見出し画像

「ウンチ奇談」

ある気づき

数年前にふとした気づきがあってから、そうではないかという思いが拭いきれず、頭から離れないある考えがある。順を追って説明しよう。トイレで用を足しているときに、ふと匂った、そして思った「俺のウンチが、たけしのウンチの匂いに似てきてる?」。似ていることは確かだった。それが以前からそうだったのかどうか。確かめる術はないのだけれど、きっと違った気がした。もちろん、その時々の体調によって匂いは違う。けれどそれ以降トイレでやっぱりそうだと思うのだった。「俺のウンチは、たけしのウンチの匂いがする」

菌を共有している

長年連れ添った夫婦やパートナーの顔が似てくるという現象がある。もともと似ているからこそ連れ合うことになったのだという向きもある、実際そういうこともあるのだろう。また違った説で、共同生活を送っているために腸内や皮膚の常在菌が同じになることが原因だというものを聞いたことがある。その真偽については知らないし、それを明らかにするのはここでの目的ではないから置いておくとして、しかしそれは面白い考えではないだろうか。「たけしとウンチの匂いが似てる」そう思ったわたしは「たけしと俺は菌を共有しているのか」と考え始めた。そうであっても無理はないはずだと考えた。部分的とはいえ、次にあげるような仕方で、食事や排せつなど、わたしは壮さんと共同で生活をしているのだ。

画像2

身体介助について、共に行うこと

壮さんは生活の様々なことにおいて介助を必要とする。食べるときに、食べ物を口に運ぶ。それだけではなくて、彼が食事に向かえるように、ホットプレートをセットし匂いを立たせ、からだの向きも考えながら椅子を用意して…という具合に、彼の食事へのアテンションも共に形作っていく。あるいは、眠るときの体温調節。気温や背中の汗の様子から彼の体感温度を推し量って、寝具なんかを調節する。そして、排せつ、トイレだ。何を隠そう、わたしは壮さんのトイレ介助がけっこう嫌いじゃない。好きだと言っていい。ほとんど言葉を介さずに交わすこの相互行為は、デュオのダンスを踊っているような感じがする。まず、壮さんの便意を察知する。彼は基本的には成人用おむつを着用して排せつすることが多いわけだが、いきむときの声がして、しゃがみ、手の甲でお尻をたたいている彼を見て、わたしは「ウンチだな」と察してゴム手袋を用意する。ゴム手袋は彼にとってトイレのサインにもなっていて、ゴム手袋をつけたわたしが手を添えるのを見て、彼も立ち上がる。トイレの前で衣服を脱ぐとき、彼の着るつなぎの前を開けると、彼がタッパーを左手に持ちかえるので、すかざずわたしは右手の袖を外す。すると脱ぎ終わった右手に彼がタッパーを持ちかえるので、今度は左手の袖を外す。そして、わたしは彼の前にしゃがんで、彼の左手をわたしの肩に置いてもらう、これは彼がバランスをくずさずに片足をあげられるように。だいたい彼はいつも左足から上げる。そうでないときは、ぽんぽんとふくらはぎのあたりに触れる、これは「足を上げて」というわたしからの合図。トイレに入って手すりを持ってもらい、後ろからわたしがオムツを外すと、彼は洋式トイレの便座の上に足をのせて和式トイレのような体勢でしゃがむ。声を出しながら、あるいは便器の足をかるくたたいたりして、腹圧をかけているのがわかる。彼のタッパーを持っていない方の手を下から軽く支えながら、わたしは彼の足の間から便器の水面を覗き込む。運とタイミングがよければ、そこでそうして排せつする。水面に便が落ちてくる影が見えると、いつも不思議な感動がある。「いいぞー、たけし、オッケーイ!」そう言いながら、すぐに用意してあったトイレットペーパーでお尻を拭く。
先にも書いたように、こうした排せつのように、普段わたしであれば一人でしていることを、二人で共に行うこと、それ自体にとても惹かれるところがある。ただし、一人でするそれにまた戻ることができるわたしと、そうではない壮さんとの力関係はけっして対称ではない。それを何度も思い起こしつつも、この共同/協働性の魅力はやっぱりあると感じている。
もちろん、いつもいつもスムーズに事が運ぶわけではない。デュオにはいつも親密さとともにある緊張感がともなっている。

親密さと防疫のジレンマ

人間ならざる菌によって、わたしたちはまさに共同の体を持ってしまっている。わたしの頭を離れない考えとはそういうもので、それをここで書こうと思っていた。しかし、このことの意味は「コロナ禍」と呼ばれる現在の状況において、戯言ではないリアリティを持ってしまったことも付け加えておかないとならないだろう。このアイデアを得たときには、まさかそんな状況が来るとは思わなかった。
生活をするために必要な共同の行為が、親密な身体介助が、同時に感染のリスクでもあるといわれる。集まることを避け、距離を取る必要を訴えられ、それを内面化しながらも、わたしたちはたけぶんで生活している。生活の冒険を続けていくには、どうしたらいいのだろうか。親密さと防疫のジレンマを感じながら、今日もわたしたちはウンチしている。

画像2

筆者(ササキ)と壮さん

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?