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妻と子どもと車と家と|1961年、山一證券連載広告にみる戦後日本の家族像

山一證券が累積投資の個人会員(M.I.クラブ)向けに発行していた『月刊M.I.』(M.I.はマンスリー・インベスメントの略)。1961年の一年間を通して裏表紙には、毎号、会員を想定したある家族の夢を描きつつ、その実現へ向けた山一證券の連載広告が掲載されています。

この連載広告で描かれる夢は、少し背伸びしたものながらも、決して絵に描いた餅ではない絶妙なもの。特に1960年代は株式投資が好調となる時期でもあり、なんだかんだ早く実現してしまうかもと思えるものでした。

そんな設定の連載広告をながめていると、1961年当時のひとびとが、どんなことを夢みたり、目標にして生きていたのかがうかがえるようです。

車、ピアノ、そして家

たとえば、1961年6月号は「わが家のドライブ」と題して、妻と娘の3人で箱根へドライブした夫の心境が綴られます。「きょうの日曜日はわが家にとって記念すべき一日だった」。そんな箱根ドライブの一日を実現したのは、念願だったマイカーを手に入れたから。

ついに車を手に入れたのだ。ハンドルをにぎったぼくは、一路箱根へ向けてつっ走った。朝からの上天気、さわやかな初夏の風がほおをなでる。妻も娘も車の上ではしゃぎどおし、やっぱり車を買ってよかったと思う。

月刊M.I.、1961年6月号

妻子を乗せて、目的地に走る車。そのハンドルを握る夫。「車」は家族であり、「道路」はライフコース。ようやくマイカーを得た夫は次の「立寄地」を見定めます。

車が欲しい-そしてはじめたのが、ユニット投信の月掛だったが……。三年まえの夢がこんなに早く実現するとは。車はすんだ。さあ次は何にしよう。妻は新しい家が、娘は大きなピアノが欲しいという。ひとつづつ計画をたて着実に実現させるのだ。そしてぼくの家庭のしあわせを、ぼくの力で築いてゆきたいと思う。

月刊M.I.、1961年6月号

マイカー、マイホーム、ピアノ…。戦後日本経済を駆動した個人消費の主要アイテムが登場します。それと同時に「夢」を語る広告からは、「夢」を語るがゆえに、その背景にある性別役割分担が赤裸々に描かれることになります。「ぼくの家庭のしあわせを、ぼくの力で築いてゆきたい」。

「計算」するママ

1961年11月号「ママの計算」も性別役割分担に基づく構図を端的に示しているように思えます。木造平屋建て住宅に、娘「初枝」の子供部屋を増築する計画。その資金面での段取りを担うのは「ママ」です。

子供部屋の増築を考えたのは、初枝が三つのとき。母家は、初めから増築できるようにしてあったから、敷地、間取り、日当りについては問題なかった。頭をいためたのは、その資金づくり。

月刊M.I.、1961年11月号

増築計画に必要となる資金を算出し、その工面をするのは「ママ」の大切な役割でした。ゆえに「ママの計算」。

計画では、四畳半の子供部屋と八畳の居間兼用の客間の二部屋、床間、押入、比較的広い廊下として、建坪九坪くらい。その建築費は一坪五万円でじゅうぶんという建築家の話。それに門、垣根などの外回り工事が七、八万円。合計五十三、四万円でできるという計算になる。

月刊M.I.、1961年11月号

「ママの計算」の構図は山一證券に限ったものではなく、前年の1960年の三菱銀行広告でも、机に向かってマイホームの間取りを描いている夫の後ろで、妻は貯金通帳を手に見守っています。

三菱銀行、1960年広告

”しあわせ”を建てるには…
くらしの土台を 三菱の預金で
ガッチリ 固めて下さい!

三菱銀行、1960年広告

夢を描く=間取りを検討するパパと、資金計画を握る=計算するママ。妻は「山内一豊の妻」として内助の功を発揮することが求められたのです。

山一のオープンで積立をはじめて、今年の夏でちょうど四年。計画より早く目標が達成されそうなので、一生懸命……矢もたてもたまらず、外垣のほいうから手をつけはじめた。秋日和の今日、初枝といっしょに、門を好きなホワイトに塗ってみる。次は、子供部屋を、と思うと、ママの気持ちはまた格別。

月刊M.I.、1961年11月号

妻と娘は家を門にペンキを塗って、夢の実現に期待をふくらませる。仕事帰りの夫を迎える門をうつくしく彩る。そして、広告でのパパの不在が、稼ぎ頭としてのパパの立ち位置をあらわしてもいます。

たとえば、これら広告と同じ1961年の「こどものくらし②」(知性社、1961.4)に掲載されているこの写真もまた、ママに長男・長女が描かれていますが、母子家庭ではなく、パパはまだお勤め中であることが暗黙に了解されます。というか、ジュース飲む前にランドセルを下ろそう。

こどものくらし②、知性社、1961.3

家族を背負い、外へ向かう男

「ママの計算」では不在(仕事中)のパパと息子にフォーカスしたのが1961年10月号の「パパを送って…」です(同一家族ではありませんが)。語り手は貿易商の父をもつ息子です。海外への渡航が自由にはできなかった当時に、仕事でサンフランシスコに行く父を息子は見送ります。

アメリカへゆくパパを羽田へ見送りにいきました。ジェット機で、サンフランシスコまで12時間だそうです。(中略)ぼくも、大きくなったら、きっと、世界の国国を旅行するんだ。(中略)パパ行ってらっしゃい!

月刊M.I.、1961年10月号

ややカングリー精神が過ぎるかもですが、「パパを送って…」と「ママの計算」の対比はあまりに強烈です。外(しかもサンフランシスコ)で働くパパと、「ぼくも、大きくなったら、きっと、世界の国国を旅行するんだ」とグローバルな夢を引き継ごうとする息子。

この能動的な「夢」に対して、門を白ペンキで塗ってパパの帰りを待つ母娘はすこぶる受動的です。ここにみられる「父・息子-母・娘」の構図と同一平面に「ぼくの家庭のしあわせを、ぼくの力で築いてゆきたい」と語る「わが家のドライブ」があるのは言うまでもありません。

1961年5月号は「初節句」。長男の初節句を迎えて、妻と子を写真におさめる夫が語り手となっています。「この五月は長男の初節句、さわやかな風に泳ぐ鯉のぼりのように、のびのびと育ってほしい……子供をもつと本当にそう思う」。そして夫はこうも語ります。

”妻と子”にカメラを向けていると、私にも家庭が、ささやかながら一家があるということが身に沁みて嬉しくなる。それだけではない。この家庭も自分の肩に―と思うと、いささか責任も感じてくる。

月刊M.I.、1961年5月号

その「責任」を果たすために、夫は「山一のサイケンオープン」を利用する。「毎月5千円もいまは痛いが、そのうちになれてくるだろう。月掛とはそんなものだから……」と。

なお、紹介してきた各広告に、祖父・祖母の姿はありません。すべて核家族。地方から都市部へでてきた次男坊・三男坊たちが「一国一城の主」として家族を持ったのです。そしてマイホームを獲得し、あるいは獲得しようとする「現代住宅双六」の過程。1961年といういまだ民間銀行の住宅ローンが普及する前に、山一證券が提供する貯蓄の仕組みを使って夢に邁進したのでした。

Nさんの場合。彼は三十四歳。二児の父親、サラリーマン歴十年、月収四万二千円、ある商社の係長さん。いわゆる「新中間層」の代表選手で、仕事にも油がのり、生活にも何の不安もない。

月刊M.I.、1961年9月号

1961年9月号「磯づり」に登場する「パパ」像。証券貯蓄のメインターゲット「新中間層」。父は会社でお金を稼ぎ、夢の実現に向けママは「計算」し、そして子は家族のかすがいとなった。農家の次男坊・三男坊の「パパ」は実家では得られなかった「一国一城の主」の座を手にし、姑の支配下にない「ママ」は、家庭を切り盛りする主体性を獲得しました。

ただ、そこで得られた、自分たちで自分たちの家庭を築く自由は、徐々に新しい作法をつくりだしていきます。夫たるもの、妻たるものかくあるべし。妻と子どもと車と家と…そろえるべきアイテムを適切な方法で獲得するための双六ゲームが徐々に整えられ、精緻化されていく。そんな1960年代はじめの社会と家庭とマイホームに思いをめぐらせる好個の資料として『月刊M.I.』はあります。

(おわり)

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