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「家庭」写真の写し方/近代「家族」のつくり方|1950年代写真マニュアル本を読む

写真はまったくの門外漢で、スマホ撮影のみな日常ですが、ひょんなことから「家庭写真」本をコツコツ収集することに。その動機はというと至って月並みでドラマ「岸辺のアルバム」(1977年)から。「マイホーム」の歪みがクローズアップされた1970年代。水害が「夢」と「拘り」をあぶりだします。妻・則子が夫に投げつける叫び。「綺麗事のアルバムとこの家だけが大事なんだわ」。

綺麗事のアルバム

1974年9月1日、台風16号にともなう豪雨によって多摩川が氾濫。狛江市周辺の堤防が決壊し、隣接する住宅19戸が流出する惨事がおきました。前日夜から住民は避難していたことから死傷者はひとりもいなかったものの、次々と濁流に飲まれるマイホームがテレビで中継されたことから、ひとびとに強い印象を与えたといいます。

被災した19戸の住民の証言に刺激をうけて制作されたのが、ドラマ「岸辺のアルバム」です。山田太一は住民たちが家を失ったことのみならず、家族のアルバムが失われたのを悲嘆したと知り、このドラマを着想したのだそう。原作小説を1976年から翌77年にかけて新聞連載し、それをもとに1977年にドラマ放映されました。

アルバムを失った悲しみ。たしかに、被災まもなく発行された『週刊朝日』1974年9月20日号には、「流出17家族『生活設計』の明暗」と題して被災世帯にアンケートを実施しており(今の感覚だとすごい企画ですが)、「あきらめ切れぬ流出物」としてピアノや位牌のほか、17戸中6戸が「アルバム」を挙げています。

「あきらめ切れぬ流出物」への回答には「家」もみられますが3件どまり。「先祖の位牌」という回答が1戸のみで「アルバム」を大きく下回ることが、戦後住宅とはなにかを逆照射するようで興味深くもあります。そして「家」よりも「アルバム」が挙げられるのは、前者が再建できるのに対して、後者はそうではないのが理由のひとつでしょう。

やはり山田太一も、作中で夫・田島謙作にこう言わせています。「通帳などはいくらだって再発行出来るんだ。アルバムはそうはいかない」。そしてそんな謙作に対して、妻・則子はこう言います。「あなたはアルバムを大事だといったわね。アルバムは大事でも、本当の繁や律子や私は大事じゃないんだわ。あの綺麗事のアルバムとこの家だけが大事なんだわ」と。

家族が「家族」である証として「アルバム」。「アルバム」のなかにかろうじてつなぎとめられている「家族」。「アルバム」に執着する謙作を非難した則子ですが、いよいよ倒壊かという場面になって、息子・繁にアルバムを持ち出すようたのみます。「全部は無理でも、みんなの小さい頃のを何冊か欲しいわ」。この優先順位も「アルバム」の意味を示すもの。

第一次オイルショックの翌年に発生した多摩川水害。1977年にドラマ放映されますが、これはNHKドラマ「となりの芝生」放送の翌年でもあります。

「マイホーム」という住宅像が大きく転換していった1970年代なかばに位置する「岸辺のアルバム」は、多摩川に血と汗と涙の結晶である「わが家」が飲み込まれていった悲劇をドラマ化したのではなく、「わが家」の喪失前にすでに「マイホーム」という理想像が失調していた事実を描いたものです。田島家にとって「アルバム」は「綺麗事」かもしれないけれども、再出発にあたっての掛け金にもなるものでした。

「アルバムは嬉しかった」 そういった。則子はうなずく。

山田太一『岸辺のアルバム』

現実世界の被災世帯もまた、再出発へ向けてつらい日々を過ごすことになりました。1976年、被災者30世帯は国を相手に総額4億1000万円の賠償を求め提訴します。紆余曲折を経て、住民側の勝訴で裁判が終結したのは1992年。災害が発生してから18年後のことです。住宅ローンの二重払いを背負いながら「マイホーム」を再建したのでした。

アルバムづくりのはじまり

「家庭」を築き「マイホーム」を持つことが次第に自己目的化していることが強く自覚されるようになった1970年代、その「家庭」の象徴として捉えられたのが「家族のアルバム」でした。「家庭」をつくることは「アルバム」をつくることと等価になる。この「家族のアルバム」をつくる行為自体も、戦後のもろもろの〈大衆化〉の一環では中廊下とさえ思えます。

とりあえず「家庭写真」なるジャンルがあるわけで、書名に「家庭写真」を掲げる本を悉皆的に収集してみました。該当するのは以下の7冊。

石津良介『家庭写真の写し方』アルス、1940年
村井竜一『楽しい家庭写真の写し方』双芸社、1952年
山田広次『家庭写真の写し方』アルス、1952年
増田松樹『家庭写真十二ヵ月』玄光社、1953年
アルス編『楽しい家庭写真:アルス写真講座3』アルス、1954年
山田謹治郎『家庭写真の写し方』田中書店、1957年
朝日新聞社編『新アサヒカメラ教室 別巻・家庭写真』朝日新聞社、1963年

書名ではなく目次に「家庭写真」がみられるものまで含めると破産するので我慢。出版年は一冊は1940年ですが、あとは1950年代に集中し、1963年版の『新アサヒカメラ教室』シリーズに、これまでは「人物写真」などに言及があった程度の「家庭写真」の巻が別巻として追加されます。

あと写真雑誌で「家庭写真」特集号みたいなのもあります。「光画月刊」1950年11月号「家庭写真の新技」特集、「別冊CAMERA」第6集、1950年「ホームポートレート:家庭写真の写し方」、「カメラ朝日」1959年1月号「記念写真と家庭写真」特集。これもやはり1950年代に集中。

「光画月刊」1950年11月号

家庭で気軽に写真撮影する文化が大衆化したのは1950年代から60年代といわれます。二眼レフ・ブームをおこした「リコーフレックスⅢ」は大量生産により従来価格の4分の1で発売され、大衆化が一気に進んだといいます。なるほど「家庭写真」本の出版ラッシュはそこからか。

1940年にアルスから出版された石津良介(石津謙介の兄)による『家庭写真の写し方』は、まだ比較的豊かな家庭に許されたたしなみとしての写真撮影を指南したもので、いわば「あこがれ」の対象として位置づけられるでしょう。

石津良介『家庭写真の写し方』1940年

1950年代になると「家庭写真」本出版ラッシュとなります。村井竜一『楽しい家庭写真の写し方』では、わが家の内外や家族、そして庭の草木やペットなど愛情を注ぐ対象を時間の集積含めてまるっと記録しておきたい「欲望」が語られます。その考え方や撮影方法、さらには「家族の財産」としてのアルバムづくりについて指南する一冊です。

村井竜一『楽しい家庭写真の写し方』1952年

「家庭写真」とは「生活的な感情、家族的な人間味」を重視するものと説くのが山田広次『家庭写真の写し方』。山田自身が撮影した写真の丁寧な解題といった構成になっています。「もう一度、私たちの家庭なり家族なりを、カメラをもつて振返つてみようではありませんか」と。

山田広次『家庭写真の写し方』1952年

増田松樹『家庭写真十二ヵ月』は、一年間を通して各月の行事にめくばせしたガイドブックになっています。わが家の内や外、学校や旅行先などを舞台にカメラの撮影技術と家族への愛情の向け方が語られます。

増田松樹『家庭写真十二ヵ月』1953年

山田謹治郎『家庭写真の写し方』が類書と大きく異なるのが読者(男性を想定)が独身サラリーマン時代から社内恋愛、結婚式、新婚生活、子育て、子の進学といったライフステージに沿って構成されていることです。「家庭写真」が「近代家族」の物語であることを改めて認識させられる一冊といえるでしょう。

山田謹治郎『家庭写真の写し方』1957年

『楽しい家庭写真:アルス写真講座3』は、家庭写真を楽しむをテーマとしたこの巻は「我が家」の内外で「妻子」を撮るためのノウハウからアルバムの作り方まで丁寧にまとめられています。写真を撮るのは「夫」です。

アルス『楽しい家庭写真:アルス写真講座3』1954年

一方で、1960年代に入っての『新アサヒカメラ教室 別巻・家庭写真』では、冒頭から「ママの写真術」とあるように家庭のなにげないシーンを撮影する、そして撮影された写真のアルバム化作業を担う主体として「妻」が想定されています。いわば手料理をふるまうように写真を撮る。

『新アサヒカメラ教室・別巻 家庭写真』1963年

山一證券が発刊していた『月刊M.I.』に毎号掲載されていた裏表紙の広告シリーズに次のような文言がでてきます。

“妻と子”にカメラを向けていると、私にも家庭が、ささやかながら一家があるということが身に沁みて嬉しくなる。それだけではない。この家庭も自分の肩に―と思うと、いささか責任も感じてくる。

(山一證券広告、1961年)

夫が妻子を撮るという構図がここにもみられるのですが、1963年の「ママの写真術」ではその構図が崩れています。カメラ=機械が男性とひもづけられた状況がどう変化していったのか気になるところです。

「位牌」から「アルバム」へ

ところで、『岸辺のアルバム』では流されゆく「マイホーム」から救出すべき貴重品として「家族のアルバム」あらため「綺麗事のアルバム」が登場するわけですが、これは戦前であればきっと「位牌」だったことでしょう。勇み足で言い換えると、近代家族にとっての「位牌」が「アルバム」だということ。

柳田國男『明治大正史:世相篇』に出てくる門司で保護された老人の話。「傘一本も持たずにとぼとぼと町を歩いていた。…荷物とては背に負うた風呂敷包みの中に、ただ四十五枚の位牌があるばかりだった」。最小限の「家」としての位牌。「位牌」のない「マイホーム」はその位置を「アルバム」が占める。

「位牌」と「アルバム」。『岸辺のアルバム』放映の翌1978年に兵庫県小野市で起き、日本社会に衝撃を与えた一家五人心中事件を思い出させます。過重な住宅ローンを苦にHさん夫妻と子ども3人の一家が命を絶った永大ハウスの1階6畳間は、きれいに片付けられていたといいます。部屋の隅には「家庭写真」を綴った「アルバム」が全部積み上げられていたとのこと。位牌を拝むようにアルバムを眺め命を絶ったのかと思うと涙せずにはいられません。

家族をつなぎ、家族を支え、幸せを確認した「家族のアルバム」。「家庭写真」の「アルバムづくり」、そして「持ち家づくり」大衆化が進んだ1950年代から60年代をすぎると、むしろそれが過大な重みとして人々に重く圧し掛かったのかもしれません。一家心中がおきた翌1979年、建築学者・早川和男は『住宅貧乏物語』(岩波新書)を出版し、日本の住宅政策の欠陥を強く非難することになります。

そして時代は流れ流れて令和の時代に。そんな2023年8月に、こども家庭庁(この名称もまたすごいですが)が「こどもまんなか『家族の日』写真コンクール」の募集をはじめました。「家族」という枠組みが失調していく状況を受けて、そこから零れ落ちてしまうこどもたちに救いの手をさしのべる省庁かと思いきや、むしろ「家庭写真」の亡霊をふたたび令和に召喚するコンクールを大真面目に展開する。驚きと同時に「やっぱりそうなのか…」と思う自分がいます。

そんな状況下だからこそ、「家族のアルバム」大衆化のいわば初発の志が書き留められた1950年代「家庭写真」本の世界をじっくり読み直してみたいと思います。そうすることで「マイホーム」や「家族」のあゆみとこれから、そしてありえたかもしれない可能性の萌芽が見いだせるのではと思うのです。

(おわり)

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