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Books, Life, Diversity #37

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『レイシズムを考える』清原悠編、清原悠、明戸隆浩、安倍彰他著、共和国、2021年

ヘイトとレイシズムは現代日本社会における深刻な問題であり、同時にそこには、連綿と続いてきた歴史的な背景もあります。だからそれは一朝一夕に解決できるようなものではないかもしれませんが、私たちの日常生活の傍らで、というよりもむしろただ中でどれほど暴力的で悲惨なことが起きているのか、少なくとも知る必要があるはずです。本書はそういったことを知っていくための、優れた入門書であり、導きの一冊になってくれるでしょう。

400ページ超の分厚い一冊ですが、執筆者が22名に及ぶため、それぞれの論考はそれほど長くなく、読みやすいです。そして論点が多岐にわたるということは本書の魅力を削ぐものではなく、むしろ、私たちが普段漠然と想像するヘイトやレイシズムというものが実は極めて広範囲に及ぶ、非常に多面的な性質を持つものだということを端的に示しています。

本書は第一部「差別とは何か」、第二部「差別を支えるもの」、第三部「差別に抗する」の三部に分かれています。それぞれの部に含まれる各章の独立性は高く興味のあるところから読むことも十分可能ですが、構成は非常に練られており、編者の清原氏が一度は通読してほしいと書いているのも頷けます。

個人的には、例えば第1章「日常をとりまくレイシズム」(金友子)で扱われている「マイクロアグレッション」など恥ずかしながらまったく知らず、とても学びになりました。あと、第11章「「左翼的なもの」への憎悪」(百木漠)には特に共感しました。「左翼的な人々がヘイトスピーチの「正しくなさ」を強調すればするほど、右翼的な人々はそれに対する反発を強め、いっそうヘイトスピーチ的な言動を強めていくという悪循環の構造」(p.228)がある。無論、それに対してヘイトスピーチの「政治的・倫理的な過ちを徹底的に、粘り強く指摘していく」(同)ことは絶対的に必要なのですが、同時に「「左翼的なもの」が人々からの信頼を失い、嫌われる対象になってしまった」(同)原因を真摯に分析しなければならない。そして百木氏は「右翼(保守)が過去にその理想を見出すのに対して、左翼(リベラル)は未来にその理想を見出す」のであれば、その未来へのビジョンを描く力を、左翼(リベラル)は改めて育てていかなければならないと主張します。これは非常に重要な観点だと私も思います。

その他勉強になる章、興味深い章が多々ありますが紹介しきれません。また、本書の最後にはブックガイドがあり新旧併せて良い本が紹介されているのも本書の優れている点の一つです。私もこのテーマには関心を持っているつもりでしたが、十分の一くらいしか読んでいないので、とても参考になります。

個人的なことですが、本書の執筆者の一人である澤佳成さんは博士課程時代のゼミの先輩です。本書では第15章「公的レイシズムとしての環境レイシズム」を執筆。澤さんは私のようなひねくれものが尊敬する数少ない研究者の一人です。「他者を攻撃していれば安寧を得られる時間は、そう長くはないかもしれない」(p.306)。完全に同意しつつ、ではどうしたら良いのかというところで澤さんは「他者の立場にたって問題を捉え直す共感的姿勢」(同)の重要性を指摘します。ここは私とは立場が異なり、私はそこまで「共感」というものを信頼できません。コロナで最近まったく会うことができませんが、またゆっくり議論したいなあ、と、いえ本当に個人的なことであれなのですが、そんなことを考えながら読みました。何のために研究しているのか、読むと改めて気合いの入る一冊です。

本書は西荻窪の「本屋ロカンタン」さんで購入。

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E.ツェンガー『復讐の詩編をどう読むか』佐久間勤訳、日本キリスト教団出版局、2019年

私は二回目の学部時代を、ある大学の、いまはもうなくなってしまった神学科で過ごしました。その大学には(こちらはいまでもありますが)神学校も併設されており、牧師になる人たちと幾つかの講義を共にしましたし、何しろ小さな大学だったので、ずいぶん一緒のときを過ごし議論もしました。私にとっては非常に大きな意味のある時代でしたが、そのとき私は、神学生たちのあいだで意外に旧約聖書の人気がない――というのも奇妙な言い方ですが――ことに驚きました。とはいえ確かに、旧約聖書にはちょっととっつきにくい印象がありますよね。契約を守らなければ容赦ない裁きが下りますし。けれども厳しいだけではなく赦しも憐れみもあるし、うーん、難しいですが、いまでも私にとって旧約聖書との対話は私の思想の大きな部分を占めていると思っています。

それはともかく、やはり旧約には、そして特に詩編には「敵対や暴力に満ちた世界」(p.13)が描かれているし、これを日常の祈りの中でどう読むのかというのは難しい問題です。そのため「第二バチカン公会議後に行われた典礼改革で、教会で唱える『教会の祈り』(Stundengebet)に入れるのはふさわしくないという理由で、全150編の中には『教会の祈り』の中に採り入れられなかった詩編もいくつか存在する」(p.15)ことになりました。言うまでもなくその判断を単純に間違いだと断じることはできません。それでもツェンガーは詩編の丁寧な読解を通して、そうではない詩篇の読み方、「私たち生きなければならない暴力の世界に絶望したり、落胆したりしないため」の詩篇の読み方があることを示そうと試みます。その具体的な道筋は難しく(ツェンガーの語りは厳密でありながらも平易ですが)、一読して理解するのは困難かもしれません。それでも「訳者あとがき」で佐久間氏が書いているように「(しばしば見られる詩編理解のように、詩編について)合理的説明をするよりはむしろ苦難の中で瀕死の苦しみを味わっている詩編の祈り手の心の叫びに耳を傾け、思いを一つにするときに初めてこのような詩編を真に理解できる」というツェンガーの主張は、これほどまでに憎悪と怒り、恐怖と絶望が溢れたいまの時代だからこそ、耳を傾ける必要のあるものではないかと思います。簡単に紹介しきれる本ではないのですが、旧約聖書に対するイメージを変えていくのに最適な一冊です。

本書は西荻窪の「待晨堂」さんで購入。先日十数年ぶりに覗いてみたのですが、キリスト教専門書店としてまったく変わらず充実した品揃えでした。

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森田真生『計算する生命』新潮社、2021年

これまた恥ずかしながら、森田氏、たまたま心惹かれて購入した本書で初めて知りましたが、非常にユニークで素晴らしい思想家です。こういう驚きがあるので本を読むというのはやめられません。無論、知らなかったのは私が無知だからで、著者紹介によると森田氏は「初の著書『数学する身体』で、小林秀雄賞を最年少で受賞」とのこと。世の中にはとんでもない人が居るものです。

本書は「計算」とは何かについて人類史を丁寧に追いながら――ここでは特にユークリッドからデカルト、リーマン、フレーゲそしてヴィトゲンシュタインについて語られています――生命にとって計算をするとはどういうことなのかという、途轍もなく大きく重要な問いに対する応答が試みられています。

個人的には特に第四章「計算する生命」、第五章「計算と生命の雑種(ハイブリッド)」を面白く読みました。ここでは人新世における大加速時代やモートンのハイパーオブジェクトなどに触れつつ、これだけ計算に支配されてしまった現代社会において、「生命を計算に近づけようとする」(p.211)のでもなく、「計算と生命を対立させ」(p.212)るのでもない、生命に計算を取り戻す可能性を森田氏は探究しています。そしてその探究は非常に魅力的に成功しています。

計算が加速し続けるこの時代に、過去による未来の侵食に抗うためには、わかることと操ることの緊張関係を、保ち続けなければならない。緊張関係を性急に手放し、計算の帰結に生命として応答する自律性を失くしてしまえば、計算は、ただひたすら過去が未来を食べるだけの活動になる。
人はみな、計算の結果を生み出すだけの機械ではない。かといって、与えられた意味に安住するだけの生き物でもない。計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編み直し続けてきた計算する生命である(p.219)

この言葉に少しでも関心を持ったひとであれば、本書は絶対に買うべきです。私は本書を読みながら、ダニエル・ヒリスの名著『思考する機械 コンピュータ』(倉骨彰訳、草思社、2000年)を思い浮かべていました。

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私は、知性の源を侮辱しようとして「脳はマシンである」と言っているわけではない。私は、マシンの能力の潜在性を認めようとして「脳はマシンである」と言っているのである。人間の頭脳は我々の想像以下のものではなく、マシンは我々の想像をはるかに超えるものである。私は、そう信じている。(p.272)

思想的な立ち位置は違えども、ヒリスの名著におけるこの結語は、いまでも私にとって一つの準拠点になっています。『計算する生命』もまた、流行りのシンギュラリティ論などとはまったく次元を異にする、機械と人間の分かち難い関係について新たな語りの地平を切り拓いた名著ではないかと私は思います。

本書は恵文社一乗寺店のオンラインストアで購入。本だけではなく色々面白いものも販売されているのでぜひご覧ください。

以下、里山社様によるオンラインで本を購入できる書店のリストです。


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