すべての道は老婆に通ず!?:荒井文雄「呪い」
神話以来、特に日本では父性の強権的支配に比べた、母性の持つあたたかな包容力について多く語られ、信じられてきたが、個人主義が主流となった現在に至ってある問題が浮上してきた。それは、母性を持つ主体、すなわち母がその包容の環から締め出されているという問題である。
母性神話を信じる限り、母はその特異な位置づけによって静かな犠牲者とならざるを得ないわけだが、母をその位置から救い出すことは可能なのだろうか。そしてこの問いに対し、母にもまた包容される母がいるのだから、実際的にはその問題は解決可能だと言ってしまってもいいのだろうか。つまり、この問題は演じられる役割の問題にすぎないと言ってもいいのだろうか。
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荒井文雄による散文詩「呪い」は哲学書じみたくどくどしさでこのように書きだされている。
生殖の要となる形象、女、その女のあらゆ
る場合における母、すなわち、権化的老
婆ということになるが、そういうものを
実際に目撃するということは、不可能で
ある。
作者は、子を産み種を繁殖させる(社会的に言えば母の)役割を担う女には、抽象的な母なる存在(権化的老婆)がいるが、それは血縁関係にある母とは別なものなので目撃できないという。
ここで一番目を引くのは「権化的老婆」という存在だろう。抽象的で、しかも老婆。どうも生殖の要となる形象としての女の母は、肉親ではいけないらしい。もし女にとっての母が肉親であるならば、女と母の関係はそのまま母と娘の関係であり、そしてその関係は社会的に規定された静的な循環によって表されるだろう。
しかし、女にとっての「あらゆる場合における」母は「権化的老婆」だという。女の母としての在り方を規定する権化的老婆という存在。この時もはや、女はあらかじめ定められた社会的規定によって捉えることはできない。というのも、母としての役割を担う女にとっての母である権化的老婆は「古い視覚の慣れのところから」では見ることのできない存在なのであるから。ではいったい、権化的老婆とはどのような存在なのだろうか。
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「わたし」は根源的母がいるべき場所に適さない馬券売場の隅で権化的老婆に出会う(ただし、会った当初はその老婆が権化的老婆だとは思わない。)。そして老婆は権化的老婆という不穏な名前に違わず、醜悪なしゃがれ声で繰り返し何度も「わたし」にこのように言う。
「母胎の中で育っている嬰児は、母胎を少
しずつ食い、食い殺し終わって、そこか
ら出てくるんだ。残っているのは、生殖
の形骸にすぎない。」
母の役割を担う女たちの母である権化的老婆は、子を産むということは女たちが自らの体を嬰児たちに食い殺させ、自らを生殖の形骸にすることだと「わたし」に執拗に言い、そして、そんなことは女は皆知っており、知らないのは「文明を初め肯定しておいてその名義を借りなければ、否定も殺人もできない」男だけだとも言う。
出産の苦痛の内容は特に説明を要しないだろうが、注意が必要なのは、その苦痛を男は知らないということである。先に権化的老婆との関係によって規定される女は、あらかじめ定められた社会規定によっては捉えられないと書いた。ところで、本詩では男は勝手に文明を規定しその威光にすがっている者たちだとされている。つまり、「古い視覚の慣れのところから」母を、女を見ている男たちには、権化的老婆も、彼女の言うグロテスクな出産の営みもわかるはずがないのである。
他方、そのことに気づいた男の「わたし」は恐る恐る周りを見渡すと、「女が唇を真赤にし、男を食べているのが、見え始めた」、つまり簡単に言えば、生殖の持つ、経済や神秘の観念で社会性に還元し、覆い隠すことのできない、もっと動物的で血なまぐさい、死が後ろに透けて見えるような原始的な荒々しさが見えるようになったのである。
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権化的老婆は皆を優しく抱擁してくれる聖母などではない、グロテスクな生殖の営みを知る女たちだけにとっての―まるで写し鏡に現れた―母である。そしてそれは抽象的ではあるが、聖母のようにideal(観念的)なものではない。いま見えないからと言って存在を否定されるようなものではないのだ。それが本詩の哲学的文意が通達するところのものである。
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