丹下_内田

みんなのコミュニティ、みんなの絆|戦時下の国民学校住区研究

わたしたちの日々の生活を取り巻く、仕事や家庭、住宅や都市といった問題は、一つの専門分野に閉じこもって解決できるものではありません。

一軒の家は、それ単体で完結して建っているわけではなくって、そこに住む家族や、その家族の生活を支える家計と深い関わりがありますし、一軒の家は、お隣さんやお向かいさん、さらには近所の学校や商店街とも関わりながら生活があります。

とはいえ、そんな関わりのなかで育まれるわたしたちの生活は、今さまざまな問題を抱えています。生活に関する学問はあれこれありますが、そんな学問の領域を横断して、より広い視野で解決策を探っていくことが、豊かなコミュニティを形成へ向けて、ますます大切になってきています。

そんな状況認識を踏まえ、「総合研究を要する諸問題」について領域横断的に英知を結集する団体が建ち上がりました。その団体とは「日本生活科学会」。いまから77年前、1941年のことです。

日本生活科学会・国民標準住宅分科会

アメリカとの戦争に突入する1941年、「戦時生活の科学化」を目的とした日本生活科学会が発足しました。会長には当時の厚生大臣・小泉親彦(1884-1945)が着任します。

学会員は、文学、法学、経済学、理学、工学、農学、医学などなどの学会を横断して結集。「総合研究を要する諸問題」について議論がなされました。

建築関連では、学会内に工学部門として「国民標準住宅分科会」が設置されます。委員長は建築界のボス・内田祥三(1885-1972)。でも、戦争の激化する一方で学会活動は停滞。敗戦とともに停止に至ったこともあり、その研究実態や戦後への展開について不明な点も多いです。

分科会メンバーは市浦健、伊東五郎、内田祥文、熊谷兼雄、今和次郎、坂倉準三、関野克、丹下健三、平山嵩、船越義房、星野昌一、吉田安三郎、渡辺要。1942 年4 月から1943 年6 月にかけて全15 回の分科会実施が記録されています。

東京都公文書館には、内田祥三が補完していた図書・資料類が「内田祥三文庫」として収められていて、日本生活科学会についても2冊のファイルが保管されています。

分科会第一回開催時の資料「国民標準住宅の研究」(1942.3)には、「大東亜戦争の完遂を期し我が国力の発展と、日本人が諸地域に於て活躍する為に標準住宅を設定しこれが建設に寄与することを以て目的とする」とあります。

この目的の達成へ向けて、現状調査(実状調査、統計資料)、科学的調査研究(日本精神と住宅の関係、標準住宅、標準住宅の規格設定)、住宅行政に関する研究(住宅法規、住宅の建設)の3つを軸に、小委員会が設けられました。

メンバーそれぞれ研究題目を定めました。住宅に関する既往研究の総合的調査から、住宅の規模・形式・間取り、大量建設方法、地区統制の法制、日照・日射、農村住宅、色彩計画などその内容は多岐にわたってます。

なかでも、若手の建築家・住宅研究の新鋭として学会に所属した内田祥文(1913-1946)と丹下健三(1913-2005)の二人は共同研究を計画(図1)。

図1 丹下健三と内田祥文

当時、海外から移入された「近隣住区理論」の日本版「国民学校住区」に関する研究を立ち上げたのです。ちなみに「国民学校住区」ってこんなの(図2)。

図2 内田祥文「国民学校住区」

国民学校住区研究:内田の担当

それでは、丹下と内田が共同して取り組んだ「国民学校住区」研究とはどんなものだったのでしょうか。

まずは、内田祥文の研究分担について、「「国民標準住宅に関する研究」の分担希望事項に就て」(1942.5) と「「わが国における国民学校校住区の研究および計画」の企画概要」(1942.6)から見てみましょう。

内田は「わが国諸都市の構成体の主体である国民の住居が、都市計画、地方計画、国土計画上の諸問題、あるいは防空的な見地より、はなはだしく不備であり、わが国家が大東亜共栄圏の確立に邁進するに当り著しく不合理」と指摘。「正しきわが国家観を基とし、現在までの諸研究、諸資料を総合し、現実の形として、標準国民住居を計画」するためのスタディを行いたいと述べています。

後日提出された「企画概要」ではもっと詳しく研究構成が示されます。ちょっと長ったらしいですが、問題関心の方向性・範囲が分かりますので以下に引用します。

Ⅰ編.住宅政策の意義とその既往対策の検討
 ⅰ.欧米における住宅問題とその対策
 ⅱ.我国における住宅問題とその対策
 ⅲ.既往住宅政策の批判
 ⅳ.我国における確固たる住宅政策確立の重要性
Ⅱ編.国民住宅建設方針確立の根本問題
 ⅰ.国民住宅に関する基本方針-其一
 ⅱ.国民住宅に関する基本方針-其二 国民住宅観の確立
Ⅲ編.国民住宅構成の基本研究
 ⅰ.国民住宅の対象とする人間
 ⅱ.国民住宅使用者の家族構成とその適正規模
 ⅲ.国民住宅生活者の生活の共同化の具体的限度
 ⅳ.持家借家に関する問題
 ⅴ.定住に関する問題
 ⅵ.国民住宅の規格統一 大量生産に関する問題
 ⅶ.建築地域の都市計画上の人口密度に応じたる技術的建方について
Ⅳ編.国民学校住区構成の基本研究
 ⅰ.国民学校住区構成の基本計画
 ⅱ.集団住宅の単位決定と其の発展
 ⅲ.国民学校住区と都市計画・地方計画・国土計画との関連
Ⅴ編.国民学校住区計画案作成
 ⅰ.大都市都心部に於ける国民学校住区の計画案作成
 ⅱ.大都市外周部あるいは中小都市における国民学校住区の計画案作成
 ⅲ.南方移民者のための国民学校住区の計画案作成

国民学校住区の計画案を作成するためのリサーチといったところでしょうか。内田の関心が都市設計にあったことがうかがえます。

国民学校住区研究:丹下の担当

それでは丹下健三の研究分担はどうでしょう。丹下は「「近隣単位の研究および計画」の企画概要」(1942.6)を提出しています。予定する研究期間は約2年。全5編にわたる計画です。

Ⅰ編.わが国の隣保生活の形成とその伝統
 ⅰ.古典の語る隣保生活の形成とその理想
 ⅱ.隣保生活の伝統とその批判的研究
 ⅲ.隣保生活の典型としての村落の構成
 附.ギリシヤ古代都市に於ける隣保生活
Ⅱ編.近隣単位の基本問題
 ⅰ.現代都市に於ける近隣単位の意義
 ⅱ.都市計画上に於ける近隣単位の意味
 ⅲ.近隣単位の種別
 ⅳ.結論-近隣単位の適正規模の研究
Ⅲ編.近隣単位の構成
 ⅰ.近隣単位に於ける家族生活とその『家』の在り方の研究
 ⅱ.近隣単位に於ける厚生生活とその施設の研究
 ⅲ.近隣単位に於ける公共生活とその施設の研究
 ⅳ.近隣単位に於ける消費生活と生活必需品配給機構の研究
Ⅳ編.国民住宅の研究-あるべき『家』の構想-
 ⅰ.国民住居の種別
 ⅱ.家族構成および定住状況または予想を考慮したる
   国民住居の適正規模の研究
 ⅲ.近隣単位的生活 即ち新厚生生活様式の樹立と
   国民住居の標準型の研究、など
Ⅴ編.近隣単位の計画案作製
   個々の国民住居および諸施設の計画を含む

住宅を集団で考えるということ

二人の共同研究計画は、学会消滅までの短い期間にどの程度すすめられ、その成果が日本生活科学会でどれだけ共有されたのかはナゾです。たぶん、学会内ではほとんどなされないまま終わったようにも受け取れます。

でも、そこで扱っている「国民標準住宅」という研究フレームは、当時の日本国内における研究トレンドとしても、国家的課題としても重要テーマだったわけで、上記のような内容があれこれと模索・検討されていたことは間違いないでしょう。

共同研究の内容は、当時最新トレンドだった都市計画理論「近隣住区理論」(コミュニティを支える小学校、教会、コミュニティセンター、公園等を一つの単位として構成)を、「国民学校住区」へと翻案し、古典的な隣保生活や地縁共同体との関連、都市計画・国土計画への展開も含め検討する内容でした。

それは、平たくいうと住宅を単体として考えるのではなく、集団として考える、しかも国土計画的な視点までもって。別の言い方をすると、建築家として都市計画する、みたいな。

ちなみに、国民(標準)住宅に関する二人の模索は、丹下であれば、戦後に提出した博士論文「大都市の地域構造と建築形態」(1959)に取り込まれていますし、内田であれば、東京都市改造計画案「新しき都市」(1941)や、雑誌『住宅』への連載「国民住宅研究」に波及しました。

さらにいえば、内田らが「国民学校住区」をベースに提案した「新しき都市」に触発されたて、後に丹下は「東京計画1960」(1961)を発表するに至ったのでした。

とはいえ、時代は戦時下。戦争は物事に隠れている本質をあぶりだしてくれます。そこで最後に、内田祥文が別の機会にまとめた「住宅を集団で考えるということ」に関する言葉をご紹介したいと思います。

それは内田が完成・発表まで至らなかった未定稿「建築集団の一体的計画」(1944)に書かれた1400字ほどの「前言」です。

そこで内田は「建築の個々をそれぞれ一個のもののみとして見ることを離れ、全体の中の一つとして建築を把握し、建築を構想し、建築を計画しよう」と言います。ここでいう「住宅を集団で考えるということ」です。

次いで内田は、近代の建築が個性偏重に陥っており、「わが国建築の伝統的精神たる、自然に融和した無理のない、奥床しい環境造成に矛盾し、対立し、そしてそれを破壊するものが少なくなかった」と指摘します。

「近代」が終焉しようとしている今こそ、日本の「同胞的親和の念」、「親和、合体の心」をもとにして、「現代我国の建築が、集団的に考慮せられ、しかもその集団が、一体のものなるべき」だと言うのです。

さらに。「文化の創造は常に回顧と同一であり、そこに新時代の創造が営まれる」、「肇國以来の一貫せる精神に基づく、伝統的発展こそ、わが国建築のまことの発展の姿」だとおっしゃる。

間違った個人主義が横行する西洋に対し、日本の伝統精神は自然と調和し、豊かなコミュニティを育くむ。日本こそが「住宅を集団で考えるということ」に秀でてるのだと。

最先端の計画理論を受容していること。そして、最先端の国際情勢を踏まえていること。このふたつが合流することで、近隣住区理論はじめ「住宅を集団で考える」という建築課題は、コミュニティを統合するための「絆」を欲望する。だからこそ、記紀神話的なナショナリズムへと昇華していったのでは中廊下と思うのです。

こうしたメカニズムから何を学ぶのか。単に「戦争中こんなことやってたんだゾ!」という摘発系のお話しに落とすのではあまりに皮相です。そうではなく、いま現在とは文脈が異なる戦時中という状況下において、当時においては極めて真摯な提案が、結果的にどう機能してしまったのかを見つめることの大切さを教えてくれる。そう思います。「そんなつもりじゃない」のにそんなものをまとわせてしまうことは、決して珍しいことではないわけで。

実は「国民学校住区」は近隣単位の中心には、国民学校と運動場、プール、そしてあともう一つ、西洋の教会からの翻案として神社が立地するのです(図3)。

図3 内田祥文「国民学校住区案」

郊外型住宅地の提案では、中心部に国旗掲揚所があり、個々の国民住宅のエントランス脇には大きく家紋があしらわれてたりも。それは戦時中という特殊な時間の刻印です。自然と調和した豊かなコミュニティ。みんなのコミュニティは、みんなの絆を欲します。いつの時代も。

(おわり)

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