連載「若し人のグルファ」15

 本当に、ここがホテルだったらなぁ、という思いが鎌首をもたげそうになり、力いっぱいフライパンをゆする。充分火の通ったタマゴとキャベツが空中に舞った。

 最後にあの脚を愛撫したのは、玉輝が事故に遭う前だったか。とうに交際関係を解消していた俺たちだったが、俺は就職活動でのストレスを発散するために、玉輝は落ちまくったオーディションの審査員から告げられる否定の言葉を忘れるために、互いの身体を欲求の捌け口にする爛れた同居期間があった。

 特にやりたいこともないからという理由で同じ大学を受験した玉輝は、二十歳で大学を中退して、役者を目指すと宣言した。そのころから玉輝は小さな劇団に所属していて、一日の大部分をアルバイトと舞台稽古に費やし、同時進行で俳優養成学校にも通うというハードな毎日を過ごしていた。

「いくら下積みって言ってもさ。まったく演技ができないってわけじゃないやん? それなのにどうして掃除やらケータリングの段取りばっかりやらなきゃいけないわけ?」

「新人だからしょうがない気もするけど、そうだな。通行人みたいな脇役ならできるよな」

「ほんとそれ。カルメンで踊ってもらうエキストラの役者探して奔走するくらいならふつうに下積みの人使おう? なんなら木の役でもいいからさぁ」

「いやお前木にしてはしゃべりすぎるし、顔がしゃべりすぎだし」

「顔がしゃべり過ぎってどういうことやねん!」

 劇団の稽古場がある下北沢まで迎えにいってやって、手ごろな居酒屋で酒をあおっても、玉輝は一度も飲み代を持ったことがなかった。出世払いで、と合掌して見せるばかりで財布を出そうともしない。

 そもそも財布を持っているのかどうかも怪しいくらいに、当時の玉輝はかつがつの貧乏生活を送っていた。一時は電気と水道を止められて、俺の借りている部屋に転がり込んできたこともある。そのときはしばらく泊めてやって、家賃代わりに掃除をしてもらったり、身体を貸してもらったりしてお互いのストレスを誤魔化していたのだが、とうとう家賃滞納で身元保証人の父親に連絡がいったらしく、稽古の帰り道に待ち伏せされて、無理やり実家に連れて帰られそうになったことがあった。

「だからうちな、おもっきり抵抗した。体重を全部かけておとうの手を振り払った。そしたら重心ごとうしろに引っこ抜けて、倒れながら、すぐ左に車がきてるの、見えたんだ」

 黒のミニバンだったと、玉輝は病院のベッドで横になったまま告白した。

 玉輝の父親は車道側に倒れた娘をかばって腰の骨を折り、動脈破裂による出血性ショックで死亡した。助かった玉輝も、左の太ももを轢かれて骨折。患部の壊死は免れたものの、脚のつけ根からふくらはぎにかけて痺れが残った。

「ねぇ、ビールどころかチューハイすらないんだけど」

 上体を起こして玉輝が振り向く。

「もう充分飲んできたんだろう。今日はもうよしとけって」

 見惚れていたことを悟られないよう、できるだけぶっきらぼうに返す。

「はぁ? そんなおつまみ料理つくっておいて酒出さないとか、どういう拷問よ」

 玉輝は冷蔵庫の扉を乱暴に閉め、もう怒った、今日はもう服着てやんない、裸のまま寝てやる、と宣言し、尻をぷりぷり振りながらリビングへと引き上げていった。

 キャベツとタマゴの炒め物を大皿によそって、電子レンジの米と一緒にテーブルへ運ぶ。

 玉輝はソファに足を崩して座り、用意した来客用の箸でトマトを挟み上げているところだった。大皿をテーブルの真ん中におくと、いただきますもそこそこにふたりして箸をつけ、ラジオの天気予報を聞きながら時間を過ごす。即席の炒め物にしてはちょうどいい美味しさに仕上がっていて、二人してインスタント米をおかわりした。

「そういえばお前、今度ラジオに出るんだって」

「そう! 初めて主演張る舞台の宣伝! 誰から聞いたの?」

「桑原」

「あー、ノリユキか」

 そういえば話したなぁ、と言って、玉輝は炒め物を口に運んだ。
グラスジョッキを豪快に空け、酒の肴は爪楊枝でちまちまと食べる玉輝だが、いざ箸を持たせると優美と言っても差し支えない正しい所作で食事を進める。

「目標だったよな。そういう、なんて言うの? 公共の電波で自分の舞台を発信するの」

「そうだよ。足かけ五年、やっとチャンスが巡ってきた」

「おめでとさん。オンタイムで聞いていてやるから、思いっきりはっちゃけてこい」

「それ逆に緊張するやつやん」

 同じ大皿をつつきながら、お互いの近況を報告する。玉輝は初めての主演ということもあって、今夜を最後にしばらくは飲酒の量を抑えるのだと言った。それを知っていれば缶ビールの一本くらいは仕入れておくべきだったなという俺に、その親切だけ受け取っておくよ、と気持ちの良い返しをしてくれる。

「キョンスケは仕事どうなん? まだフリーで食ってこうとしてるの」

「してるっていうか、そうするより他ないっていうか。まぁ仕事は入ってくるようになったし、時間にも融通が利くから、けっこう気に入っているんだけど」

「ちゃんと考えた方がいいよぉ。失敗したら貧乏時代のうちみたいになるからね」

「それは嫌だなぁ」

 もしそうなった場合、丑尾はどうなるのだろうか。

 脳裏に浮かんだ思いつきを深めてみる。

 実家に帰るという選択肢は最初からないため、ひとり暮らしか、工房の寮に入ることになる。玉輝に頼めば丑尾も一緒に受け入れてくれるかもしれないが、玉輝に対してどこか警戒した姿勢で接する丑尾が頭を下げるかといったら、それは怪しい。桑原のもとに転がり込む可能性は、俺以前におやじさんが許さないだろう。どちらにしろ、そうならないよう努力を続けていくつもりではあるが、玉輝の事故と同様、思いもしない事態は起こるものだ。

「そうなったら、今度はお前が泊めてくれ」

「いいよ。いつでも。その代わりウッシーも一緒だからね」

「なんでそんなにあいつのこと気に入ってんだよ」

 俺の質問に、玉輝は、えぇー、だってかわいいじゃん、知ってる? 人は中性的なものに神秘性を感じるんだって、とよくわからない答えを返してきた。

 天使っているやん? キューピットでもなんでもいいよ、そういう天使って全部中性で男女の区別がなくってさ、そういう存在に人は神秘性を感じるように生きてきたから、いざ身近に中性な存在がいるとなんか近寄ってみたくなっちゃうんだって。

「まぁうちの場合は単純にウッシーが天使みたいにかわいいからってだけやねんけど」

 玉輝はトマトを食べながら、滴った汁をティッシュペーパーで拭った。

 丑尾が天使? 毎日おがくずを身体のどこかにくっつけたまま帰ってきて、気が立ったら言葉よりも先に手を出してくるあいつが?

 箸を動かしながら、羽を生やして白い布を身にまとった丑尾が優しい微笑みを湛えて空中に浮かんでいるさまを想像した。

 髪におがくずをつけて、シャツの形通りに日焼けした、カルピスが好物な天使ウシオ。

 ダメだ、面白い。

「なにニヤニヤしてんの?」

 箸をおいた玉輝が胸の前で手を合わせている。

「いや、なんでもない。もしあいつが天使なら、ずいぶん凶暴だろうなと思って」

 残った白米をかき込んでから箸をおいた。

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