武器を使わない情報戦ープロパガンダ⑮

ナチスの思想映画を任された女性監督

最大の娯楽だった映画の活用

 女性の社会進出が増している昨今、映画の世界でも女性監督の活躍が目立ちつつある。しかし今から80年ほど前、ナチスドイツが世界に先駆け女性の映画監督を採用していた。目的はプロパガンダ映画の制作である。
 映画は当時最大の娯楽であり、ナチスはこれを宣伝目的に利用する。政権獲得前にゲッペルスは、すでに選挙支援の目的でヒトラーの演説風景を各地で上映。ナチス政権が発足すると、映画は宣伝省の管轄下に置かれた。
 ナチス崩壊までに公開された映画は約1000本以上。その大半が意外にも娯楽性が強く、楽しむなかで自然とナチスの理念が浸透するよう工夫されていた。また、ニュース映画には実際の戦地映像を使うことで、国民戦意の高揚も図ったのである。
 このような映画戦略に利用された女性監督が、レニ・リーフェンシュタールだ。1902年8月22日、ベルリンのヴェディング地区で生まれ、父は配管工だったがのちに事業が成功してブルジョアとなる。幼少期は両親の引っ越しが多かったため、遊び友だちは弟しかいない。そこで早くから本を読みはじめ、この読書経験が映画監督としての活動にも役立っているという。

ヒトラーに見込まれた才能

 レニは21歳でダンサーになるも、デビュー8ヵ月で左ひざを故障して引退。女優業へと転向すると、次第に映画製作への思いが強まり1932年に映画監督としても活動を開始する。初作品の「青の光」は上々の評判を得たのだが、この映画によって彼女はヒトラーの目に止まってしまうのだ。
 映画制作の才能を見込んだヒトラーは、レニに党大会の映画製作を打診。1933年5月16日のことで、レニは有頂天だったとゲッペルスは日記に記している。そしてレニが党大会の記録映画の芸術監督に正式就任するのは、8月23日のことだった。
 制作された党映画「信念の勝利」は、1933年12月1日にプレミア上映されるとヒトラーから絶賛を受け、7ヶ月の上映期間中に2000万人のドイツ国民が観賞したとされる。しかし映画の成功は、国民のナチズム信奉とユダヤ人へのさらなる差別をもたらしてしまう。ギムナジウム(中高一貫校)のユダヤ人生徒が上映後に教師から暴行を受け、いじめられても見て見ぬふりをされていたとの証言も残る。
 戦後、レニはナチスへの協力理由はナチズムへの共感ではない、と語っている。あくまでも映像美の追求と、提示条件がよかったためだとする。実際、翌1934年大会の映画撮影の依頼条件は破格だった。
 まず、映画撮影はレニの自由裁量に任され、記録上ではレニとその会社が制作者として明記。書類上の著作権保持者はレニになった。さらには制作依頼の拒否権も許されていた。そのうえスタッフ数や資金も前作より潤沢となれば、レニに断る理由はなかったのだ。

断たれてしまった戦後のキャリア

 1935年3月28日に封切られた「意思の勝利」は、一段と芸術性の高い作品に仕上がった。シーンの序盤では空から陽光を背にヒトラーの飛行機が現れ、観客に神聖なイメージを植えつける。ナレーションや解説は一切入れず、現地映像と音楽で大会の熱気と威容をリアルに表現。また、ヒトラー視点の場面を常に群衆を見下ろす構図にすることで、すぐれた指導者としての姿を表現したのである。
 ベルリンオリンピックを記録した「オリンピア」二部作を撮影したのもレニだ。肉体美の描写を追求するべく、大会映像だけでは満足せず、ときには選手達を集めて競技を行わせた。そのため厳密な記録映画とはいえないものの、1938年4月20日の公開後は斬新な芸術性が国内外で大反響を呼んだ。
 ドイツ国内でのヒットはもちろん、その年のヴェネチア国際映画祭の最高賞も受賞。国威高揚という目的も達成され、プロパガンダとしても大成功を収めていったのである。
 こうしてドイツ最高の映画監督として名声を高めたレニは、開戦後に撮影隊を率いて宣伝映画撮影に加わることになる。しかし民間人かつ女性であるため満足な活動はできず、すぐに撮影隊は解体されることになった。
 だがナチスに協力したことから、戦後のキャリアは断たれてしまう。1954年の「低地」も興行的には失敗し、2002年に48年ぶりとなる「原色の海」を撮影した翌年に、稀代の女性監督は101歳でこの世を去っている。

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