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ブーゲンビル島の戦い

 お盆を少し過ぎた、8月末。
 秋が近づくというのに、汗が噴き出るほどの暑さだった。山奥にある母の実家に、遅めの墓参りに来た。
 「先祖代々之墓」と記された墓石の側面に、文字が見えた。

《昭和一九年三月廿一日 ブーゲンビル島に於て戦死 俗名 村上 農夫也》


 この戦いが始まり、どれほどの年月が経っただろう。運よく、いやもしかすると運悪く、なぜか私は生き残っている。

 敵兵と直接交戦した経験は、未だなかった。死んだ仲間たちも、敵に惨殺されたわけではない。ある者は栄養失調で倒れ、ある者は病に倒れた。謎の伝染病のようなものでバタバタと皆動けなくなり、幾人も死んでいった。

 ずっと、腹が減っている。四肢は疲労でいうことを聞かず、常に震えていた。まるで自分のものではないようだった。

 私は農家の長男に生まれ、農夫也という名前を授かった。いみじくも、農家を継ぐために付けられたような名だ。子どもの頃は比較的裕福であった。米や野菜をはじめ食物には困らず、兄弟ともどもまるまると太っていた。

 しかし戦争が始まり、状況は悪化の一途を辿った。人手は足りず、農作物は獲れず、慢性的な食料不足に陥った。弟や妹、妻との間に生まれた子を食わせるために、私は汗を流して働いた。その名に恥じぬためにも。

 もう何年前だろう。田植えが始まる直前、私宛に赤紙が届いた。受け取った妻は酷く動揺した。私は妻を宥めるのに精一杯で、自身の身を案ずる暇もなく戦地へ赴いた。家族は今も、私の帰りを待ってくれているだろうか。

 道のない草をかき分け、ジャングルの中をひとかたまりになって我々は進む。

「農夫也! 前についていかんとはぐれるぞ」
 後ろの安兵衛が叫んだ直後、連続した射撃の音が轟いた。

 ついに、来た。
 銃声に混じり、仲間の悲鳴と恐怖に慄く叫び声がした。

 敵兵は近い。張られていた。私には初めての交戦だ。一気に心臓が暴れる。

「川が近いぞ! 飛び込め!」
 誰の声かもわからない。指示を受けるがまま、力のない体に鞭を打って走り出した。激しい射撃の音の中で、深い川に身を投げた。

 一瞬の静寂と、微かな水音。

 水から静かに顔を出すと、再度連続した銃声。音からどの方向に敵軍がいるか当たりをつけ、必死で体を遠ざけた。

 潜った水の中、激しく体を捩る者がいた。足をばたつかせ、何かに抵抗している。よく見ると、その者は大きな生き物に噛みつかれていた。鋭い牙を持つ巨体。ワニだ。

 その者は口から大量のあぶくを出し、みるみるうちに沈んでいく。助けられない。濁った水の中、顔だけがはっきりと見えた。あれは先ほどまで私の真後ろにいた、安兵衛だ。

 私は急ぎ、川の水から上がった。駆け出そうとした瞬間、光の弾が右足首めがけて撃ち込まれて草叢に倒れた。痺れるが、痛みはない。

 赤黒い血がどろどろと流れ、地面が染まる様子を他人事のように見ていた。いつしか砲撃は止み、周囲に誰もいなかった。ひとり闇夜に取り残され、なす術もない。

 あるのは、手元にすっぽりと収まるほどの手榴弾。ちっぽけなこの手榴弾で、自決してしまおうか。こうしている間にも敵軍が来て、今に私を撃つだろう。撃たれなくとも、捕虜となることは避けられまい。

『虜囚の恥ずかし目を受くるなかれ』と軍隊に教育されてきた。それならば、ここでしまいにするのがよいではあるまいか。

 何度、自己問答を繰り返しただろう。ピンを抜こうとしてはためらい、五指に力を込めた。その間、朝日が昇っては沈み、再び暗闇がやってきた。

 もう、考える力も自決する力も残っていなかった。伸び切った硬い草叢に横たわり、飢餓による死を待つのみだ。

 家族に会いたい。故郷に帰りたい。

 どれほど耐え、生き抜いたら望みが叶うのだろう。多くの仲間は餓死や病死により亡くなった。これは戦死といえるのだろうか。犬死に、無駄死にだ。私もじきに、仲間たちの元へ逝く。

 私の子どもや弟、妹たちはこれからどう生きるのだろう。戦争が終わりさえすれば、その先の子孫は平和に生きられるだろうか。

 子どもの頃、母がふかしてくれた芋の味を思い出す。やわらかく、素朴な味。気分が落ち着いてきた。もはや空腹も感じない。

 手足が冷たい。意識が遠のく。

 私もこれより先を、生きてみたかった。争いのない平和な世界で、家族と食卓を囲んで。


 ちょうど80年前の今日、1944年3月21日。農夫也さんは、今の私と同じ27歳で亡くなった。たった80年前だ。

 本当は何を考え、何を望んで、なぜ亡くなったんだろう。短い生涯で何を感じ、何を愛し、どう生きたかったんだろうか。

 失礼します、と心の中で呟き、スマートフォンで撮影した。お墓を撮るなんて罰当たりだけど。

 先祖が戦死している人なんて、珍しくないかもしれない。それでも、目の当たりにしたことは強烈だった。

 現代の日本で、心の底から戦争は自分ごとだと考えられる人がどのくらいいるだろう。
 昔のこと、他国のこと。少なくともわたしはそう考えていた。

 実際に自分の近いところで起きたり、自分の何かに繋がっていることがわかったりしない限り、自分ごとだと思うのはとっても難しい。

 帰ってから調べてみると、ブーゲンビル(墓石にはボーゲンビルと書かれている)の戦いは、太平洋戦争中の戦闘のひとつ。昭和19年3月8日から3月25日まで日本軍が第二次タロキナ攻撃をおこない、失敗した。

 戦死者は2〜3万人、多くが餓死、病死と記されていた。東北の片田舎の農村で、農家をやるために名付けられたような男性が、遠く離れた戦地まで赴かなければならなかった。

 多くの人の生活のために農業をしていた男性が、恐らく飢餓や病気で命を落とした。皮肉でやるせない。

 今まで特に意識したことがなかったけど、「お墓があってよかった」と初めて思った。

 お墓でなくとも、自分の命まで繋いでくれた人を知る術があるといい。もしかしたらわたしも、自分が生きてる証拠を残したいだけなのかもしれないな。

 この時代にはこういう人がこんなこと考えてたんだな、とか、わたしと血が繋がった子孫がいつかわたしの書いたものを見つけて、なにか思案してくれたらと思う。

 今の時代にしか考えられないことがある、感じられないことがある。自分が生まれた頃と現代の価値観なんてまるっきり違うし、きっともっと歳を重ねたら「あの頃はこうだった」と懐古するのだろう。

 残すこと、伝えることは本当に大切だよ。

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