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お刺身とクレーム

もうかれこれ30年以上も前の話なのですが、うちの祖母が地元・伊勢志摩の観光旅館で仲居さんをやってた頃、宿泊客のクレーム対応をした話をしてくれました。

お帰りの際、お客さまから抗議とまではいかないまでも、お小言をいただいたそう。その内容とは「楽しみにしていたお刺身が固くて残念だった」というもの。

魚はさばいたすぐは身が堅い。新鮮な魚介類をウリにする観光旅館では、そんな堅いお刺身を出すことが、いわば自慢なのでした。祖母は「新鮮なお刺身は堅いんですよ」と説明したそう。

この話、小さな頃に聞いた当時は「鮮度がいい=堅い」を知らないお客さんからのクレームという、いわば「笑い話」に受け取りましたし、祖母自身もそういったニュアンスで語ったのですが、今思い返すとそれは違うよなぁ、と、ちょっとばかし複雑な思い。。。

「知らない」ことは体験の質を目減りさせる

これは30年ほど前に話を聞いたとき感じたこと。このお客さんは「活造り=鮮度がよい=身が堅い」という知識がなかったために、せっかくのご馳走を十全に体験することができませんでした。

やっぱり知識は大事だよなぁ。同じものを見て、同じものにふれて、同じものを食べたとしても、その体験の質は大いに異なる。

それどころか、自分の無知にまかせて旅館にクレームまで付けてしまった。「知らない」ことが、せっかくの体験の質を目減りさせたのでは中廊下、と。

体験の質を確保する対応が必要では

それから10年ほど経って、わたしは住宅営業の仕事に就きました。接遇の観点からものを考えることが強いられる日々にあって、この祖母の話を想い出しました。

そのお客さまは、「活造り=鮮度がよい=身が堅い」ということを知らないがために、せっかくの観光体験の質を目減りさせてしまった。そんなことがないように「よりよい体験の質確保」を施すのが、旅館側の、そして祖母の仕事では中廊下、と。

「お刺身の身が堅いんですけど、これって新鮮な魚である証拠なんですよ」とか「お醤油はほんの少しつけていただくのがおいしいですよ」といった対応の有無が、お客さまの体験の質を大きく左右するのだから。

実はお客さんは「知っていた」のかも

そんでもって、最近はまた別の可能性を考えるようになりました。持ち前のカングリー精神を発揮して、そのお客さまのことを考えると、別の可能性が見えてくるのです。

とりあえず「鮮度の良い刺身について知識の無い客」という設定を捨ててみてはどうか、と。だってそもそも「鮮度がよい」ことと「美味い」は必ずしもイコールではありません。半日ほど置いて食べるのが美味しいそう。

あのお客さまは、刺身を美味しく食べたかったのに「堅かった」と言ったのでは。ひょっとしたらこのお客さまは「堅い刺身をありがたく食いやがれ」という、いわば「活き造り」を頂点とする活魚幻想とでもいうべき有り難がり方を批判していたのかもしれません。

だとしても活魚幻想は淘汰されるべきか

実際、この手の観光地では、本質からはハズれてるんだけど、地の利を活かして「ここでしか体験できないこと」をアピールすることは多々ある。それゆえ、「堅い刺身をありがたく食いやがれ」が存在価値ナシなのかどうかは一概には言えないかな、と。

仮に、そのお客さまが活魚幻想批判をしたのだとしたら、当然に活魚料理が出てくるであろう観光旅館にわざわざ泊まって刺身食べなくてもええやん、という話でもあります。

ただ、提供する側としては活魚幻想に乗っかった上で「体験」を提供しているという自負というか余裕が欲しい。場合によっては「新鮮」か「熟成」かを選べるようにしてもいいのかも、とか思ったり。

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そんなわけで、ものの良し悪しに関する論評に接すると、この「刺身とクレーム」のエピソードが思い出されます。

(おわり) 

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