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重度知的障害者と暮らしてみたら、特にやることがなかった


本当になかった。これは私も意外だった。
一緒に暮らしてみる前は、そうはいってもトイレや食事の介助のお手伝いをすることになるんだろうなー、さぞ、大変なんだろうなーと思っていた。重度知的障害者と住むってことは私も「支援者」になるんだろうなーとか思っていた。でも私が今、同居人と築き上げつつある「関係」はそういうものではなかった。


ひとまず、私の今の住まいについて紹介する。


私は今、たけし文化センター(以下たけぶん)3階にあるシェアハウスで暮らしている。シェアメイトは久保田壮(たけし)君という男性である。(今回から以下、たけしと呼ばせていただく。一緒にくらす中で、私とたけしの距離は少しずつ近づいているのだ)。たけし以外にも、同居人はもう2人いる。高橋舞さん(まいちゃん)という女性と太田燎君(おおた先輩)という男性。3人とも私と同じ20代の若者で、私と違うところと言えば、3人とも重度の知的障害がある。

同居人の3人は日中、1、2階の障害福祉サービス事業所アルス・ノヴァを利用した後、夕方に3階のシェアハウスに帰ってくる。泊まる頻度はそれぞれだが、週3実家、週4シェアハウスみたいに交互にくらしている。


NPO法人クリエイティブサポートレッツ(以下レッツ)が立ち上げたこのシェアハウス事業は、障害者たちの「親からの自立」を掲げてスタートした。重度知的障害者の主な支援の受け皿は親か、入所施設か、ケア付きのグループホームがあげられる。ただ厚生労働省のまとめによると、知的障害者の大部分は、(平日の日中は施設に通所するにしても)親と暮らしているのが現実のようだ。トイレや食事などの介助が必要なケースでも、その全般を家族が担っていることになる。でも、障害者の暮らしが、家族の状況に依存されるのは危うい。親は老いても、障害者たちの人生は続くのだ。そんな現状のアンチテーゼ、もしくは未来への実験、みたいな感じで、たけしたち3人はシェアハウスで暮らしている。


本題に戻る。3階での暮らしは障害者家族の親離れ・子離れだとか、そもそも自立ってなんだとか、いろんなトピックを浮かび上がらせるのだが、今回は「たけしと暮らしてみた、私とたけしの関係」という私の素直な感想にフォーカスをあてて、お話を進めたい。(他の2人もまあ個性的で話題に事欠かない、最強の同居人なのですが、それは追々…)


冒頭、やることがないと言ったのだけれどもなぜそうなるかというと、たけしは重度訪問介護のサービスを受けているので、そばには常時ヘルパーがいる。トイレや食事の介助は全部ヘルパーがやる。だから私は「たけしのために」やることは基本的にない。たけしがへそ曲げて「ご飯食べたくない!ぷい!」としている時でさえ、何なら皿をひっくり返しちゃったときでさえ、私は「今日はたいへんですねえ~」とヘルパーに声かけるくらいしかしていない(ヘルパーさんに内心むかつかれていたらどうしよう)。たけしの食べこぼしやよだれで部屋が汚くなっても、ヘルパーが仕事として処理する。

じゃあ、私は何なのか。一番に最初に記したエッセーでも言ったようにただの同居人である。ここがこの事業のミソだ。たけしの母親のレッツの久保田翠理事長は「たけしも24歳の若者なのだから、親と暮らすのはよくない。人生を狭める」という。たけしは私も含め、このシェアハウスのゲストルームに泊まる、いわゆる「一般の人」と関係を築きながら、ここで暮らしていく。世の24歳がそうであるように、複数の他者と交わる。彼は彼の人生を生きるのだ。


そういったシェアハウスの狙いを聞いて、「さてそれで、私はたけしとどうやって、どんな関係を築こうか?」とまず始めに考えた。できることなら「友達」としてお近づきになりたい。でも私はこれまで、話して、話しを聞き、なんだか向こうも私のことを信頼してくれているのではないかという思いを抱いて、人と友達になってきた気がする。でもしゃべることができないたけしとはその、コミュニケーションのプロセスが踏めない。どう、友達になろうか。


しかも、たけしは「分からない」やつなのだ。昨日はもりもり食べていたご飯を今日は急に食べなくなる。リビングで穏やかに石遊びをしていると思ったら私のパソコンをぶったたいてくるし、「何なん?機嫌悪い?」って思うと、薄ら笑いで私の肩をたたいてくる。遊びたいのかな、と思ってたけしに近づくと、無視される。くっそ。


でも、たけしの母親の翠さんもたけしの考えていることは「分からない」という。親でさえ分からないのだ。私に分かるはずもない。


でもこの「分からなさ」のモヤモヤを整理してくれた話がある。
レッツ内で有名な(?)「たけし金髪事件」だ。
たけしは毛先だけ色が金髪の抜けた、おしゃれなグラデーションヘアをしている。これは過去にたけぶんに一時滞在していた男性が、スタッフを誘ってたけしの就寝中にブリーチして金髪にしてしまったからである。翠さんはたけしの金髪姿を見て、「本人の意思確認ができていない」とモヤモヤした、の、だが、その男性は「たけしを愛している人たちが、たけしに似合うと思って決めたのだから問題ない。たけしを無視したことにはならない」と翠さんに話したそうだ。一方のたけしは金髪にしたことにより、周囲に褒められ、機嫌もよくなったそうである。実際、よく似合っていると思う。翠さんは、たけしを金髪にする発想はなかったと振り返る。親との関係を飛び越えて、自身の人生を他者と生きる、たけしの代表的なエピソードだ。


私はこの話を聞いて、レッツに来てから抱えていた「いづらさ」みたいなものを、少しだけ飲み込めた気がした。たけしの考えていることは分からなくてもしょうがない、どう関係を築くかじゃない、関係性はたけしのことが好きな私が決めればいい、とかなり楽観的に捉えた。たけしは「友達」だ。私の自称でしかなくても、「友達」だ。一方的な思いみたいなところはあるけれども、まあ「友達」にしとこう。


つまりは、「たけしのために」何かをしてあげようと、私はここにいなくてもいいのだ。ここは自分の家でもあるのだし。友達なら「たけしと」ただ一緒にいて、「たけしと」何をするか探せばいいのかと、すっと腑に落ちた。


そしてたけしは、案外私以外ともそんな関係を築いているのではないかと思う。

家でたけしを観察していると、周りに流れる音楽がいつも違う。音楽狂いのたけしなので、彼の気分をあげるためには音楽が一番だ。そして、たけしのそばにいる人は、それぞれが自分の好きな音楽をかけている。ビートルズだったり、エレファントカシマシだったり、ユーチューバーのフィッシャーズの歌だったりする。ラジオからたまたま流れてきオルゴール調の君が代にもたけしはノっていた。ピアノの弾けない私が適当に鍵盤をたたいているときもたけしは笑顔だ。たけしほどの音楽雑食になると、みんなもはや「たけしのために」音楽はかけない。「たけしと」自分が楽しくなるために、自分の好きな音楽を流している。その結果、たけしはご機嫌だ。


「ただ一緒にいる」のはむずかしい。でも、ただ一緒にいることのコツはこの辺りにあるのかもしれないと思った。「誰かのために」ではなく、「誰かと」って考えるほうがずっと気負わずにいられる。私は今ここにきて2週間近くたっているのだけど、時間の経過も相まっていづらさは解消され、気楽に「たけしと」ただ一緒にいることができている。


相変わらず特にやることはないし、ヘルパーが一生懸命仕事している隣でただぼーっとしているのは申し訳ない時もあるのだが、リビングでたけしが石遊びをしている隣で平気で読書とかしている。たけしが私のもとに寄ってきたり、私がたまに寄っていったり、つかず離れずの同居人をしている。親じゃなくても、ヘルパーじゃなくても、私たちは重度知的障害の人たちと関係を築ける、ただ一緒にいられるということを私は今体感している。

私はコロナ禍が終わったら、たけしを地元の広島へ引っ張り出したいとひそかに思っている。たけし、特別支援学校高等部の時の修学旅行先の広島で、夜になっても静かに眠ることができず、旅行中に1人だけ先にお家に帰る羽目になってしまったらしいのだ。私の愛すべき地元を堪能できなかったなんて、そんなの残念ではないか。


乗り物好きのたけしは船には乗ったことがないらしい。
たけしが広島に来てくれたら、たけしと一緒に瀬戸内海で船に乗りたいと思う。


偶然出会った、このつかず離れずの友達が、たけしの人生を広げることになったらうれしい。

ライター:トモコ

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