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聖蹟ひばりヶ丘団地の「御ベランダ」にはためいた「オムツの旗」

ちょうど60年前の1960年9月、皇太子明仁親王(現・上皇さま)と美智子妃ご夫妻は、東京・田無町(現・西東京市)に建つ公団ひばりヶ丘団地をご訪問しました。住民・マスコミから熱烈な歓迎を受けつつ74号棟に住む横井さん宅(2DKの住戸)のベランダから皆に手を振る写真が今に残ります。雑誌『国際文化画報』1960年11月号の表紙もそのうちの一つ(図1)。

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図1 ベランダに立つ皇太子ご夫妻(*1)

そんな一枚の写真にうつる皇太子ご夫妻、ダンチ、ベランダ、洗濯物から、当時の社会をのぞいてみたいと思います。

ダンチ+ミッチー=あこがれの構図

訪問前年の1959年に竣工したばかりのひばりヶ丘団地は、180棟、全2714戸におよぶマンモス団地で、日本住宅公団が手掛けた物件としては当時、最大規模。依然として都市部は深刻な住宅難がつづいていた時代。家はあっても木造賃貸アパート(モクチン)住まいが多かった。そんななか、鉄筋コンクリート造で住戸面積も広く、風呂や水洗トイレ等の設備も充実した公団住宅は輝いて見える代物でした。1958年には「ダンチ族」が流行語となるなど、当時の団地は庶民のあこがれの的でした(図2)。

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図2 ダンチ族(*2)

ダンチ族?お分かりになりませんか。ダンチは団地のことです。このごろふえたアパート群のことを団地といいますが、あのアパート居住者をダンチ族というわけです。ダンチ族は新しい都会の中堅庶民層です。一団地千戸以上のもザラですから、そうした新しい庶民層が生み出すさまざまな問題を、無視することはできますまい。
(無記名「新しき庶民”ダンチ族”」、p.4)

あこがれのダンチは、家賃も高かった。そのため、ひばりヶ丘団地の入居者は、共働きが多かったといいます。サラリーマンのほか、医者や大学教授など、比較的所得が高い人が多かったのだそう(奥野健二「ひばりが丘」、p.114)。

一方で、ひばりヶ丘団地を訪れた皇太子ご夫妻も、当時、庶民の注目の的、あこがれの対象でした。「ダンチ族」が流行語になた1958年に、皇太子明仁親王が、日清製粉社長・正田英三郎の長女・美智子さんと婚約を発表すると二人は注目の的に。社会現象となり「ミッチー・ブーム」と呼ばれました。

無敵の組み合わせ=「ダンチ族」と「ミッチー・ブーム」が、1960年9月6日の「皇太子ご夫妻団地ご訪問」だったのです。訪問目的は次のとおり。

60年9月22日からの訪米―この訪米は本来、米大統領ドワイト・D・アイゼンハワーの訪日に対する答礼として計画されたが、安保闘争の激化により、訪日は実現しなかった―を控えて、「渡米前のご勉強」のため、東京都に誕生した最新の団地を訪問したのである。
(原武史『団地の空間政治学』、p.22)

「渡米前のご勉強」の「最新の団地」見学は、アメリカでのライフスタイルと団地でのそれに関連性が見出されているわけで、舶来感ある最新型の住宅や設備が「アメリカ」と結び付けてイメージされていたのだとわかります。

戦争と平和のはざま

皇太子ご夫妻が訪問されたひばりヶ丘団地は、当初「ひばりヶ丘」だったのが「ひばりが丘」表記になったほか、団地再生事業を経て中層マンション「ひばりが丘パークヒルズ」を中心に、戸建住宅、公共施設も複合する住宅地へと変貌しています。

団地が立地する旧田無町は、昭和初期に中島飛行機発動機試運転工場がつくられ、日中戦争の勃発にあわせて軍需工場の進出が本格化した土地。中島飛行機田無鋳鍛工場(後に中島航空金属へ改称)や、豊和重工業、東洋鍛工田無工場などが続々とつくられ、工場進出に伴う社宅建設も進みました。

ひばりヶ丘団地も、中島航空金属田無製造所の跡地に造成・建設されたもので、いってみれば戦争から平和への転換を物語る来歴を持っているのでした。そうした場所に、戦後の平和な時代を象徴する皇太子ご夫妻が訪問したわけです。

一方で、中島航空金属田無製造所の跡地は、ひばりヶ丘団地だけでなく、日特金属工業(現・住友重機械工業)の田無製造所としても活用されていました。皇太子ご夫妻の団地訪問から6年を経過した1966年10月19日、この日特金属工業田無製造所が襲撃される事件が発生します。襲撃事件を起こしたのは、ベトナム反戦直接行動委員会(ベ反委)。この工場で兵器が製造されていて、そこで造られた武器が、ベトナム戦争で戦うアメリカ軍へ売り込まれている。それを阻止しようとしての襲撃事件でした。

戦後は中断されていた兵器の国内生産は、1957年に決定された第一次防衛力整備計画によって本格的に再開されている。日特金属の機関銃は国策とともにあり、すでに62年には従来品を改良した「62式機関銃」の量産体制を整えつつあった。
(斎藤貴男『戦争経済大国』、p.41 )

この事件は、隣接するひばりヶ丘も無縁・無影響ではなかったようで「工場の地下で日夜繰り返される機関銃の試射音が、隣接する『ひばりが丘団地』の住民たちを悩ませていた」といいます。敗戦を経て、日本は軍国主義から民主主義へと転換した。それを象徴するように、軍需工場跡地は庶民があこがれる鉄筋コンクリート造の集合住宅が建設された。そこを戦後民主主義を体現する、若き皇太子ご夫妻が訪問した。こうした華々しい「平和」への転換の脇では、いまだつづく「戦争」があったのでした。

掃かれなかった「洗濯物」

ところで、できたてホヤホヤの団地とはいえ、皇太子ご夫妻をお出迎えするとなれば、それなりの準備が必要となります。実際、公団住宅は建設されたはいいけれども、住棟まわりの整備は間に合ってないまま分譲されるのも多かったようです。分譲早々から入居した住民は、当初の様子をこう証言しています。

道路は舗装されていなくて、路線バスもない、保育園もない、当時は「田無町駅」と呼ばれた駅に行く道も舗装されていなくて砂利道なんです。雨になるとドロドロになってしまい、通勤にはゴム靴を履いて駅で履き替えていました。
(奥野健二「ひばりが丘」、p.115)

そういえば、皇太子のお父様である昭和天皇が、戦後、日本各地を巡幸するたびに訪問先がきれいに整備される様を、雑誌『真相』が「天皇は箒である」と揶揄したのを思い出します(図3)。

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図3 天皇は箒である(*3)

数千人の労働者が命のつつかい棒と頼む坑木が腐りはてても一顧もしない炭鉱資本家、数十万の人民が日夜往来する道路にウソツパチの公約スローガンが風にふかれてなびいていても見向きもしない官僚共が、われらが象徴の往くところ、地下千数百尺の黒闇地帯から、オメシ車が一瞬疾駆し去る街頭の一角、建物の壁に至るまで、ナメルが如く、払うが如く、たちまちにして変わる美まき町、美まき村。げに”天皇は箒である”といいたくなる次第である。
(無記名「天皇は箒である」、真相、11号、p.1)

1947 年9月に刊行された『真相』から13年の歳月を経たわけですが、やはり、ひばりヶ丘団地でも訪問に先立って徹底したオモテナシ準備が展開されたそう。通り道の舗装が直され、ブラシで洗われ、ガラスも磨かれ、草もむしられる…。

実際に皇太子ご夫妻がお立ち寄りになった横井さんのお宅はどうだったのか。横井さん自身の手記が『主婦と生活』(1960年11月号)に掲載されていて、それを読むと、お宅訪問が打診されたのは訪問日の3日前、9月3日夕方だったそう(*4)。「でももう何か準備しようにも時日がなく、ただただお掃除を念入りにしていつもの倍くらいのお花を買ってきて飾った」のだと。

もうふだんのまま、ありのままの家庭を見ていただいたつもりでございます。もっとも、ベランダの柵のペンキがはげていたり、壁にしみのついているところは管理事務所のほうから手を入れてくださいました…
(横井洋子「皇太子ご夫妻をわが家にお迎えして」、p.252)

さて、そんな配慮がなされたお出迎えぶりを念頭に置いて、もう一度、ベランダに立つ皇太子ご夫妻の写真をながめてみると、ちょっと驚きます。なんと上下階のベランダに干された洗濯物が、ばっちり写真に収まっているではあーりませんか。しかも下着ですよね、これ(図4)。

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図4 ベランダに立つ皇太子ご夫妻(*5)

ただ、これはウッカリではないでしょう。朝日新聞や日本住宅公団などが報じる「皇太子ご夫妻訪問」写真には、総じて洗濯物が写っているのですから。洗濯物は箒で掃かれなかった。むしろ、皇太子ご夫妻は洗濯物と一緒にベランダで写真に収まる必要があったと考えるのが自然ではないでしょうか。マス・メディアを通じて発信される皇太子ご夫妻の姿は、どんな意味をもっていたのか。社会学者・内田隆三はこう指摘しています。

敗戦の翌年正月に裕仁天皇が「人間」として生きることを宣言したあと、1959年の明仁皇太子の「御成婚」はその人間としての「生」の中身を定めたといえよう。皇太子の御成婚は、恋愛のロマンス/祝福された結婚/新家庭の創造という一連の営みを通じてマイホーム形成の理想的・規範的なモデルとなったのである。テニスコートのロマンスから華やかな結婚へ、東宮御所での新しい家庭生活、エプロンをつけて洋風のキッチンに立つ皇太子妃、新家庭自らが子育ての規範としてつくった『ナルちゃん憲法』など―皇太子による新しい『家庭』のイメージはマス・メディアを通じて消費されていく。(内田隆三『国土論』、p.180)。

「人間」としての「生」を伴う「新しい『家庭』のイメージ」と、庶民の住まいである「ダンチ」や、そこのベランダに干された「洗濯物」はつながっている。マイホーム形成の「理想・規範」と庶民生活の「現実・事実」をむすぶアイテムが洗濯物だったのではないでしょうか。内田はいいます。「マイホームとしての『家庭』の幸福はこうして戦後民主主義を象徴する形象となる」と。民主主義が皇室によってブランディングされる。

さきほど紹介した横井洋子さんの手記には、当初の予定では靴履きのまま上がるはずが、美智子妃の意向で沓脱に変わったと記されています。東宮御所で美智子妃が推進した「改革」がここでも展開されたのでしょうか。また、横井さんはベランダの洗濯物にも言及しています。

新聞に発表になりましたあのときの写真をおぼえていらっしゃる方もありましょうが、私どもの上下の階とも、ベランダには洗濯物が干してございます。あれは、私どものよそいきでない普通の家庭生活の営みもみていただけて、かえってよかったのではないかと思っています。
(横井洋子「皇太子ご夫妻をわが家にお迎えして」、p.254)

わざわざ、そして唐突に記されたこの文章。やはり洗濯物が出しっぱなしだと苦言があったのかなと思うと同時に、実は、洗濯物を出したままでいいと意向が伝えられてたのかなぁ、とカングリー精神を刺激されます。

ベランダをめぐって

ベランダにはためく洗濯物がいかがなものか?問題は、以前から当然あったもので、たとえば、皇太子ご夫妻の団地訪問に先立つ6年前、1954年の『アサヒグラフ』に次のような文章が掲載されました。

アパートの窓に干し物―珍しくもない風景だが、梅雨どきともなれば晴れ間をねらって一斉に窓が開き干し物の展覧会場となる。
(無記名「窓」アサヒグラフ、1954年6月16日号、p.23)

当時のベランダ事情がいろいろ書かれていて、戸山アパートでおきた子どもの転落事故からベランダ手摺が嵩上げされるようになったり、板張りの風呂が増設されたり、ベランダ部分からさらに突出させて物干し竿を掛けたりと無法地帯化していた模様(図5)。

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図5 1950年代のベランダ状況(*6)

こうした状況を受けて、同記事では建築家・池辺陽にコメントを求めています。以下、池辺談。

「テラス付きのアパートという言葉はロマンチックな響きをもっている。テラスの日光浴、鉢に匂う美しい草花。ところが現実はごらんの通り、これではテラスではなく物干し場である。これが現代日本文化を象徴する近代的アパートと称するものなのだ。」
(無記名「窓」アサヒグラフ、1954年6月16日号、p.23)

とはいえ、池辺も「だからといって日本の住人たちを責めるわけにはいかない」と言います。

「洗濯機も乾燥機もなく、屋上の干し場は盗難の心配がある。いわば普通の家を縦に重ねただけのアパートではこれ以外どんな暮し方があるのだろうか。本当の人間の生活ができるアパートにするためには、アパートに住む人たちがその住居を愛し必要な施設を作らせる努力がまず必要である」
(無記名「窓」アサヒグラフ、1954年6月16日号、p.23)

そして池辺評の前年にも、日本建築学会の機関誌『建築雑誌』(1953年1月号)にベランダの洗濯物について論じる小文が掲載されました。著者として記された名は「UZO」。住宅計画学の大家・西山夘三のペンネームです。西山は景観を損なうと非難される団地の洗濯物事情についてこう記します。

戦後の建築新風景の随一は、やはり日本中いたるところの都市でみられる鉄筋コンクリートアパートの集団であろう。(中略)ところが、雨上りの天気のよい日など、この堂々たる建物の前面に、色とりどりの旗さしもの、つまり、カサ、フトン、洗濯物、その他あらゆるものが飾られ、うららかな陽をあびて照りはえる。
(UZO「おむつのハタ」、p.58)

こうした状況に対して「けしからん、何とかせよ」との声も当然ある。たしかに「洗濯物で南側の窓をふさぎ、部屋の中への日光の射入をさまたげているなどとは、まずい事だ」と住宅計画学者らしく指摘するも、「美しさ」を台なしにしているという意見には同意しがたいと言います。

私はむしろこの旗さしものに、生活の生きているよろこびの表現を感じる。(中略)整つた暮らしができる施設と余裕が人々にできてくるまでは、おむつのはためくフアサードを私は日本人の生活の美しい表現と感じたい

この文章のタイトルは「おむつのハタ」。生活感が消し去られた昨今の建築写真を批判しながら、ベランダにたなびく戦後民主主義の象徴=オムツの旗を称えたのでした。そんな戦後民主主義なライフスタイルを牽引するのが皇室ブランドなのはちょっと不思議ですが、このまだら模様に戦前・戦後が並び立ち、親米であり反米であり、ソビエトも混ざり合う根っこに皇室があるのが日本的といえば日本的。

さて、それから丸60年を経過し、もう皇太子ご夫妻が訪問した74号棟は取り壊され今はありません。でも、ご夫妻が立ったあのベランダ(だけ!)が、団地の敷地内に保存されています(図5)。

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図5 保存されている「御ベランダ」(*7)

マイホーム形成の「理想・規範」と庶民生活の「現実・事実」が取り結ばれた場所、ひばりヶ丘団地。戦後民主主義を象徴する「マイホームとしての『家庭』の幸福」が広く発信された皇太子ご夫妻団地訪問。天皇が立ち寄った場所が「聖蹟」となり、そこで食事をとった食器が「御器」となるように、ひばりヶ丘団地は「聖蹟ひばりヶ丘」となり、その故事を「御ベランダ」が今に伝えるのでした。


*1 図版出典、国際文化情報社『国際文化画報』1960年11月号の表紙。
*2 図版出典、朝日新聞社『週刊朝日』1959年7月20日号「新しき庶民”ダンチ族”」。
*3 図版出典、人民社『民衆の雑誌・真相』11号、1947年9月。
*4 原武史『団地の空間政治学』(2012)には、訪問当日が火曜日だったため、夫の横井静香さんは不在だったと思われる説が出てきますが、この手記によると普段は仕事を休むのが嫌いだったけれども、訪問当日は特別に休みをとり、夫婦そろってお出迎えたのだそう。
*5 図版出典、注1に同じ。
*6 図版出典、朝日新聞社『アサヒグラフ』1954年6月16日号、p.23
*7 図版出典、松波庄九郎「ひばりが丘団地」、写真AC、ID:889705。トップ画も同じ。

参考文献
・横井洋子「皇太子ご夫妻をわが家にお迎えして:ひばりが丘団地ご訪問のあとさき」、主婦と生活、主婦と生活社、1960年11月号、pp.252-254
・内田隆三『国土論』、筑摩書房、2002年
・清宮由美子『美智子妃誕生と昭和の記憶』、講談社、2008年
・原武史『団地の空間政治学』、NHK出版、2012年
・斎藤貴男『戦争経済大国』、河出書房新社、2018年
・奥野修司「ひばりが丘:最先端団地の『夢の跡』」、所収『昭和の東京12の貌』、文藝春秋、2019年

(おわり)

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