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坂静雄の「戦ふ住宅」|鉄が足りない戦時下、シェル構造を木造でつくる


建築構造学者として戦後日本の鉄筋コンクリート構造研究を牽引した坂静雄(1896-1989年)は、戦前、東京帝国大学で佐野利器や内田祥三に師事したのち海外へ留学。ところが不測の事態により京都帝国大学に呼ばれ、そこで鉄筋コンクリート構造の研究に従事することになります。「不測の事態」とは、前任者の三浦耀の急逝。ちなみに三浦もまた前任者・荒木源次、そして荒木もまた前任者・日比忠彦が亡くなったことから呼び寄せられたのだそう。

坂は京都帝大着任前に、スイスとドイツに留学。そこで鉄筋コンクリート造のトレンドが、ラーメン構造ではなくシェル構造であるとの考えを深めます。ところが京都帝大にはそもそも試験機も充分ではない。その上、日本が戦争へと突入していくことで、鉄もコンクリートも品薄になってしまいます。その頃のことを、坂は1986年に受けたインタビューで次のようなに回想しています。

鉄は戦争中だからなかなか使わせてくれない。ですから木造のシェルを造るわけです。陸軍の建築を造ったんです。パラボリック・ハイパボロイドの面を4つ組み合わせる屋根がありますね。それを造りました。どっか覚えてないんですけれども。
(坂静雄・藤森照信「初期の鉄筋コンクリート構造」1986)

このあたりの経緯は、坂静雄自ら「シャーレ昔話」と題した小文でもう少し詳しく書いています(カラム13号、1965年)。自著『平面と曲面の構造』(工業図書、1937年)を出版した坂は、物資欠乏のなか木造の曲面構造屋根を京都帝大構内にて制作し、さらに「陸軍関係の建物に2、3実施された」そう。わたしのふにゃふにゃした文章よりも、下記の本人論考のほうが具体的かつ技術的に紹介されています。

さらに戦時下の実験的試みは続きます。非常事態ゆえ、いろんな注文が舞い込んだそう。「戦時敵前上陸に備へて山中に民衆を収容するという茅小屋の計画を指示された」こともあったそう(「随想」1947年、p.36)。「シャーレ昔話」によれば「戦時中のシャーレの思出には、このほか大阪府庁前の地下防空壕の屋根に、竹と泥でHPシャーレを作ったこと、第3岡崎海軍航空隊で竹の籠網掩体を作った」とのこと。後者については「建築雑誌」1946年4月号掲載の論考「急速施工曲版構造」に簡単な図が掲載されています(図1)。

毛糸網式構造

図1 籠網掩体(「急速施工曲版構造」より)

そして前者については、当時刊行された「アサヒグラフ」1945年3月21日号にて大々的に取り上げられています。こんなかんじ(図2・3)。

外観1

図2 外観(「戦ふ住宅・半地下式家屋」より)

外観2

図3 外観(「戦ふ住宅・半地下式家屋」より)

不思議な屋根のカタチは「双曲楕円曲版式構造=パラボリック・ハイパボロイド」。下地は竹、表面は粘土の「たたき」で仕上げられています。この建物を紹介する記事「戦ふ住宅・半地下式家屋」の出だしは次のようにはじまります。

残忍酷薄な敵の都市無差別攻撃を前にして、われわれの住生活も全面的に切り換えられねばならぬ。地下式生活である。横穴式防空壕を至る所にはりめぐらして、そこに新しい「生活」を創造せねばならぬ。そこに至る段階として、大阪府施設課の提唱する「戦時半地下式住宅」を研究してみよう。
(「戦ふ住宅・半地下式家屋」、1945年)

応急復旧住宅とはいえ、バラックでは心許なく、かといって鉄筋コンクリート造は夢のまた夢。防空壕も避難所にはなっても生活の場には厳しい。そこでおすすめするのが「半地下式家屋」。建坪27.5㎡、棟高地上1.8m、床深地下0.8m、天井高も最高で2.5mという代物(図4)。

断面図

図4 断面図(「戦ふ住宅・半地下式家屋」より)

「その屋根面が写真で見るように、双曲面楕円曲版構造(京都帝大教授坂静雄工博の考案による)になっている」のがミソ。その特色を記事では以下のように謳います。

(一)直撃弾には耐え得ぬとしても、半地下室であるから、爆風並びに弾片の作用に対しては十分耐え得る。
(二)露出した屋根面は竹を下地に、叩き土塗りであるから、不燃性である。
(三)採光、換気が十分であり、最も危ぶまれる夏季の衛生状態も、別表の示すやうに良好である。
(四)小屋組を要しないから、室内屋根面まで有効に利用出来、従つて資材、労力を節約し得る。
(「戦ふ住宅・半地下式家屋」、1945年)

たしかに内観写真を見ると、外見から想像される穴倉感はそんなにしません(図4)。

内観1

図4 内観(「戦ふ住宅・半地下式家屋」より)

ちなみに建設後は、大阪府庁前の警察官宿直所として利用されたそう。記事「戦ふ住宅・半地下式家屋」にも、実際にお巡りさんたちが談笑する写真が掲載されています。ただ、この『アサヒグラフ』が発売となった時には、第1回目の大阪大空襲によって死者3,987名、行方不明者678名にのぼった惨劇が起きていました。さらに6月から8月(14日!)にかけて、大阪は合計8回にわたる大空襲に見舞われることになるのでした(図5)。

内観2

図5 内観(「戦ふ住宅・半地下式家屋」より)

そして敗戦。坂静雄は自宅の庭を菜園にして、無いない尽くしの敗戦直後を生きていきます。

戦時戦後の食糧事情の逼迫から庭木は一木を余さず伐り倒し家庭菜園を作つて今日に至つている。広くはない土地で然も条件の悪い市中で収穫をあげる為に農事に働く時間は講義時間より遥かに多い。然し作物を育成することは中々愉快である。必要な手入れを怠らず適度の肥料を施せば天の恵みであとは自然に育つて成果が得られる。学生の指導もこれによく似ている。
(坂静雄「随想」1947年、p.35)

やむをえず木造で実験的につくられたシェル構造の知見は、戦後の復興、高度成長のなかで鉄筋コンクリート造の新たな表現として実現していきます。あわせて、後進の育成にも邁進していったのでした。戦災復興住宅で多様されたコンクリートブロック造住宅を、坂静雄も模索したのだそう。名付けて「Z型ブロック」(西澤英和「Z型ブロック工法を巡って」2010年)。この型枠ブロック工法は、短期間で頓挫したようだけれども、そんなたくさんの消えていったアイデアと実践も連なる延長線上に、いまの建築技術がある。最先端の構造技術を武器に現代建築を手がけつつ、同時に、法隆寺金堂などの古社寺の構造にも関与していった坂静雄。研究室という家庭菜園で育った弟子たちがその活動をさらに広範に展開させていったのです。

戦争は酷く悲しい出来事をもたらすことは言うまでもありません。そして戦争によって建築の発展が著しく阻害されたのも事実です。ただ、不幸な時代にあっても、そんな状況下にもかかわらず建築創造の可能性を模索した人たちがいた。そして、不自由な与条件が意外な発想を促したり、新技術を試みるキッカケになり、戦後復興の種となったケースが多々みられるのもまた事実なのでした。

(おわり)

参考文献
・坂静雄「木造曲面屋根の一試案」、建築雑誌、建築学会、1941年10月号、pp.131-137
・無記名「戦ふ住宅・半地下式家屋」、アサヒグラフ、朝日新聞社、1945年3月21日号、pp.6-7
・坂静雄「随想」、建築雑誌、日本建築学会、1947年12月号、pp.35-36
・坂静雄「シャーレ昔話」、季刊カラム、13号、新日本製鉄株式会社、1965年、p.55
・坂静雄・藤森照信「初期の鉄筋コンクリート構造」、建築雑誌、日本建築学会、1986年12月号、pp.5-8
・西澤英和「Z型ブロック工法を巡って:坂静雄博士の試み」、建築雑誌、日本建築学会、2010年2月、p.32


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