた時期があったんです。
 その時に、槙さんがやっていた実践が、実は住み開きのようなことでした。「オシテルヤ」という場所があるんですが、槙さんを含め、ココペリで働いているヘルパー3人のシェアハウスでした。そこをバリアフリーにしてメンバーさんのたまり場にしたんです。なぜかというと、ガイドヘルパーをしていると、映画館に行くとか演劇に行くとかで、何かとお金を使う。でも、面白いことは自分たちでつくれるから、その場所を持てばいいんじゃないかと考えたんです。そこにしょっちゅうメンバーさんが来て何かやっている。だから、槙さんたちからしたら24時間ヘルパーをやってるようなものですが、あくまで家の生活を開いて集まるようにした。なので、この時間は彼にとっては仕事じゃないんですよ、ある意味。そういうことまでしてやろうとしている姿勢が面白いなと思いました。ヘルパーさんの日常生活を開いていくことによって、実は支援の時間以外でも、メンバーさんの可能性が広がることに気づいて、とても影響を受けました。
 ヘルパーさん自身がいろんな人の出会いを大事にしていたので、僕が随行できた。普通はなかなかそんなことさせてもらえません。ヘルパーさんとしては仕事に付き合われたら困るし、メンバーさんも困るからって。意外とメンバーさんは「俺はいいよ、誰が来てくれても」と言ったとしても、ヘルパーさんがシャットダウンする可能性があるわけです。ヘルパーさん自身の開き方に余白があるということが大事だと思います。

(了)

編集:石幡愛

ゲストプロフィール

画像5アサダワタル(文化活動家)
1979年大阪生まれ、東京都⇄新潟県在住。文化活動家/アーティスト、文筆家、社会福祉法人愛成会品川地域連携推進室コミュニティアートディレクター。音楽をはじめとした「表現」を軸に、福祉施設や復興住宅、小学校や住居や街中で、属性に埋もれない「一人ひとりの個性」に着目したコミュニティづくりを行う。2019年から、品川区立障害児者総合支援施設のコミュニティアートディレクター(社会福祉法人愛成会所属)として、障害のある人と地域をつなぐアクションを行うほか、「千住タウンレーベル」(東京都足立区、2016年.)、「ラジオ下神白」(福島県いわき市、2016年.)など、全国各地でアートプロジェクトを展開。著書に『住み開き家から始めるコミュニティ』(筑摩書房)、『コミュニティ難民のススメ表現と仕事のハザマにあること』(木楽舎)、『想起の音楽表現・記憶・コミュニティ』(水曜社)、『表現のたね』(モ・クシュラ)、『アール・ブリュットアート日本』(編著、平凡社)など多数。東京大学大学院人文社会系研究科、京都精華大学全学プログラム非常勤講師、大阪市立大学都市研究プラザ特別研究員、博士(学術)。また、グループワークとしてドラムを担当するサウンドプロジェクト「SjQ/SjQ++」では、アルス・エレクトロニカ2013デジタル音楽部門準グランプリ受賞。

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