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『琳琅』創刊号より、「かんう」

鴇田重喜の視点1

 いつの間にか隣に並んでいた小羽は二の腕を摩りながら白い息を吐いていた。預かっていたモッズコートを彼女の肩に羽織らせる。新宿駅西口地下広場はその無機質さも相まって地上よりも肌寒く感じた。通行人は目が回るほど多いが、僕らの撮影を気に留める人はいない。沢山の足音が広場の天井で反響し、鼓膜を包み込むように震わせて来る。右耳と左耳で聞こえる音の感触が違うため、この場所のような音の籠りやすい場所は好きではなかった。時折、ロータリーから吹き込む風が体感温度を更に下げていく。なるべく早く終わらせたかったが、希望に反して、これだ、というような写真はなかなか撮ることが出来なかった。

 預かっていたコートの両ポケットには撮影の合間を盗んで使い捨てカイロを忍ばせておいた。肩をすくめて、寒い、寒い、と繰り返していた小羽も、袖に腕を通してポケットの中に手を突っ込むやいなや、あったかぁい、と言って背中を丸くする。僕の我儘に付き合ってもらっているのだ、間違っても風邪をひかせてはいけない。

 小羽を被写体にして作品を撮るのは今回で四度目だ。前回は駒沢公園で、その前はスタジオを借りて撮影している。仕事で、というわけではない。確かにカメラで写真を撮ってくるのが僕の仕事だが、小羽との撮影会は完全に趣味の範囲内だった。

 僕の勤めている企業は、不動産会社から委託された空き物件をリノベーションして再度売り出すという、一種のベンチャー企業である。正社員は七人という小さな規模で、僕はリノベーションし終えた物件の外装や内装を撮影して、会社の運営するホームページやスマートフォンのアプリケーションに掲載するという仕事を担当している。二十歳で大学を中退し、派遣のアルバイトで生計を立てていた頃、仕事で撮影しに行ったのが、この会社によってリノベーションされた物件だったのだ。その時撮影に同伴した四つ年上の社長に運よく拾ってもらい、職場の雰囲気も非常に明るかったため、僕は就職を決めたのである。今日も小羽と合流する前に六件ほど仕事を片付けてから来た。そのため、別のメモリーカードには物件の内装を写した画像が腐るほど入っている。いま使っている一眼レフカメラも入社祝いで社長に買って貰ったものだ。

 カメラのモニターを閲覧モードに切り替えて写真の履歴を遡っていく。アングル、ピント、光量、背景の人通り、etc、様々な要素一つひとつに気を配っているとキリがなくなってしまうのだが、仮にそれらを妥協したとしても、まだ満足のいく一枚が撮れないでいた。同じようにモニターを覗き込んでいる小羽も、あんまりパッとしないね、と不満の声を漏らす。身を乗り出すように画面を覗く彼女の髪の隙間から、左巻きのつむじが見えた。今日は仕事が忙しかったのか、シャンプーの香りに混じって少し汗の匂いがした。

「仕事の調子はどう? 通しで勤務できてる?」

 賃金も謝礼も発生しない僕の趣味に時間を割いてくれる小羽は、普段、吉祥寺のスポーツ用品店で働いている。商品の陳列から接客、事務作業まで、殆どの業務を熟せるという彼女は、これから売り出す新商品を身に着けて宣伝するモデルとしても活躍していた。小羽の細くしなやかな四肢は、その頼りなさとは裏腹にスポーツウェアやシューズが良く映える。僕が彼女に被写体の依頼をするのも、そういった印象の齟齬を求めてのことだった。

「至って順調、休憩は多めに貰っているけどね」

 捲れていたコートの襟を正してやりながら、それとなく発作についても訊いてみる。小羽は、だんだん頻度も減ってきているし、よっぽど当時を思い出すようなことがないとおきないよ、とコートの裾を手でかるく払うようにしながら言ったが、僕はその服の裾を気にしながら話をする仕草が、何か誤魔化したいことがある時の癖であることを知っていた。きっと、合流前に発作があったのだろう。今日の化粧がいつもより濃いことには改札の待ち合わせ場所に現れた彼女を見た時からなんとなく気が付いていた。勤務中か、それともここへ来る途中か、どこかのトイレで吐いて来たのかもしれない。小羽の吐息に強いミントの香りが混じっていた。頻度が減ってきたとはいえ、PTSDの発作というのはどんなに注意を払っていても、本当に些細な、ちょっとしたことでも再発するのだ。身体の傷とは違い、心にできた傷は時間が経ったとしてもそう簡単には消えてくれない。恐らく、彼女はこの先ずっと、不安定な精神状態と戦いながら生きていかねばならないのだろう。

 次はローアングルで取ってみようか、と言って地面に膝をつく。再び小羽にコートを脱いでもらい、地下広場を支える柱の一つに身体を預けて立ってもらう。イヤホンを付けてもらい、視線を下げて音楽に聞き入っている雰囲気を出したものや、風に舞う髪を押さえて片目を瞑ってもらうもの、柱にお尻を預け、前傾姿勢で横顔を向けてもらうなど、幾つかポージングをお願いして撮影していくと、ロータリーから吹き込んでくる風が彼女の短い髪をふわりと浮かび上がらせた。逃さずシャッターを切った刹那、良い画が撮れたことを確信する。立ち上がって撮影した写真を確認すると、思いの外、躍動感のある一枚が撮れていた。髪の乱れ具合が風の動きを可視化させ、華奢で頼りない佇まいの中にも鋭い強さが潜んでいるような、静かな迫力を宿した一枚である。うん、いいかな、と呟いて他の写真も確認していると、いつの間にか隣に戻って来ていた小羽が、良いの撮れたね、と言ってモニターを覗き込んで来た。見やすいようにカメラを傾けてやる。その時、ふと襟の隙間から彼女の胸元が覗いて、鎖骨から奥に向って続く一筋の大きな火傷の跡が目に入った。

 この傷も、もう消えないんだろうな。

 立ち位置を変え、小羽を後ろから包み込むような態勢でカメラのモニターを操作する。ちょうど僕とカメラとの間に彼女の頭がある並びだ。こうすれば傷は見えないし、彼女の背中も温かいだろう。異性からの突然の密着であっても、相手が僕なら小羽は何の反応も見せない。これは僕が男として見られていないのか、それとも、長い交流年月が生み出した弊害なのか。彼女とはもう十数年の付き合いであり、どちらが先に言い出したのか定かではないが、いつの間にか恋人という関係に落ち着いてしまっていた。

 僕と小羽との関係は小学生の頃から続いている。小羽が蹴ったサッカーボールが僕の右耳の鼓膜を破いたことが始まりだった。男勝りな性格でスポーツが得意だったために、ずっと同性だと思って一緒に遊んでいた小羽が実は女だと知ったのは、中学校に上がって制服を着るようになってからだ。学校指定のスカート姿で現れた小羽を、最初はなにかの冗談だと笑った覚えがある。その頃はお互いに思春期を迎えていて、友人としての交流は疎遠だったのだが、何の因果か同じ高校に進んでしまい、いつの間にか僕と小羽が付き合っているという噂が立ち、その噂の拘束もあってか、僕と小羽は教室の違う授業中以外は、部活にも所属せず、いつも一緒に過ごしていた。
事件が起きたのは高校最後の夏。僕らがまだ友達同士だった頃だ。大雨の後の快晴で、肌にまとわりつくような暑さだったことを覚えている。他愛ない世間話の延長で小羽がボウリングをしたことがないということを知り、十八回目を迎える彼女の誕生日を初ボウリングで祝うつもりだった僕は、小羽からの突然のキャンセルメールを受けて、せめてプレゼントだけでも、と彼女の家に向かったのだ。

 小羽は借家が密集する地域の一番古い平屋に父親と二人で住んでいた。母親は物心つく頃には既にいなかったのだと聞いている。梅雨時期は雨漏りもするし、冬は隙間風が寒くて最悪だよ、と貧乏自慢をよく口にしていた。所々へこみが目立つ玄関扉の前に立って軽くノックをする。インターホンのついていない扉は高く乾いた音を発した。蝉の鳴き声になぶられるような溽暑の中、首筋が斜陽でじりじりと焼ける。しばらく耐えたが、返事がない。こめかみを伝ってあごの先までたれてきた汗を拭い、もう一度ノックしようとした瞬間、耳をつんざくような小羽の悲鳴が家の中から聞こえてきた。

 咄嗟にドアノブを回すが、鍵が掛かっていて扉は開かない。諦めて家の裏手へ廻り、後ろめたい気持ちを押し殺しながら閉じられている雨戸を強引にこじ開ける。朽ちかけた縁側に片膝を乗せて室内を覗くと、空き缶や空のカップ麺の容器が散乱している暗い部屋の中心で、上下繋ぎの作業着を着た男に組み敷かれて悶えている小羽らしき下半身が見えた。襟足をきれいに刈り上げた男は、その手に火のついたままのガスバーナーを握っている。強盗、そんな言葉が脳裏をかすめていった。

 土足のまま縁側に飛び乗り、鍵の掛かっていたガラス戸を蹴り破る。考えるより先に身体が動いていた。響き渡る破砕音に襟足を刈り上げた男が振り向く。その顔には見覚えがあった。眼は血走り、口は半開きで呼吸も荒い、正常な状態でないことは一目見ればわかる。信じたくない。信じたくはなかったが、小羽を組み伏せていたのは、彼女の父親だったのだ。

 おじさん、なにしてるんですか、という僕の問に、彼は少しだけ目を伏せて、うなだれるように動きを止める。しかし、次の瞬間には、ああああっ、と奇声を発しながらバーナーを投げつけてきた。咄嗟に手で払って、立ち上がろうとしたおじさんの胸部を蹴り飛ばす。おじさんが奥に倒れ込んだことを確認してから、床に転がったガスバーナーの火を消化し、蹴り割った窓の外へと投げ捨てた。離れていく重い足音に室内へ視線を戻すと、部屋の外へ逃げていくおじさんの背中が見えた。すぐに玄関の扉が開かれる音が聞こえ、蝉時雨と共にむしむしとした外気が流れ込んでくる。ガラスの破片が散乱する室内は、嵐が過ぎ去った後のような異様な静寂に包まれた。

 黙を破ったのは僕の名前を呼ぶ小羽のかぼそい声だった。身を守ることに夢中で組み敷かれていた小羽の様子を確認する余裕のなかった僕は、改めて直視した彼女の姿に言葉を奪われた。端正だった顔は赤く張れ上がり、喉元には絞められたような痣が点々とできている。そして何より凄惨だったのは、はだけた上半身を斜めに走る焼け爛れた火傷の跡だった。身体の興奮が一気に冷めていき、周囲の細かな情報が入ってくる。息も絶え絶えに虚ろな瞳で僕を見つめる小羽の顔の周りには小さな赤い飛沫が幾つも飛び散り、捲れた制服のスカートの下には、饐えた匂いを立ちのぼらせる液体が大きく水溜りをつくっていた。目を背けて逃げ出してしまいたくなるような光景が、僕の足元に横たわっていた。

 あぁ、と情けない声が漏れ、足から力が抜ける。広がる汚水の中に膝を落として、肩を支えるように小羽を抱きかかえた。形容しようがない、初めて嗅いだ人の皮膚が焼ける匂いに腹の底が気持ち悪く渦巻く。脱力しきって手足を床に投げ出した彼女のすぐ隣に大量の吐瀉物を広げた。彼女の熱が僕の腕に伝わってきて、額から玉のような脂汗を掻かせる。小羽は僕を見上げるばかりで何も言ってはくれない。着ていたシャツを脱いで、小羽の胸部を隠すように身体に掛けてやる。焼け爛れた皮膚は未だに熱を帯び、焦げたように黒くなっている部分もあったが、幸いなことに、出血は少ない様子だった。蝉の声を切り裂いてパトカーのサイレンが聞こえてくる。騒ぎを聞きつけた近隣の人が通報してくれたのだろうか。次いで救急車のサイレンが響き渡り、ストレッチャーが小羽の隣に並ぶまで、僕は彼女を抱きしめ続けていた。

 今でこそ火傷の跡は触れても痛まない程度に回復したらしいのだが、一部始終を目撃していたために、直視するのは五年が経った現在でも辛い。撮影の際やセックスする時など、折に触れて胸の火傷跡の治癒具合を確認するが、小羽の担当医師曰く、これ以上目立たなくなることはないのだという。ひとによってはファンデーションで隠したり、傷跡の上に刺青を掘って傷そのものを作品にする人もいると聞いたが、小羽はそういうことをするつもりはないようである。

「次の場所、行こうか」

 音の反響しやすい場所にいると、頭に鈍い痛みが生じる。左右で聞こえ方の違う聴覚というのは思っていた以上に厄介だった。満足のいく一枚も撮れ、もはやこの場所に長居する理由はない。次の撮影ポイントに移動するため、小田急百貨店前につながる階段へと踵を返す。僕の腕に手を絡めながら、撮影が終わったらどこかで温まりたいね、と小羽が言う。あと二ヵ所だから、もう少し我慢して、とだけ告げて階段に足を掛けた。


続きはまた、近いうちに。

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