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吉田健彦『メディオーム』共和国

再開第一回目が自分の本というのもアレなのですが、本というものは手に取って読んでもらって初めて完成するものなので、ぜひお読みいただければということで紹介してしまいます。

でもって、それが本書のテーマでもあります。どういうことでしょう。もし本というものが誰かに読んでもらって完成するのだとすると、その完成の在り方には、例えば読者が10人いれば10の形があるということになりますよね。実際、ぼくはそう考えています。例えば『神とカエル』という題名の本があったとします。それが流通するということは、いまの時代一冊一冊手作りでということはまずありませんから、工業的にざざっと800部なら800部、5000部なら5000部印刷され、ほとんど同じものが市場に流通する。同じでなければクレームが来てしまうでしょう。だから『神とカエル』という本(その一冊一冊がメディアだと考えられます)それぞれの固有性は重要ではない。

もちろん、そこに書き込みをしたり、誰かにプレゼントとしてもらったりすると「その一冊」という固有性が与えられるでしょう。でもそういう特殊なケースだけではなくて、ただ書店で『神とカエル』を買って読んだだけでも固有性は生まれる。というよりも、メディアというものはまさに、どのように作られてどのような経路を通って書店に届けられて、いつ誰によってどのように購入され、どのように持ち帰られて、いつどこでどのように読まれるのか、細かく書いていけば書ききれないその全体のなかで初めて完成するものだよ、というのが本書におけるテーマの一つです。その全体として初めてメディアはメディアになり、だからそもそもが絶対的な固有性を帯びているのです。

もちろん、それは本だけではありません。きょうの夕食の食材として買ってきたダイコンもそうだし、それを切る包丁もそうだし、あらゆるもの(他者)が空間的、歴史的な全体性を持ち、絶対的に固有なものとして「いま・ここ」に在る。あらゆる他者がそのようにして「いま・ここ」を焦点として現れる。その動的な現れを、本書ではメディアと考えています。「いま・ここ」はそういったメディアの折り重なった全体として沸き立っている。でもって「この私」は、その沸き立ちを避けたり、コントロールしたりということは絶対にできません。むしろ逆に、その沸き立ちに迫られ「なんじゃこりゃー!」と驚き恐怖するものとして、常にその沸き立ちの後から生じるもの、その後からしか生じようのないもの、それが私なのです。それはメディアの原理で、この私というものの存在が始まる原理で、だから他者との関係性の原理(すなわち倫理)でもある。そういった意味で、本書はぼくなりに民主主義の原理について考えたものでもあります。

でも同時に、この世界がデジタル化(本書ではデジタル化という言葉を「思考とモノとが等しく理解される世界観」と考えていますが)したとき、その原理は原理として残りつつもある種の根源的な変容も生じていく。そのときメディアは、他者は、倫理は、民主主義は、そしてこの私という存在は、いったいどうなっていくのか……。本書はそういったことがらについての論考です。もう少しきちんとした説明や目次は版元ドットコムでお読みいただけます。

表紙はこんな感じです。とてもきれい。

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装幀は宗利淳一氏。非常に美しいです。あらゆる他者がメディアとして沸き立ち重なりこの世界を構成しているような、そんなイメージが浮かんできます。帯の文言は共和国代表の下平尾直氏によるもの。ふたつが合わさり、私が百の言葉を費やすよりもよほど完結かつ的確に本書のテーマを示してくださっています。

一応書誌情報を。

『メディオーム ポストヒューマンのメディア論』
著者 吉田健彦
発行 共和国
四六判 縦188mm 横130mm 厚さ17mm 288ページ
価格 2,800円+税
ISBN 978-4-907986-75-9
発売予定日 2021年12月15日

一冊の本を書くためにはたくさんの本を読む必要があります。人文学の場合は特にそうです。ある意味において本書は、本を書くということはどういうことなのかということについての物語でもあります。興味をお持ちいただければ何よりも幸いです。

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そんなこんなで、これからまたぼちぼち本の紹介をしていきます。これまで記事のタイトルを「Books, Life, Diversity」で統一していましたが、あとになってから見返すと、どの回で何の本を扱ったのかが分からなくなってしまっていたので、今後は紹介する本の題名を各回のタイトルにしていきます。

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