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延藤安弘『まち再生の術語集』を読む|今和次郎から西山夘三、そして延藤安弘へ


縁側という方法

建築学者であり生活学の提唱者でもあった今和次郎(1888-1973)は太平洋戦争で焦土と化した日本を復興すべく、敗戦直後の1945年に著書『住生活』を出版しました。

表紙には民家の縁側で談笑する家人とご近所さんが描かれています。

今は、同書において復興日本のあるべき住生活モデルを「縁側社交」として提案しています。これまでの都市生活では別々になっていた「事務的な社交」と「親密な社交」が自然と混ざり合い、格式にとらわれない健康な住まいを実現するのが「縁側」だと説いています。あたかも、家の内でもあり外でもある生活空間の計画に日本の未来を託すかのように。

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翻って現在の社会状況を見てみると、人的にも空間的にも社会的にも閉塞感が漂い問題は山積しています。その解決へ向け議論が交わされてはいるけれど、住民・行政・専門家はそれぞれの主張と要求を声高に叫ぶばかりで一向に光は見えてきません。

わたしたちが生きるこのまちの再生へ向けて、いろんな対立や山積する問題をどう乗り越えていくか。その鍵は私たちひとりひとりの心のもち方、心の習慣にあると説くのが、ここで紹介する延藤安弘(1940-2018)著『まち再生の術語集』(2013)です。

この本は合計で44のキーワードが4つの章に分けて構成され、各章それぞれに「楽しさと遊び」、「つぶやきをかたちに」、「知恵の育み合い」、「トラブルをドラマに」と題されています。

この本を読み解くための補助線をいくつか挙げるとするなら、そのうちの一つが「縁側」という言葉では中廊下と思います。その証拠に著者が代表をつとめていたNPO法人は「まちの縁側育み隊」といいます。

「まちの縁側」はコミュニティの回復・再創造のキーワードとしてとらえられ、ヒト・モノ・コトのつながりを紡ぎ、つながりから生まれる感動表現の場、状況を緩やかに変える発想力やイメージを喚起する場として位置づけられます。

隠喩としての縁側はヒト・モノ・コトを“つなぐ”場として機能する。そして、そこに復興日本への可能性が立ち現れるのです。

異質なものをつなぐこと。白でもあり黒でもあるグレーな状況を跳躍台とする、いわば「方法としての縁側」が折り合うことのない主張や解消しえない対立をゆっくりと解きほぐしていきます。 

どうして「物語り」なのか 

住民と行政の対立や専門家の無理解。そうした状況を打開すべく導入されるワークショップも行政側の単なるアリバイづくりであったり、住民側の団体交渉の場と化したりします。

埋めがたい両者の隔たりを橋渡しする「状況を開く活性化の仕掛け」を著者は「ワクワクする、そしてリーズナブルな(理にかなった)仕掛け」と表現します。

「『驚き』や『笑い』というワクワク状況が人々の感性をひらき、リーズナブルに筋道立てて状況をつくり変える創造力・再生力をもたらす」と。その具体的なアイデアを内発的に促す四四の言葉がまとめられたのが本書なのです。

著者は「現実にまちの状況を具体的に変える生彩あるプロセスを起動し持続させるためには、人々の参加をひきだす物語り的な力と、論理的な力が動かしあう仕掛けが必要」とのべ、特に本書は前者に注目した内容だといいます。

人が語りつづけ、偶発性に溢れた(=作為的な“物語”とは違う)“物語り“に重きを置く著者のスタンスは、白黒の区別を旨とする「論理的な力」では記述できない世界。

では、異質なものをつなぐグレーなスタンスはどのようにして形成されたのでしょうか。

1940年生まれの著者は京都大学大学院で建築学者・西山夘三(1911-1994)に師事し、大学院修了後は、西山の後継者・巽和夫(1929-2012)研究室の助手をつとめました。

当時急成長を遂げていた住宅産業のリサーチに基づく住宅供給の研究を進め、学位論文『都市住宅供給に関する計画的研究』(1976)をまとめます。いってみれば、それは「論理的な力」に依ったものです。

そんな学術研究のスタンスに変化が表れるのは学位取得後のハウジング・ミニ開発やコーポラティブ住宅・住教育に関する研究を進めはじめた頃と思われます。

「あじろぎ横丁」や「ユーコート」の企画・実践を経て論文「コーポラティブ住宅の計画研究としての方法的位置づけ:ユーコートの特質とその計画原理(Ⅰ)」(1989)を宣言文とするかのように、以後、「人々の参加をひきだす物語り的な力」の探究へと向かっていきました。

「論理的な力」の学術研究に心血を注ぎ、その知見を武器に住環境改善の現場へ飛び込んだ著者が直面したのは、「自分たちのまちは自分たちで守り育もう」という気持ちがなければ、どんな立派な制度も手法も持続しないという気づきだったに違いありません。

論理からオープンエンドな物語りへの移行は、言い換えるなら、工学知から文学魂への舵切りを意味する。それを象徴するかのように、巽研究室が蓄積してきた研究成果が巽和夫編『行政建築家の構想』(1989)として結実した翌年、著者による『まちづくり読本-「こんな町に住みたいナ」』(1990)が上梓されます。

安らけく聞こしめせ ――“言祝ぎ”の術語集 

状況をイキイキとした状態で捉えるべく、著者は楽しさ・喜びを重視します。一人ひとりの内側からエネルギーを噴出させ、閉塞した現実を変えていく仕掛けがそこにはあるのです。

「客観的に困難な状況を、まず主観的・主体的に変えていく力を育むのは、自由な発想と楽しい体験」と説き、楽しさ・喜びを喚起する笑いに着目する。

著者はいいます。「住民たちの心が開かれ、能動的な対話へと向かうには、ユーモアやアイロニーという、人々の楽しい心を作動させる物語り」が重要で、「創造は笑いとともにはじまり、歓喜によって成就します。笑いと創造が、それぞれが内に閉じていた自己を外へと開きます」。

たしかに、本書には著者自身によるユーモアあふれる造語が溢れ、笑いや歓喜へ向けて軽快な関西弁やダジャレが行き交っています。

そうした言葉を縦横無尽に使って、著者はまち育て・まち再生の現場をポジティブに捉え、そして讃えていく。「『私はできる』というポジティブな活動志向」や「『世界はいいナ』という肯定的な共感志向」の育みは、まさに世界への“言祝ぎ”から沸き上がってくるのです。

44の術語で構成された本書は、出来事に垣間見える良質な可能性の萌芽を言祝ぐために新規の造語を作り続けてきた著者の姿勢を最もダイレクトに顕わした形式と言えましょう。

それは分析的知性や論理的思考からすれば、もはや詩や歌であって学問ではないととらえられかねない(このスタンスは折口信夫の学問とよく似ている)。ましてや著者は工学畑出身。しかし、「自分たちのまちは自分たちで守り育もう」という心なくして生活空間計画に未来は無い。そう確信した著者にとって本書の形式は必然であったはず。

各術語間をつなぐかのように、岩波新書としては前代未聞のパラパラ漫画が附されているのも、著者が試行してきた生活者が主語となる“物語り”的計画学の性格をよくあらわしています。

拡がる心と可能性の星座へ

著者が用いるプレゼンテーション手法に「幻燈会」があります。2台のスライドを用いて絵本の一場面やまちづくりの現場の様子を映し出すことで、「ひとりの心に幻をひろげ、別のひとりの心に燈をともす」。

幻燈会で紡がれた数多くの物語りは、術語の無限の組み合わせで構成され増殖・展開し、2台のスライドは、見る人が自然とつながりを読みとり、絵と絵をたどるよう導きます。

ところで本書の冒頭には、44の術語が「まち再生の術語の星座」として可視化されています。星に見立てられた術語は星座を形づくり、その意味をたどる物語りが紡がれる。いわば幻燈会の基本構造が本になったかのように、個々の術語はわたしたちがみえない線をたどる=物語ることで「星座」となり輝きだすのです。

私たち自身が私たち自身の思考・働きかけによってイキイキと光り輝く。これこそが「まち再生」であり、この本はわたしたちが「自分の生きる現場から状況を変えることを楽しむ」という、まさに自身の可能性を拡張する“物語り”へ誘う入門書であり、それと同時に旧来の計画を乗り越える“計画”の学術書でもあるのです。閉塞感漂う現代社会に投じられたコミュニティビタミンをぜひとも味わってほしいナ。 

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ところで、冒頭に掲げた今和次郎の『住生活』に惜しみない賛辞を贈ったのは誰であろう西山夘三でした。

西山は『今和次郎集〈第五巻〉生活学』(1971)に寄せた解説のなかで自分自身を今の「ニワカ弟子」と評し、自分たちが今の生活学を継承するためには、「どのような視点から、どのような問題意識をもってそれに取り組むべきか」が重要だと説きました。

それは「何をやりたいのか」「何をめざすのか」を現場に問い続ける著者の姿勢そのものではないでしょうか。日本再生の精神は脈々と受け継がれています。

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