未来の働きものに贈る住居学|建築史家・藤島亥治郎の児童書を読む
戦後の再出発にあたって「働きものの『みつばち』のように、勉強に励み立派な人間になる」、そんな理想を掲げた児童書シリーズ「みつばち文庫」が発行されました。
この「みつばち文庫」シリーズを読んだであろう子どもたちは、みつばちのように働き、日本の復興と発展を支えたことを思うと、なんとも感慨深いネーミングです。
そんな「みつばち文庫」の一冊に『今の家・昔の家』(みつばち文庫5、志村書店、1948年)があります。手がけたある建築史家が『今の家・昔の家』をはさんで生きた戦前・戦後について書いてみたいと思います。
『今の家・昔の家』と戦後新教育
『今の家・昔の家』の著者は建築史学の大家・藤島亥治郎(1899年-2002年)。文化庁文化財審議会専門委員会の委員を長年にわたってと務めたほか、この本が発行された翌年、1949年に法隆寺金堂の火災をうけて国宝維持修理事業の委員として金堂や五重塔の調査を行なった人物でもあります。
そんな大御所が、児童向けにやさしく語りかけた読み物が『今の家・昔の家』でした。人間の家、地下の家、地下の家から地上の家へ、動く家、木造の家、自然と家、間取りの進歩、美しい家と目次はつづきます。
世界のなかの日本、今につづく長い歴史といった空間軸・時間軸のなかに私たちの住まいの未来を思い描けるよう構成されています。
敗戦後、日本はGHQ指導のもとに、民主社会を担う人間を育てる「戦後新教育」を展開していきます。なかでも、生活問題の解決に向けた学習を重視する「生活単元学習」を掲げて、衣食住はじめ日常生活が学びの舞台となりました。住宅もその一つ。
住宅の把握と改善、世界のなかの日本の住居といった問題は、理科や社会、さらには数学や図画工作などで取り上げられることになります。この『今の家・昔の家』もまた、そうした文脈のなかで出版されたものなのでした。
藤島は熱心に児童向けの読み物を手がけているのですが、本書含め以下のものがあります。
主として社会科や理科の副読本を想定しているようです。戦後新教育がスタートした1940年代末から50年代にかけて、こうした本たちが精力的に出版されました。一方で、児童向け読み物の波は、戦後だけでなく戦時中にもあることもわかります。
『日本の家』と耐火への願い
「戦時中」と聞いたとき、敗戦色濃くなった時代を思い浮かべがちですが、いまだ大日本帝国の勢いが盛んだった頃は空前の啓蒙・教育書出版ブームでもありました。建築史家としての藤島も、そのムーブメントに動員されていったのです。
この文章は藤島が『日本の家』(1943年)に寄せた「はしがき」です。『日本の家』は「少国民日本文化選書」の一冊として出版されたもの。『日本の家』をかわきりに、『日本の祭』(西角井正慶)、『日本の城』(鳥羽正雄)、『法隆寺』(大岡實)、『日本のやきもの』(板谷友義)、『日本刀』(栗原彦三郎)、『日本人形』(西澤笛畝)などが近刊として紹介されています。
国民学校中級以上向けとして、日本文化のなんたるかを第一線の執筆者によって紹介するシリーズとして構想されたのが「少国民日本文化叢書」なのでした。この手の出版物は、児童向けのほか大人向けもたくさん出版されました。
この本の目次構成を書き出してみると次のとおりです。
『日本の家』の物語終盤、主人公の邦雄君に建築家の吉家さんが名古屋城の重要さを説きます。「『これが、日本の昔のビルデングかな。』と吉家さんは笑つてゐます。『とにかく、三百なん十年か前に、これだけの建物を木でもつて、どしどしと、建てられるようになつたことは、えらいものだよ。』」と。それに対して邦雄君はするどい一言を発します。「でも、こんなの、爆弾ですぐやられてしまはあ。」
吉家さんは、名古屋城建設当時はそうした問題はなかったこと。でも、いまは「いつ空から爆弾がおちてくるかもしれない」戦時下にあること。そして爆弾はともかく焼夷弾の脅威へ対策をとる必要があること、耐火構造ないしは準耐火構造にしていく必要性があることを訴えています。
しかしながら、吉家さんの懸念は現実となります。『日本の家』刊行の翌年、3月12日には名古屋の中心市街地が罹災、同月19日には名古屋駅が炎上。そして5月14日には名古屋城も焼失してしまいます。木造家屋の家々は灰と化しました。
『建築のはなし』と戦後の復興
戦後、新設された戦後新教育の目玉科目・社会科にあわせて「社会科文庫」シリーズが刊行されます。藤島はふたたび『建築のはなし』を担当することに。
文中さいごにル・コルビュジエの都市計画を紹介しつつ「防火的・耐震的で、しかも健康的な中に生き生きとして育ち、学び、働き、楽しむ」ことの重要性と、実現への道筋を示しています。
こうしてみると、藤島の児童向け読み物は戦時から戦後にかけて、その内容はおおいに連続しています。というか、戦後新教育という大転換に際して、自然・人文・社会の各分野が参考書や副教材をすぐさま提供できたのは、戦後復興への使命感はもちろん、そもそも戦前までの研究蓄積、戦時中の出版活動が下地になってこそのこと。
建築学を志した藤島は、建築史家・関野貞に師事し、建築史に考古学を援用した研究を展開。卒業論文は日朝建築の交渉史を扱い、大学卒業後は朝鮮半島に渡って京城高等工業学校に赴任。現地で精力的な踏査を展開しました。
「大東亜建築の構造」の理想と陥穽
1926年から2年間にわたって独・仏・米の3か国に留学・巡遊しています。こうした藤島のキャリアが、日本の家・建築を原始時代から現在まで、アジアから西欧までの広い視野のなかで位置づける姿勢を育んだのは間違いないでしょう。
だからこそ、1943年に講演「大東亜建築の構想」を行います(建築雑誌、1943年8月号)。帝国日本の大陸進出によって「大東亜」という広大なエリアを研究の範囲に収めないといけなくなった建築学界は、さまざまな議論を重ねていきます。そもそも日本国内に限っても多様な気候風土があるにもかかわらず、とほうもない大きさと多様さの「大東亜」というくくり。
諸説いりみだれる「大東亜建築様式」論に対して、藤島はこう言います。
こうした戦時下における藤島の言葉を読んでいると、同じころに児童書として書いた『日本の家』のなかで、建築家の吉家さんを通して語った次のような思いを思い出します。
「その土地にふさわしい」建築をつくらなければならないという目的と方法が科学的にとりまとめられていったのは、大日本帝国の版図が急激に拡大してしまったがための後追いとはいえ、大陸進出に端を発することがうかがえます。満洲で直面した極寒生活が、戦後の寒地住宅研究の基礎になったのもよく知られるところ。
藤島亥治郎の児童向け読み物。児童向けだからこそ、建築や住宅への思いが直截にあらわれています。そして、そこには戦前・戦時・戦後にわたる連続、そしてもちろん断絶も垣間見える。「よい家をつくるやうに考へてやらねばならない」という言葉にあらわれた陥穽を80年たった今だからこそ、見つめ直したいところです。藤島亥治郎がしっかりと時代に向き合ったからこその正負両面がそこにはにじみ出ています。
『私のすまひ』と「これからの都会」
さいごに敗戦翌年に出版された藤島の『私のすまひ:少国民シリーズ』(小学館、1946年)にふれてしめくくりとします。
同書むすびに登場する藤島亥治郎みずから考えた「これからの都会」像がおさめられています。
なんかどっかで見た感ある都市像ではありますが、藤島の願いは熱いものです。戦前の都市部における劣悪な住環境、そして空襲によって焼かれた家々と人びとを胸にして「田舎だけにあつた山野のめぐみを、都会でもわすれず、人々の身も心もゆたかに、ほんたうに健全な人となつて楽しくくらしてゆけるのです」と子どもたちに語りかけます。
藤島はこの『私のすまひ』の冒頭、こんなことを書いています。
1946年、いまだ戦災復興の途上にあって、建築史家・藤島亥治郎の決意が記されています。未来の「働きもの」たちが便利で、健康的で、立派に生きられるように。
(おわり)
関連noteをあつめたマガジン
※ここで紹介した藤島亥治郎が手がけた児童書たちは、国会図書館デジタルコレクションですべて閲覧することができます。
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