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【トークシリーズ#3・レポート】相澤久美さんに聞いてみる!「家族という境界を揺るがす住まいと生活(第一部)」

ゲスト:相澤久美(建築家、編集者、プロデューサー)
聞き手:高林洋臣、久保田翠(認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ)

幼少期から引っ越しが多く、血縁者以外の人たちを頼って生きてきた相澤さんは、現在、結婚・出産を経て、東京の自宅兼シェアオフィス兼ゲストハウスを拠点に、そこを出入りする人たちと暮らしも子育てもシェアしながら、各地を飛び回る生活をしています。相澤さんのプライベートとパブリックの境界がない家と、フォーマルとインフォーマルの境界がない人間関係からは、プライベート(家族)とフォーマル(制度)で完結しがちな重度知的障害者の暮らしを、風通しよく変えていくためのヒントが見えてきました。

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いろんな人に助けられて育った子ども時代

相澤:生活のかたちはそれぞれだと思うのですが、一般的にはこうあるべきだというステレオタイプがみんなの頭の中にある気がします。私は特殊な住み方をしていますが、特殊な家に育った影響もあると思うので、その話からはじめたいと思います。
 1969年生まれで今年50歳になりました。父は戯曲作家でアクティビストです。いま85歳ですが、チェ・ゲバラのTシャツを365日着ていて、戦うことに一生を費やしているような人です。母は絵描きで、デザインやちぎり絵をする繊細な人です。2歳上に姉がいます。金融の世界に働き、イギリス人のパートナーと国外に住んでいます。
 私は東京生まれですが、2歳で千葉、4歳で山梨に行き、6歳から高校1年生の初めまで山形で過ごしました。自分の正義を信じる父はなぜか引っ越すことが多かったんです。家には父の仲間が集まり、小上がりで一人芝居している役者さんや、父とタウン誌を作る編集者など、誰かが家にいることが多かった。母は実家に戻ることも多かったので、周りの誰かがなんとなく子どもの面倒を見てくれていました。山形にいた14歳の頃、親元を離れて姉と二人暮らしをはじめました。15歳のとき姉が大学に行き、私は寮に入ったんですが、父に「やっぱり一緒に暮らそう」と言われて二人で暮らし始めた。でも、いろいろあって、高校を中退し、その後静岡の父の友人の家に居候しました。全然知らない土地、他人の家です。その年だけで結局、神奈川、東京と5回くらい引っ越しました。その間、いつも誰かに助けられて生きていました。
 親には「主体的に創造的に生きろ」「自分で考えて自分で行動せよ」とだけ言われて育ってきて、日本の学校は窮屈でしょうがない。それで、一度中卒で働いたんですが、「中卒じゃなんともならんぞ、手に職つけろ」と周りの大人に諭されて、アメリカに留学しました。私は高校に4つも行っているんですが、1校目の日本の高校は中退。大検を受けようとしたけれど、親に「やっぱり高校に行け」と言われて、しぶしぶ行った2校目も夏休みで辞めてしまいました。そして、もう一度高校に戻ろうにも、入れてくれるところがなかったんです。でも、ちょうど庶民でも留学できる時代になっていたので、16歳でアメリカに行きました。1年目は、お父さんお母さんと2歳の娘さんがいるホストファミリーのところで暮らして、高校2年からは寮で、世界各地から来た留学生たちと暮らしました。寮で面倒を見てくれるのは高校の先生で、代わる代わるごはんをつくってくれたり、寮にあるビリヤード台で、イギリス人とかドイツ人と夜な夜な遊んだりしました。大学生になって初めて一人暮らしをしたのですが、友人知人がよく遊びに来ていました。高校大学のいわゆる多感な時期をアメリカで過ごしているので、性格はその影響を受けている気がします。
 その後、22歳で帰国しました。当時は一人暮らしでしたが、便利なところに住んでいたので、飲んで帰れなくなった人がよく泊まりに来ていました。建築事務所に勤めていたので、事務所での寝泊まりも多くて、その仲間とは家族同然の関係でした。26歳で独立して事務所を借りると、昼間は建築事務所として使うのですが、夜はいなくなるので、デザイナーの女の子に「ここに住んだら?一緒に借りたら家賃少なくて済むよ」って。リアルに家賃を折半してみたのはこの時から。
 設計の傍ら、若手の建築家仲間と、自分たちの言いたいことを言えるメディアをつくろうといって「都市の雑誌」というビジュアル文芸誌をつくりはじめました。その頃、「オルタナティブファミリー」という言葉を誰かがどこかで見つけてきたんです。血縁者と住むより、趣味嗜好が同じ人同士が集まって住む方が心地よいこともあるし、血縁に捉われない家族もあるんじゃないかとか、家族ってなんだろうといったことを、26.27歳頃から考えはじめていた気がします。

都市生活者の家「foo」

相澤:30歳で結婚して、すぐ妊娠したので、とりあえず旦那の実家に引っ越しました。この時点で40回くらい引っ越しています。当時、私は父と一緒に土地を探して家の設計に着手している段階で、32歳のときに「foo」という自宅兼ゲストルームやオープンスペースや事務所があるような家を建てました。それから18年間同じところに住んでいます。
 都市には空いている空間が多いですよね。例えば、夜のオフィスは空いているし、昼間は働く人の部屋や家が空いている。その空間がもったいないと思ったんです。特に東京は高密度に建物が建つなかで、自分たち家族が住むだけの住宅を建てるのなんて考えられない。だから、都市の一部が家の中に入り込んでいるような場所、24時間ちゃんと使われる空間をつくりたいと思ったんです。
 地鎮祭の時から誰と一緒に使うかは決めていました。後に「フリックスタジオ」という建築・デザイン関係の編集事務所を設立することになる友人らが、ちょうど独立したばかりだったので、シェアをもちかけました。シェアオフィスと自分の設計事務所、1階に路地のようなオープンスペースをつくって、いちばん上が自宅。それから、子育てはなんだか大変、という認識があったので、子育て仲間が駆け込んで来られるような機能も当時いろいろ考えました。
 「都市生活者の家」というテーマでコンペに出して、賞をいただいたこともあります。24時間のうち、住宅、事務所、カフェなどいくつかの機能が、どういうふうに使われるかを面積と時間で計算すると、そもそもの家の面積に対して機能がかぶるので、実際の面積よりも体感面積は広がるよねということを考えていました。いまでは、庭の桐の木が10mほどに伸びて実のなる梅があってと、東京らしからぬ空間になっています。
 子どもは欲しかったので産もうと。でも、自分が育ってきた環境を考えると、ひとりで子育てするのは無理、でもみんながいれば何とかなるんじゃないかと思っていました。子どもが生まれたときから、設計事務所と編集事務所の仲間が毎日いて、一緒にご飯を食べたり、子育てしたりする暮らしをしてきました。
 職場と住居が近接していることに加えて、トイレくらいしか扉がないし、いつも人がいるので、プライバシーがなくて大丈夫なのですかとよく聞かれるんですが、囲い込んで隠さなきゃいけないプライバシーなんてさほどない、と自分では思っています。それに、どこにいても、みんなと一緒にいても、基本的には孤独で、私は私でしかないということを考えると、プライバシーを囲い込む必要性を感じなかった。
 27坪ほどの敷地で、間口が2m5cmしかない細長い建物なんですが、1階は長い通路があって入っていくとオープンスペース、事務所、キッチンがあるという間取り。上まで吹き抜けになっている中庭もあります。子どもが小さくて外に出づらいので、みんなに来てもらえばいいじゃんということで、イベントをよくやっていました。1階は商店街の会長さんがお茶をしに来たり、誰かが友達を連れて来たりというふうに、いろんな人が出入りする空間になっています。
 通路部分の2階は事務所になっていて、片側にテーブルが置いてあって6人くらい入りました。実はこれがもう一層あるんですが。ここに友人の編集者が15年間同居していました。編集の仕事ってあまり時間は関係ないので、終電を逃すと泊まっていく人もいました。なので、いつも誰か家にいるから私は鍵を持たずに出かけて、時々みんなが帰ってしまった後に鍵が閉まっていて入れなくなったこともありました。
 2階にはゲストルームの和室もあって、1階で展覧会をやるときにはアーティストが泊まったり、映画の撮影をしている間、映画監督が何ヶ月か住んだりしています。
 設計事務所のスタッフは、うちの子どもたちの保育園のお迎えに行ったり夕飯をつくったりしてくれました。「家事をやらないで住宅の設計できると思う?食事くらいつくれないとキッチンの設計なんてできないよ」と言いながら、やってもらっていたんですけど。子育てしながら仕事を続けて来られたのは、いろんな人たちと一緒に暮らしてきたからだと思っています。いまはみんな結婚してよきお父さんになっています。
 3階にも居間とキッチンがあって、いちばん上が寝室になっています。ここに階段があるので大人は上るのを遠慮しますが、子どもは関係なく上がっていくので、ほぼ他人が入りこまない場所はない。
 「東北記録映画三部作」という映画を撮っていた酒井監督は、いまも東京で仕事をするときには泊まって行きます。娘たちは慣れているので、一緒にごはんを食べたりしています。港区なので、仕事をしながら子育てしているお母さんが多いんですが、だいたいマンション住まいでお父さんの帰宅は遅い。お母さんと子どもだけで過ごしているとたまにしんどくなるからということで、娘の同級生のお母さんがごはんを食べに来たりもします。という感じで過ごしているので、私がごはんをつくることもあるけれど、別の誰かが勝手につくってくれていることもあります。
 いまも東京にいることは少ないですが、先日はたまたま帰ったときに久保田さんが家に来ていて、一緒に話をしましたよね。娘たちは誰とでも馴染めるような子に育っています。

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大きな家族観と小さな依存先

久保田:相澤さんは建築家と言いましたが、今いろんな仕事しているんですよね?

相澤:建築家の仕事の一環だと自分では思っているんですが、映画の製作や編集の仕事もしていて、東日本大震災以降、防災減災に関わる情報誌も発行しています。災害支援の仕事がきっかけで、東北にできた「みちのく潮風トレイル」という歩く旅の道のプロジェクトに関わってもいます。

久保田:震災後、月の半分は家にいないんですよね?お子さんが高校3年生と小学6年生のお嬢さんで、小さいときからそういう暮らし方をしてきたというのが、話には聞いていたけれどすごく不思議。知っている人とはいえ、家族ではない人が家の中にいて、当たり前のように子どもの面倒をみたり、一緒にごはんを食べたりするような付き合いをしているというのが、自分にはできる気がしないので。なぜかというと、ここはプライベートだからという思いが私は強いんだろうなと思ったんです。その壁がないというのは、どうしてなのか。小さいときからそうだったというのもあったと思うけれど。

相澤:そうですね。子どもの頃から誰かが家にいたのと、14歳で家を出て、いろんな人にお世話になりながら暮らしてきたことは、大きく影響していると思います。私の旦那は、専業主婦の母、サラリーマンの父、自分と弟という4人家族で育ったので、最初はすごく戸惑っていました。この家も一緒に設計したのですが、3階の居間も全部ガラス張りで丸見えなので、「プライバシーがないじゃないか」と言われましたけど、今ではすっかり慣れて何も気にしなくなっているので、慣れはあると思います。ほんとにプライバシーってなんなんですかね。何を隠したいのか。

久保田:そうですよね。固定観念に捉われているのかもしれない。住宅って、本当に開かない限り、人がやってくるところじゃないから、閉じていくんですよ。

相澤:そうなってきていますね。でも、中村好文さんという先輩の建築家が取材しに来た時に、彼が原稿の冒頭に書いたのは、「僕が小さい頃は、どこの家も鍵が開いていて、子どもたちはどこの家にも勝手に出入りしていて、誰かの家でご飯食べて、誰かの家でお風呂に入って、どこの子であろうとご飯を出して、お風呂に入れて、叱って、可愛がって。そういう中で僕は育ってきた。それが、だんだん閉じる方向になっていった。」って。誰かが縁側に座っているとか、勝手に家の中で何かしているというのは、今でこそ不法侵入罪ですけれども、かつては当たり前にあったことなんだろうと思います。

久保田:私には、障害のある子どもがいるんですが、プライベートとか家族については一般的な考え方を持っていて、家族でなんとかしなきゃと思ってきた。アルス・ノヴァという開いている場所もあるけれど、そういうパブリックな場とプライベートは分けるという考え方をしてきた。
 でも、壮が23歳になり、夫が病気になって亡くなったことで、一気に家族がダメになってしまうというか、プライベートでなんとかするというのが立ち行かなくなったんです。もちろん、私たちの場合は、福祉の手が入っていてケアしてくださるんだけれども、それはあくまでもお仕事なんですよ。相澤さんみたいに友達になるとか、金銭のやりとりなしに助けてもらうという関係は組み上げてこなかったので、憧れがあって、これからどうしていったらいいんだろうと思ってるんです。

相澤:うちの子どもたちは障害があるという分類はされていないので、久保田さんが抱えている課題を共有できたりできなかったりすると思うんですが、私は、少し気持ちが弱い母にも強すぎるアクティビストの父にも頼れない、他の誰かに頼らないと生きていけないという状況を子どもの頃に体験しているんですね。で、自分に子どもができたときに、この子たちが、私がいないと生きていけないような状況はつくっちゃいけないと思ったんです。自立ってたくさんの依存先を見つけることなんだ、というのは熊谷晋一郎さんがおっしゃっていたことですが、生まれた時は親と子が一対一の関係だけれど、子どもなりに依存先を分散させていって、いろんな小さな依存先があるから生きていける。自分が育ってきた家庭でも、自分の子どもを育てていくなかでも、それを実践してきたんだと思うんです。
 それから、自分が自分の思ったように生きていくという姿勢を見せることが、娘たちにとってもよいのではないかと思っています。というのも、私は、母に「あなたたちが大きくなるまで我慢して家にいる」と言われて育ち、とても嫌だったんですよ。気持ちはわかるけれど、そんなこと言うなら、我慢せずに出て行って欲しかった。私たち子供のために自分を犠牲にしている姿をみるのは辛かった。信頼されていないな、とも思った。なので、私は私なりにできることを精一杯やって生きていくし、彼女たちがやりたいことをサポートできるようにしようと考えてきました。
 私にとって家族という枠はとても大きくて、設計事務所の仲間も、映画を一緒につくっている仲間も、雑誌をつくっていた仲間も家族。だから、旦那じゃなきゃダメとか、自分の血のつながった人じゃないとダメという感覚はないです。それはもうずいぶん早くに、血のつながった家族を失っているからなんじゃないかと思います。もう、私が生まれ育った家族4人で集まる機会は二度とない。それがある人は羨ましいと思う。でも、私にはもっとたくさんの、いろんな大事な家族がいると思っているので幸せです。

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孤独を前提にした信頼関係

久保田:依存先っておっしゃったけど、強くて孤独に耐える力があるから人とつながっていけるのかな。

相澤:孤独に耐えるというより、全員孤独だということを実感しているだけだと思います。どんなに仲良い人や大好きな人がいても、自分が孤独であることは変わらないじゃないですか。それが前提にあるから、みんな大事って思える。

久保田:そうですね。だからある意味ドライだね。この間、泊まった日、ちょうど相澤さんが2.3週間ぶりに帰って来て、翌日また東北に行く予定だったらしいんですけど、翌朝、ご主人は「おかえり」と言っただけで「またどこか行くの?」って聞かなかったですね。また出かけると聞いて、ご主人は「あ、そうなの」と言ってどこかへ消えちゃった。私の感覚だと、まず「いつ帰ってくるの?」とか「今日?え?もうそんなすぐ行っちゃうの?」とか言って、それから「こんなに大変だったのに、あなたはどこ行っちゃったの?」みたいなことを、たぶん言っちゃうだろうなと思うけど、ご主人は一切文句を言わなかった。
 それから、高校3年生の娘さんが、進学で悩んでいて、お母さんと話したそうな感じだったんです。でも相澤さんは疲れ果てちゃってるから、「私、高校も大学もちゃんと行ってないからわかんなーい」とか言って寝ちゃったんです。それで、私、娘さんとお話していたんですけど、そういうとき、私は母親らしくしなきゃって思うタイプなので、友達が来ていたとしても「ごめんね、今日、娘が大変なことになっているから、ちょっと席外して」とか言って、娘の話を聞いちゃうんですよ。それで、ろくなことは言わないんだけど、あーでもないこーでもないって言っちゃうんだろうなと思った。でも、相澤さんは「久保田さんに聞いてごらん」と言って、するーっとしていたんです。それで、私の思っている家族の枠組みと、相澤さんが実現している家族の枠組みは、本当に違うんだと思った。家族の枠組みを曖昧にしていくことで、いろんな人が入り込める家族をつくれるんだというのを、まざまざと見せていただいた感じがしたんです。

相澤:血がつながっている家族というと、いま4人ですが、お互いにとても信頼しているんです。次女はまだ母親として見ているところがありますけど。旦那はもともと仕事のパートナーなんですが、信頼できる人なので、「私そろそろ子どもが欲しいから、結婚という形態をとらなきゃいけなくなるけど、子どもをつくってくれない?」とお願いして結婚しました。恋愛ではなく信頼している人だから一緒に子育てもできるだろうということなので、「お互いに好きな仕事をちゃんとやろう。ただし、子どもはちゃんと二人で守りましょう」という約束。なので、お互いに仕事のことは何も言わないというか、むしろリスペクトしている。だから、「居る、居ない」に関しては「必要だから出張に行くんだろう」としか思っていなくて。「明日の子どもたちの晩ごはんは大丈夫?」みたいな会話はしますが、最近は長女が全部できるので、そういう会話もなくなってきた感じなんですよ。
 で、長女の話に戻ると、久保田さんが来る前の晩に電話がかかってきて話を聞いたのと、帰宅して2週間ぶりくらいに会ったら、「受験やめていいかなぁ?」って彼女が言うから、「うん、いいんじゃない?やりたくなかったら、やらなきゃいいし。やりたくなったら、またやればいいし」って答えたの。「ただし、自分の判断はその後の自分に確実に影響してくるから、いろんな人に相談したら?」って言った後の久保田さん登場だったわけです。だから、あの時、久保田さんにお話しできて刺激になったみたいだし、その後、一人で初めて浜松に来てレッツを体験させてもらって、「すごく面白かった、いろんな人の話聞けてよかった」と言っていました。
 事務所をシェアする人たちとも、よく話す努力をしてきました。実はこの家、雨漏りするんです。それで、編集事務所の机が水浸しになったことがあって。赤入れした原稿がずぶ濡れになって、ドライヤーで乾かしたら、フリクションの赤ペンを使っていたので全部消えちゃったことがあったんです。普通なら賠償問題になると思うんですけど、笑って済んだ(ちゃんと謝りましたけど)。今までいろんな人が出入りしていますが、一度もトラブルになったことがないんです。みんなに我慢させちゃっているのかもしれませんけど・・・。私のキャラクターによるところもあると思います。すぐ謝っちゃうから。それから、「無事に生きていればいいや」ということを共有できる人たちに声をかけているんだとも思います。

久保田:たけしと生活研究会では、家族の枠組みに捉われない、重度知的障害者の生き方を模索しています。年齢が上がってくると、子どもには自我が出てくる一方で、親は衰えていくので、家族で一緒に暮らすのが難しくなっていくんです。そうしたときに、いろんな人と一緒に暮らす選択肢として、グループホームがあるけれど、疑似家族のようになってしまう。障害者の生活も、いろんな生き方や家族のあり方があるとは思わず、家族は良いものだ、家族に変わるものはないんだという前提で組み立てられてしまっているのかもしれない。

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高林:そもそも久保田さんが、壮くんが親元を離れたほうがいいと考えるようになったきっかけを教えていただけますか。

久保田:壮と家族旅行に行ったのは、彼が中学3年くらいが最後なんです。なぜかというと、旅行先でも入れ物に石を入れてたたくという行為をずっとやっていて、旅館の目の前に砂利が敷いてあると、そこでストップして中にも入ってくれない。そうすると、その砂利のところで夫と娘と交代で面倒を見て、空いている時間にごはんを食べたりお風呂に入りに行くという感じだし、無理やり部屋に入れても大暴れして、なんのために泊まりに行ったのかわからなくなっちゃうんです。それで、一緒に旅行に行くのはやめたんです。
 ところが、彼が二十歳のときに、アルス・ノヴァで旅行に行くことになったんです。「これは大変だ。みんな眠れないよ」と思ったんですが、その予想は外れて、彼はみんなと楽しく過ごして帰ってきた。結局、親だったからダメだったんだ、親じゃない人となら心地よく過ごせるんだということが決定的にわかった。こっちも我慢を重ねて一緒にいる部分もあるので、彼には彼の幸せがあり、私には私の幸せがあるというふうに、お互いの生活を分けていこうと思ったのがはじまりでした。彼はかなり障害が重いんですが、それでも自立ができるということがわかったのも事実。
 でも、現実的には、一人暮らしが実現できるほど福祉サービスは充実していないんです。グループホームや入所施設もあるのですが、そこに収まりきれない部分もあるので、どういう生活がよいのか、考えながらやってみようということで、3階のシェアハウスとゲストハウスがはじまりました。
 でも、私がもし相澤さんみたいな家族観を持って生きていたら、そんなことをしなくても済んだかもしれない。問題はプライベートとパブリックを明確に分けている発想なのかもしれないと、ふと思ったりもするんです。

相澤:アルス・ノヴァで旅行に行ったときは、久保田さんが旅館で困ったようなことはなかったの?

高林:何回か一緒に泊まりで出かけているんですが、同じような現象はもしかすると起きているのかもしれないけれど、家族で出かけるのと、仕事で出かけるのでは違う部分があるだろうし。でも、それを抜きにしても一緒に旅行して楽しい部分がありました。

久保田:子どもに障害がある家庭は、家族の枠組みがすごく強いんですよ。他者が入ってこない家族で何が起こるかというと、お互いの関係が煮詰まるんです。

相澤:入ってこないというか、入ってくる環境を家ではつくっていないんですよね。

久保田:そうですね。だから、アルス・ノヴァというオープンな場があるんですが、家族の中に他者がいるのは想定してこなかった。旅行では、家の生活がそのまま外に出ただけだから、壮は混乱して、私たちはうろたえる、というかたちにしかならないし、誰かが「見てるから、どこか行っておいで」と言ってくれることもない。そういう閉塞感があって、お互いに飽き飽きしちゃったんですが、その点、スタッフは全然違いますよね。

高林:一方で、付き合いが長くなると、家族以外でも閉塞感のある関係になるかもしれない。支援者が親のような立ち位置になってしまうかもしれない。

久保田:それを防ぐためには、他者の存在が必要だと思って、ゲストハウスを併設しているんです。重度知的障害者の場合は、家族じゃなくてもケアされて暮らすことになるから、その関係性が閉鎖的にならず、風通しよく成り立つ方法を考えていきたいと思って、相澤さんのお話をうかがいました。

インフォーマルな支援のジレンマ

相澤:久保田さんって「家族ってこうあるべき」というのが強いんだなというのが、意外でした。けっこう型破りなことをやっているように見えるのに。それは、ご自身が育った環境によるんだと思いますけど。私は、子どもが赤ん坊のとき、イライラすると、スタッフに預けてちょっと散歩に行くことが多かったんです。だから、子育てに煮詰まったことがあんまりなくて。

久保田:私は自分で何とかしなきゃという思いが強すぎて、なまじ体力があったから何とかなったけれど、もうなんともならないところまで追い込まれて気づいたわけ。でも、もうちょっと早く気が付けばよかったなという感じがする。

高林:東京で外出支援をしたり、知的障害者の自立生活を推進したりしている中村さんの話によると、グループホームも家族になることを目指すそうなんですね。でも、子どもが親を必要としているときに家族が必要だというのはわかるけれど、大人に対しても家族が要るのかというと、そうでもないんじゃないかと。
 家族ではなくヘルパーと暮らすのだとしても、仕事として支援するからには、友達とも違うし、本当の意味での信頼関係になりづらい。壮くんの場合、本人の命に危険があるかもしれないので、24時間見守りが必要で、それを保証するフォーマルなサービスは彼の権利ですが、24時間支援者が付き添って生活を組み立ててしまうと、インフォーマルな関係ができづらくなるというジレンマがあります。
 なので、積極的によその人も関われるように、ゲストハウスも併設してみようかなとか、シェアハウスには障害のある人だけではなくて、面白そうだから住むという人もいたほうがいいんじゃないかなと。

相澤:私は設計の仕事をしていますが、建築は大工さんや左官屋さんがいてはじめて成立する。もっといえば、私はコップもペンもパソコンもつくれないわけで、いつも誰かに支えられて生きているんですよね。私が健常者だというのも、そういう人たちに合わせた社会制度があるから。というわけで、いろんなものに依存していて、それがフォーマルかインフォーマルかという話ではないような気がするんです。お金をもらってケアすることと友達としてケアすることにそんなに大きな違いはあるんでしょうか。ただ、命の危険があるから目を離せないというような状況には、私は直面はしてないのですが。

高林:仕事で支援する立場になると、責任が過剰になって安全志向になりがちなんです。

相澤:でも、友達として関われば責任がないということではないし、お金をもらうことで責任が生じるから面倒を見るというのも寂しい。仕事かどうか関係なしに一対一の関係という点ではあまり変わらないはずなのに。

久保田:スタッフなんだからもうちょっとしっかりしたら?と言われるくらいに、だらっとしちゃうのもありなのかな。私はそれもできなかった。家族でなんとかしなきゃ、他人に迷惑をかけちゃいけないと思っていた。

高林:結局ここのシェアハウスも、他に任せられないから自分でつくりあげてしまったわけですしね。

参加者1:レッツの利用者の母です。うちは福祉サービスをたくさん使っているんですが、実は今日から二泊三日で友人のお宅に泊まっているんです。前からずっと「泊まりにおいで」と言ってくれていたんですけど、何年か前に一回泊まりに行ったきり間があいて、この間、その人が仙台まで二人で旅行に行ってくれて、それが大成功だったんです。親だと「暴れたら困る」と思って狭めてしまって、本人の経験値が増えていかないけれど、その旅行はいい経験になったなと感じたんです。
 こうやって関わってくれる人が増えれば、本人はいろんなことが経験できますよね。私とだと、普段スーパーには連れていかないんですが、他の人とだと普通に買い物して荷物も自分で持って帰ってくるっていうんですよ。そういう驚くような経験ができるので、そういう人たちが増えてくれたら住みやすくなるなと思います。
 ただ、その友人たちに「また一緒に行ってね」とは頼みづらいんですよ。友人は全然嫌がっていないけれど、何となく遠慮しちゃう。一方で、福祉サービスは上限はありますけれど、遠慮なしにフルで使えるわけです。

相澤:健常といわれる子たちもの親も、保育園には安心して預けるけれど、友達に預けるのは遠慮しますよね。それってなんなのかな。私が図々しいのかもしれないですけど。預けると子ども同士が遊ぶから、預けた先のお母さんも意外と楽になったりするんですけどね。「ダメな時はダメって言ってね」という関係ができていればよいけれど、「こうじゃなきゃいけない」と思ってしまうのは、障害の有無とは関係ない気がします。

参加者1:とはいえ、健常の部類に入る下の子の時は、気を遣わずにお互い様という感じで、泊めてもらったりとかしていたので。障害のある子だと「相手に迷惑をかけるんじゃないか」とか、「ご家族はいいと思っているのか」とか、気にしちゃうんですよ。

参加者2:逆に壮くんと遊びに行きたい人からしても、親や施設を通さないといけないのはメンドクサイ。「今夜飲みに行こうよ」と誘って、返事が返ってくればいいですけど、壮くんが本当に行きたがっているのかという意思を確認できないから、「待った」がかかる。それは安全装置として必要なのかもしれないですが、もっと気軽に行ける方法があればいいですよね。

相澤:不思議ですよね。親は不安だと思っても、預けてみたら楽しくやれた、というようなことがきっとあるんでしょうね。

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家族の解体と成熟社会のライフライン

参加者3:僕の事務所も夜泊まれるようにしていて、地方の人を泊めています。僕は福島から来ているんですが、原発事故が起きた時に、どの家族も解体される経験をしています。放射能や避難についてどう考えるかという局面で、離婚が多く発生したり。そういう時に、家族と話をしても埒が明かなくて、友人同士のほうが感覚が合うので、親は残って子ども世代同士で避難したりしたわけですが、経済的な余裕も人脈もない人は留まらざるを得なかった。つまり、全国各地に逃げられる場所があるのは何よりのライフラインで、逃げられるということは豊かなんだという話が出てきたんですね。
 家族に限らず、頼れる先があるかどうかで選択肢が変わってしまうということを経験した身からすると、逆に、家族が解体される経験に慣れていかないと、いろんな人たちと手をつないで暮らしていけたらいいねという話は、一切伝わらない感じがする。たぶん僕は老後はお金がなくて老人ホームには入れないので、最低限の年金で古民家を改修してみんなで暮らすというような状況に、いずれはなっていくと思う。だから、相澤さんの家のような場所を増やしていって、そういう状況に慣れていかないと。

相澤:いま日本中なのか、少なくとも東京ではシェアハウスがすごく増えています。だから、結婚ではなくそれぞれ暮らしていくけれど、仲間はいるという状況はもうできてると思っています。壮くんのシェアハウスもできたんですよね。いつからはじめるんですか。不安はありますか。

久保田:10月から壮はとにかくシェアハウスに住む。そこから始まるんですけどね。不安はないです。やっとここまできた感じはします。子育てって、ある程度の年齢までは養育者が必要だと思うんですけど、その先は独り立ちしていくもので、本人が困ったら帰ってくるのはもちろんありだけれど、自分で何とかしてくだろうって思ってるんです。
 それは壮も一緒で、こんなに重度で何にもできない人でも、自分で人生をつくっていけると思っているんです。だから、彼にとって本当に新しい人生がやってくるんじゃないかな。親と一緒にいたら、食事も健康も管理してもらえるけれど、離れて暮らすことによって、ご飯が食べられなくなるとか病気になることもあるかもしれない。でも、それは彼の人生なんじゃないかなとも思っているんです。

相澤:そう思うようになったのには、きっかけがあったんですか。

久保田:やり切った感があるんです。で、これ以上は無理だなって思っているんです。私がこれ以上彼と一緒にいることが最善だとは思えないし、家族からの自立が私自身にも課せられている感じがあります。

相澤:久保田さんは頑張れちゃうし、そうせざるを得ない状況があったんでしょうけれど、いろいろできすぎちゃったんですかね。

久保田:いえいえ、相澤さんが稀有な人なんだと思うんですよ。私は一般的な家族観に縛られながらも生きていけたタイプだと思うんです。私が仕事を取るか壮を取るかという選択を迫られた時に、たぶん相澤さんだと両方なんとかしようとしたと思うんですけど、私は目の前にいる壮を何とか育てなきゃいけない、これは仕事どころじゃないという結論になったんです。それは私の選択なんだけれど、やっぱりどこかに引っかかりがある。レッツの活動をはじめたのは、家族が生き延びるためにやらざるを得なかったんですが、それが正しかったのかわからなくなっちゃったんです。ここは壮たちの場所なんですよ。自分の場所だと思っていたんだけれど、何か違ってきちゃったのかな。だから、私は私で自分が生き延びるための場をつくらなきゃいけない。壮抜きで。私は家族を解体したくてしょうがないんです。私個人の人生として何かをやり直さなきゃいけないと思っているところです。

(了)

編集:石幡愛

ゲストプロフィール

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相澤久美(建築家、編集者、プロデューサー)
1969年生まれ。米国で学んだ後帰国し97年に設計事務所を設立。建築設計の傍ら、雑誌編集、ドキュメンタリー映画の制作、配給、災害支援、防災業法紙発行を行う。2015年からみちのく潮風トレイルの運営計画策定にかかわり、2017年にNPO法人みちのくトレイルクラブを設立。2002年自宅兼仕事場を設計、建設し、さまざまな人、団体がシェアしている。17歳と11歳の2児の母でもある。

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