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たいやきの反抗、どらやきの覚醒|1970年代と2010年代のあいだ

原則、車中は子ども向けの音楽が無限再生されるのですが、そのなかの一つ、Eテレ「おかあさんといっしょ」のベストCDに「どんがらどんどんどらやき!」(2014)なる曲が入っています。

どらやきが辿る波瀾万丈を歌ったこの曲。おっさんとしては、「およげ!たいやきくん」(1975)を思い出さざるを得ません。

主人公はともに粉物の菓子。しかも両曲ともに鉄板あるいはお皿の上を飛び出して大冒険の末に、人間に食べられて終わる。「どんがらどんどんどらやき!」の展開が「およげ!たいやきくん」にソックリなのは、両者の関係がオマージュ、あるいは翻案だからでは中廊下、と。

そう思うと、1970年代から2010年代という40年の歳月を隔て、そこにはどんな差異が観察できるのか気になってきます。なんともカングリー精神を刺激してやまないテーマですよね!

1975年、およげ!たいやきくん

「およげ!たいやきくん」は1975年に「ひらけ!ポンキッキ」のオリジナル曲として発表され、またたくまに大ヒットとなりました(図1)。

図1 およげ!たいやきくん

高田ひろお作詞、佐瀬寿一作曲、そして歌はいうまでもなく子門真人で記録的ヒットを記録し、各種の賞も受賞した名曲。

まいにち まいにち ぼくらはてっぱんの
うえで やかれて いやになっちゃうよ
あるあさ ぼくは みせのおじさんと
けんかして うみに にげこんだのさ
(「およげ!たいやきくん」1975)

1968-69年の全共闘運動から1970年の大阪万博、1973年の第一次オイルショックといった時代背景を考えると、主人公である“たいやき”は、資本主義(=たいやき屋のオヤジ)の搾取に否を唱え学生運動に身を投じながらも、運動の失速と混迷を受けて授業復帰、そして一流企業(=釣り師のオヤジ)へ就職した学生たちがモデルなのは容易に想像できます。

毎日鉄板で焼かれるのは「僕ら」であって「僕」ではない。そんな「たいやき」は、店主に対して「異議あり!ナンセーンス!」とばかりに海に飛び込みます。“たいやき”の胸中はきっと、「連帯を求めて孤立を恐れず」だったことでしょう。

はじめて およいだ うみのそこ
とっても きもちが いいもんだ
おなかの あんこが おもいけど
うみは ひろいぜ こころがはずむ
ももいろさんごが てをふって
ぼくの およぎを ながめていたよ
(「およげ!たいやきくん」1975)

全学バリケード封鎖、大学機能が停止した景色は、はじめて自らの手で世界を変えることができたという全能感をもたらしたことでしょう。気持ちよく、心も弾む。皆が応援してくれているようにも錯覚します。

でも、お腹のアンコの重さは感じて、たいやきはもはや鯛としては生きられないことも分かっているのです。

そうやって思うと、住み処としての難破船、ときどきいじめるサメ、空腹との戦いなどなど、すべてが学生運動との関連のもとに読み取ってしまって、聞き流すことができなくなってしまいます。

さて、この“たいやき”は、実のところ鯛とは全くの別物だという残酷な現実を最後まで知ることはありません。それゆえなのか、楽曲は子ども向けであるにもかかわらず、終始一貫して厭世(=鉄板の上で焼かれてイヤになっちゃうよ)と諦念(=やっぱり僕は“たいやき”さ)に彩られています。

「力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」。その信念をもっても、喉からとれない釣針から逃れる力とはならず、また、その信念ゆえに、見知らぬオジサンに食べられる末路を辿るのでした。

2014年、どんがらどんどんどらやき!

それから約40年の歳月を経て発表されたのが「どんがらどんどんどらやき!」(濱田理恵作詞・作曲、2014)です(図2)。

図2 どんがらどんどんどらやき!

この曲は「およげ!たいやきくん」に類似した展開が認められつつも、お皿からの転落(=冒険への出発)に“たいやき”のような「連帯を求めて孤立を恐れず」といった自由意志は感じられません。

どんがらどんどん どらやき!
どんがらどんどん どらやき!

まんまる フワフワ いいにおい
おなかに じまんの あまーいアンコ
ぴょんぴょん どらどら どんがらぴょん
おさらのうえから とびだした

ころがって ころがって ころがったさきは
どらのせかいだ どらだらけ~
(「どんがらどんどんどらやき!」2014)

楽曲もテンポの良いダジャレ・語呂合わせ(どらねこ、ドラキュラ、銅鑼、ドラゴンなどのドラ尽くし)で展開していき、そこに厭世や諦念は一切感じられません。

そのある種の不気味な「明るさ」を象徴するのは、“たいやき”にとっての搾取と宿命の刻印であった「アンコ」は、“どらやき”においては「自慢」という自己肯定感に満たされているのです。

“たいやき”の最期が、喉から取れない釣針の苦痛とともに釣り上げられます。“どらやき”はどうでしょう。「どんがらどんどんどらやき!」はドタバタの展開が続きます。

どらねこ ニャーッときた かじられちゃうぞ!
ひらいゴンドラとびのれば
まってましたと ドラキュラじーさん
おどらにゃそんそん おどらにゃそん
それ!ドラムかんのおでましだ
ドンガラドッシャンシャン
「うわ~!にげろ~!」
(「どんがらどんどんどらやき!」2014)

もはや意味不明な展開です。ダジャレ・語呂合わせに溢れながら辿り着いた先には超越神であるドラゴンが待っています。

ドラゴンさまのいうことにゃ
ほらみてごらん おまえだけのみちを
あるいてゆくのさ おつきさまぴっかぴか
おいらもぴっかぴか

たどりついたのは もといたおさら
ちいさなてのひら おいらをつつんで
ぱくりとひとくち ほおばった
「おいしいね!」
(「どんがらどんどんどらやき!」2014)

「おまえだけのみち」というキャリア・デザイン文脈的な自己実現は、その場も自らも「ぴっかぴか」に輝いていた覚醒として描かれます。自由意志が全く感じられないほどのドタバタ劇の末に辿り着いた境地は、もやは宗教的なビジョンで彩られているようです。

民主党政権を経験し、そして、東日本大震災後につくられたこの曲は、大きな価値観の転換が刻印されているようにも思えます。食卓へと召還された“どらやき”。そこで待ち構える小さな子ども(=イノセントさにおいて“たいやき”を食べた見知らぬオヤジと対比される)に食べられておわる歌詞。それが天命であったかのように。

たいやきとどらやきの間

「およげたいやきくん!」と「どんがらどんどんどらやき!」。このふたつの曲には、1970年代と2010年代の差異が明確に示されているかと思います。ドラマの発端も、一方は鉄板の上から、もう一方はお皿の上から飛び出すことから始まりますが、“たいやき”にみられるリスクを伴った自由意志は、“どらやき”には全く見られません。

また、両者が飛び出した後に体験する世界も、“たいやき”は理想と現実、希望と焦燥の狭間で苦悩するのに対して、“どらやき”は自由意志に基づかないがゆえ、希望も苦悩もないようにみえます。というか、そもそも物語の展開は因果関係ではなく語呂合わせでつながっているゆえ、当然ともいえます。

このあたりの両者の違いは、曲名である「およげ!たいやきくん」、「どんがらどんどんどらやき!」にも表れているように思えます。双方とも「!」がついていますが、前者にただよう命令、あるいは使命感は、後者にはありません。

イデオロギーにまみれたドロ沼の抵抗ではなく、スピリチュアルな雰囲気に包まれた受け身の姿勢が歌われる時代なのだと。たしかにそのほうが生きやすい時代でもあるし、生きやすさを選ばないとシンドイ時代でもある。

ちなみに、“どらやき”から2年後の2016年6月には「おかあさんといっしょ・こんげつのうた」に「おしゃれフルーツ」(日暮真三作詞・渋谷毅作曲、2016)が放映されています。

まっかなリンゴはなぜあかい
ことりにみつけてほしいから
まっかなイチゴはなぜあかい
ことりにたべてほしいから
まっかなサクランボ
たくさんたべて
たねをはこんでくださいな
ほら かわいいめがでたよ
(「おしゃれフルーツ」2016)

日暮&渋谷というゴールデン・コンビが贈るこの歌の内容は、いわゆる「被食動物散布」をモチーフにしたものです。

特に日暮が作詞家であるとともに、コピーライターでもあり、あの「自然はおいしい」(農協牛乳)や「植物のチカラ」(日清オイリオ)、そして「情報が人間を熱くする」(リクルート)や「結婚すると、女は自由になる」(西武百貨店)を生み出した人物だと思うと、腹落ち半端ない。

果肉を動物に食べさせることで、種子を糞と一緒に散布してもらう生存戦略を歌にしています。そう、搾取される運命すら生きるためにインプットされている。

その歌詞は、社会主義革命へのロマンを伴う自由意志の行使(=たいやき)、スピリチュアルな啓示に基づく運命の受容(=どらやき)から一歩進み、ロマンもスピリチュアルもない冷めた(あるいは醒めた)地平が垣間見えているように思えてきます。

わたしたちは何のために生きるのか。いろいろ考えさせられる車中のBGMなのでした。

(おわり)

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