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「彼氏が蛇をおいていった」 31 完結

 落ち着いたころを見計らって、荒牧が息抜きにとBBQを企画してくれていた。由良の所有する別荘で、親しいひとだけを呼んで乾杯しようということになっているらしい。
 由良は定期的にそれぞれの知り合いを交えた交流会をひらくことが趣味だそうで、今回参加するのはわたしと荒牧、在原と加賀野、由良の経営者仲間。じつはその中に宮部元部長の旦那さんもいて、出産を終えて母となった宮部元部長も参加するらしい。
「ほんと、どこで誰がつながっているのかわからないですね」
 ハンドルを握った荒牧が正面を見据えながらこぼした。
 その首元には雄鹿のペンダントが光っている。
「あと、ひとの年齢も、ね。まさかわたしが年上だったなんて」
 荒牧は、じつは三つも年下だった。BBQの企画以上の驚きが、まさか運転免許証にかくされていようとは。
 すこし幼く見える顔写真の免許証をディオールの三つ折り財布へもどす。
このマイクロウォレットも、自信をつけるための装備品なのだろうか。中央自動車道を北上するこのジープもそんな動機で購入したのだとしたら、次は由良と同じように別荘をかまえようとするかもしれない。
 ゆくゆくは独立して会社を立て、プライベートジェットを所有し、それでも自信が持てなければ、もうプライベートロケットを開発して月旅行でもしないといけなくなる。
 わたしがそんなことを言うと、荒牧はひとしきり笑ってから、もう大丈夫、と、それこそ自信ありげな笑みを浮かべた。
「町さんと、町さんのつくってくれたお守りがありますから。自信に満ち溢れていますよ」
 ジープがトンネルに入った。助手席の窓ガラスにわたしの顔が映る。
 精一杯の若づくりは成功して、ここ最近で一番きれいなアイラインも引けた。手とり足とり指導してくれた加賀野に感謝しなければ。
 服も在原に最近のトレンドを教えてもらってそろえた一張羅だ。BBQの煙にやられないように、別荘についたら着替えるつもりではあるけれど、第一印象はやっぱり大切だから。
 そして、わたしの首元にもネックレスが光っている。
 矛と渦巻のデザイン。透彫りをみっこ先輩に手伝ってもらった、新しい自信作だ。
 みっこ先輩も今回の催しに誘ってはみたのだが、その日は大事な用があるのだと、あっさり断られてしまった。
 しかし、荒牧との待ち合わせのために降り立った八王子の駅で、わたしはそのみっこ先輩を見かけていた。
 キャリーケースを引いた男性が先輩へ近づき、キスと抱擁を交わす。
 相手の男性は肌が黒く、背も高かった。ピアスやネックレスやブレスレットは生まれたときからついていますと言わんばかりにその男性の仕草に調和していて、みっこ先輩が男性に向ける笑顔にも、特別なものがあるように感じた。
 ふと、先輩と視線が交わった。
 男性の話にうなずきながら、一緒に歩き出してしまうみっこ先輩。ならんだタクシーの向こうに消えてしまう直前、すこし振り向いた先輩は、ぽかんと口を開けていたわたしに向けて、腰のあたりを二回、親指でつつくようにして示した。
 その顔がなんだかとても誇らしく楽しそうで、思わず口角が上がってしまう。なにかいいことでもありましたかと、いつの間にか現れた荒牧に声をかけられるまで、しばらくにやにやしたままだった。
 別荘は相模湖を見下ろせる高台にあった。林の間を抜けて眺望が開けた一等地だ。駐車場から庭へまわれるようになっていて、庭の芝はきれいに刈りこまれていた。
 タープテントのしたで由良がステーキ肉の下処理をしている。腕まくりをしたシャツと、ちょっと炭の汚れがついた簡素なエプロンが似合っていた。
「ようこそ。思ったよりはやかった。りゅうちゃん、悪いんだけど野菜切ってくれないか。それだけが間に合ってないんだ」
 由良が荒牧のことを、プライベートではりゅうちゃんと呼んでいることに衝撃を受けたのは移動中の車内で、もうすぐ着くという連絡をいれたついさっきだった。
「町さん。円満異動、おめでとうございます。お仲間もいま高速を降りたみたいだから、もう十分もすれば到着するよ」
 在原と加賀野は、宮部元部長の旦那さんが運転する車に乗せてもらって来ることになっていた。旧部長と新部長と、新チームリーダーが相乗りする社内は、いったいどういう会話が繰り広げられているのか。
 いや、きっと宮部元部長のあかちゃんもいるから、出会いだとか、結婚だとか出産だとか、そういう話で持ちきりかもしれない。
 在原のかおの傷は、順調に治っている様子だった。いまはまだ化粧を厚めにして誤魔化さないといけないらしいけれど、きっとあとひと月もすればきれいに見えなくなる。
 そのころには、わたしはもう企画・営業部でバリバリ働いているのだろう。
 由良が面談に訪れたその日のうちに、わたしは人事部で異動の申請を出した。
 今回の異動やら昇進やらはデザイン部に限ってのことだったため、他の部署はまだ動き出していない。だから、申請はいったん保留に。企画・営業部の部長とも面談をしたうえで、この度、正式な異動が叶ったのだった。
 面談してわかったのは、企画・営業部の方が時間の融通が利くということだった。
 接待やらなんやらでの残業もあるらしいのだが、仕事が終われば早上がりもできるし、取引先に直行直帰も許されていた。趣味に打ちこむ人間は、むしろ企画・営業部の方が多いそうだ。
『だから言ったでしょう。営業の方が向いているって』
 電話越しに、久しぶりに宮部元部長の声を聞いた。すぐ近くであかちゃんの泣いているのが聞こえた。
『あなたが趣味を副業として成り立たせようとしていることは在原から聞いていた。けど、うちの部署じゃあ仕事=趣味みたいなひとの方が多いから、きっと働きづらかったでしょう。ずっと気をもんでいたのよ』
 異動願いを提出してすぐに連絡をとった宮部元部長は、出産間もないだろうに、どこか丸くやわらかい雰囲気をまとっているようだった。
 出産祝いをかねて、在原と加賀野を連れて宮部元部長をお見舞いにいったら、わたしたち三人がならんで現れただけで瞳をうるませていた。
 あれから三ヶ月が過ぎ、下半期へ入る直前に異動が受理された。
 さわやかな秋晴れで、風が強く吹いた日だった。
 開け放たれた縁側への窓から金木犀の香りが舞いこんでくる。
 新しいガラスケージの中で、元気になった蛇が首をもたげていた。
 たった三ヶ月でわたしをとり巻く環境は一変したように思う。
 まず、引っ越しをした。郊外へ移り、広いガレージのある平屋を借りた。みっこ先輩にならって作業場をつくったら、古い道具を先輩が譲ってくれたので、奇しくも本格的な制作環境が整ってしまった。
 そして、そのみっこ先輩が結婚することになった。相手はカリフォルニア州から東京へ渡って来る予定の大学時代の恋人だそうで、九年間の遠距離恋愛を経て、先輩の想いは実を結んだのだ。その相手が、「M&M」の刺青の主なのかは、まだわからない。
 蛇は、もう長いことマウスを呑んでいなかった。
 もともと餌の上げ過ぎででっぷりと太ってしまっていたのだ。ネットの情報を信じるなら、これからはすこしずつ餌断ちをして、冬眠に備える時期に入るらしい。
 だから、もう蛇の魔法はつかえない。
 いや、つかわなくていい。
 魔法がなくても、わたしはもう大丈夫。
 宮部元部長が認めてくれた才能を武器に、今度は企画・営業部で出世しよう。
 みっこ先輩の道具を駆使して、次こそ最優秀賞をとってやろう。
 そして、加賀野がその才能を遺憾なく発揮できる仕事を、わたしがとってくるのだ。
 在原に、あんたのとってくる仕事は外れがないから、なんか悔しい、と言わせてやる。

 車のクラクションが聞こえた。
 きっと在原たちが到着したのだ。
 玉ねぎを輪切りにしている荒牧が、いってあげてください、とうなずく。
 芝生の庭を小走りに抜けると、風に乗ってあかちゃんの泣き声が聞こえて来た。
 あわてた在原のあやす声と、加賀野の笑い声も。


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