見出し画像

定時先生!第44話 怒声

 体育館の床は、無数の生徒の頭でびっしりと埋められ、まるで黒い絨毯で覆われているかのようだ。
 中島は初任教師として、他の着任職員と共に壇上に並べられた椅子に座り、体育館後方まで整然と座る生徒たちを一望していた。緊張しながらも、どこか冷静に、茶髪の生徒がいないな、と思った。俺の中学生時代には、学年に数人は茶髪にしている不良がいたものだが、などと考えているうちに、中島が挨拶する番がきた。
 慌てて立ち上がろうとした、その時だった。

「おい!そこ!」

 生徒らを囲むように立っている教師の中から怒声が飛んだ。周囲と話す生徒でもいたのだろう。
 中島は、中途半端に腰を浮かせたまま固まっていたが、気を取り直し、演台に立ち、挨拶を済ませた。
 やがて、始業式が終わり、退場を指示されたクラスが起立すると、張り詰めていた空気が弛緩し、待機の生徒たちにささやかなざわめきの波が広がった。瞬間、幾度目かの怒声が教師から飛んだ。再び静まり返る生徒たち。退場する生徒の足音のみとなった体育館に、再び怒声が響き渡った。

「足音静かに!」

 N中では、日常の学校生活でも、教師の怒声がよく聞こえてきた。授業時にも、朝も放課後も、あちこちの教室から響いている。
 教師らの厳しさ以上に中島が驚いたのは、つい今まで怒声を張っていた教師の多くが、廊下の角を曲がると別人かと思うほど冷静であることだった。つまり、怒鳴っているのは演技だったのだ。ほとんどの場合、実際怒鳴るほど激昂しておらず、指導として、あえて強い口調を選択していたのだった。

「俺も中学生の頃は何度か先生に怒鳴られたこともあるけど、それも演技だったのかな」
「そうかもね。私もよく怒られてたけど、そうなのかな」

 遅れて社会人になった中島は、ようやく美咲と対等に話せる気がしていた。初任校の様子や出来事を、よく美咲に聞いてもらっていた。

「規律を守るためのテクニックとして怒鳴ってるんだよね。でも、俺にはそれができない。人んちの子ども怒鳴るのはやっぱり抵抗あるよ」
「そうでしょうね。英二が怒鳴ってるところなんて、想像できないもん」
「だから俺と他の先生とでは、生徒の態度が全然違うんだよね。もう嘗められちゃって。これじゃいけないよな…」
「若い先生ってそんなもんじゃない?」
「そうかなあ…」 

 中島は、校内唯一の初任者だった。よく先輩から、1年目からこんな落ち着いた学校だと異動したら苦労するぞと、聞かされた。そんな落ち着いた生徒達にすら嘗められている自分に対し、中島は不安を抱いていた。
 考え込む中島の日に焼けた顔を見つめ、美咲がつぶやく。

「来年はバドミントン部の顧問になれるといいね」

 中学生の頃から屋内競技であるバドミントン一筋で色白だった中島の肌は、ソフトボール部顧問らしく、すっかり小麦色になっていった。