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俗語としての「サイコパス」の危うさ

僕が小学生のとき、一部の児童の間で、知的障害者のことを「チテ」と呼ぶのが流行した。

「チテ」は、他の児童たちに向かって、相手をバカにする目的で使われた。侮蔑的な意味でその言葉を使うということは、つまり当の知的障害者を侮蔑していることになる。

人が知的障害になるかどうかは、人種や性別と同様に、自分の意思では選べない。だから、それを理由に侮辱するということは、立派な差別だ。

たまたまそれを耳に教師は、「なぜいけないのか」の説明は不十分だったけど、それでも激しく怒った。当然だと思う。

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これと似たようなことを、僕は俗語として使われる「サイコパス」の中にも感じている。サイコパスが平気で他者に危害を加える存在だとはいえ、やっぱり先天的な障害だということは、目を背けられない事実だ。

「サイコパス」という言葉は、その実態よりも、シリアルキラーなどが登場するエンタメからのイメージによって、認知度が高い。そのためか、日常会話でも、軽い気持ちで使われるシーンによく出くわす。

「お前サイコパスかよ(笑)」というように。

もしかしたら読者の中には、そんなシーンに遭遇したことはないという人もいるかもしれない。

でも、このテーマで記事を書き始めた瞬間、奇しくもTwitterで「#あなたは優しい人かサイコパスか」というハッシュタグがトレンド入りしていた。「診断メーカー」によるものだった。

「診断メーカー」の結果はランダムだから、本当にサイコパスかどうかを測定する根拠はゼロで、完全なお遊びだ。遊びとはいえ、「優しい人」と「サイコパス」の二項対立は少し引っかかる。サイコパスは確かに優しくはないかもしれない。でも、優しくない人が必ずしもサイコパスなわけじゃない。遊んでいる人たちもわかっているんだろうけど、その大雑把な認識を許していることには変わりがない。

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念のため言っておくと、僕は別にサイコパスをタブー視したいわけじゃない。犯罪者がサイコパスだった場合には、事件の検証のために、必要な知識にもなる。

障害者をエンタメで扱うことにも、異論はない。ネタバレになるから名前は書かないけど、ある有名作家も、自身のミステリー小説で障害者を犯人にしている。「健常者は犯人にしてよくて、障害者はいけないというのは、それこそ差別だ」という旨のことを言っていて、賛同できる。(その作品はコチラ

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「サイコパス」それ自体が蔑称というわけじゃないけど、「チテ」と同じで、侮蔑の意味で使えば差別的になる。それに、俗語として乱用しているうちに、対象を他者化し、かえって理解から遠ざけてしまう。サイコパスは社会にとって危険だけど、彼らの逸脱行為を抑止するためには、第一に理解が欠かせない。

今、例によって図書館が閉鎖しているから、サイコパスについて知る手がかりになる書籍は、自分の書架から探すしかない。その中で最も有効なのが、以下の2冊だった。

・牛島定信『パーソナリティ障害とは何か』

・小早川明子『ストーカーは何を考えているか』


牛島定信は、反社会性パーソナリティ障害者の別名として、サイコパスを分類している。

「精神病質」「社会病質」「異常人格」などと呼ばれてきた。ただ、アメリカでは「反社会性パーソナリティ障害」と呼ばれることが多かった。(『パーソナリティ障害とは何か』p.91)

精神病質=psychopathyサイコパシーだから、精神病質者=psychopathサイコパスだ。

小早川明子は、ジェームズ・ブレア『サイコパス 冷淡な脳』を参照する形で、サイコパスについて触れている。小早川によると、ブレアは、サイコパスを構成する要素のひとつに、反社会性パーソナリティ障害があるとしているらしい。

前出の『サイコパス』によれば、反社会性パーソナリティ障害の有病率は男性で三パーセント、女性で一パーセント。予備的研究では、サイコパスはその四分の一に該当すると推定されます。(『ストーカーは何を考えているか』p.93)

どちらの見解を採用するかは悩むところだけど、少なくとも、反社会性パーソナリティ障害を知ることが、サイコパスを知る手段のひとつなのは確かだと言える。それにしても、想像していた以上にサイコパスの人口比が高いのに驚く。

『パーソナリティ障害とは何か』の中で、「司法関係の施設ないしは司法鑑定を専門とする精神科医でないかぎり、詳細を論じるケースに出会うことは少ない」ことを理由に、反社会性パーソナリティ障害者の例として、かの附属池田小学校殺傷事件の実行犯が挙げられている。

これはどうだろう。読者のリテラシーに委ねられることではあるけど、例として犯罪のレアなケースを借りることは、偏見に繋がりはしないかと少し心配になる。反対に、犯人像を浮かび上らせるために反社会性パーソナリティ障害を挙げるのは、全然ありだと思う。

これに近い問題として、社会的成功を収めたサイコパスの人物だとか、サイコパスの比率が高い職種の統計データだとかいったものもたまに見られる。傾向としては確かにあるのかもしれないけど、一部の際立った例であって、あまり鵜呑みにはしたくないと思う。サイコパスにもそれぞれ違う顔があることを忘れさせてしまいがちになるし、「大工には手先の器用な人が多い」みたいな、空疎さも感じる。

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どうして僕が、自分に同情なんかしてくれないだろうサイコパスに同情的になるかというと、サイコパスが他者を傷つけるその特徴故に、なかなか人権問題として扱われてこなかったことがある。

それともうひとつは、もしサイコパスが排除されるような社会になるとき、それは僕も排除されるときを意味するからだ。

僕も持病として、てんかんを抱えている。てんかん患者による交通事故はよく話題になるけど、2012年に京都の事故が全国ニュースになったとき、僕はインターネット上のコメントを追ってしまっていた。その中には、目を覆いたくなる屈辱的な言葉が飛び交っていた。

今でも覚えているのが、「てんかん患者は殺処分しろ」というものだ。

その頃から、僕の中では「ホロコーストは昔の出来事ではない」という意識が芽生え出した。知っている人は多いと思うけど、ナチスによる虐殺の対象はユダヤ人に限らず、障害者や同性愛者も含まれていた。

社会に不要と判断した人間は排除していいという思想は、今なお無意識レベルで多くの人に潜んでいるし、時には明確な意志を持って表出される。特に、今の新自由主義社会の自己責任論や弱者切り捨ての発想には、強い危機感を抱く。権力者たちがその方針に導いているからだ。

ネット上で、いい歳をした大人が、いまだにお互いを「ガイジ」などと呼んで罵り合ってる姿は、心底寒気がする。障害児の蔑称だ。

だから上の診断メーカーのようなもので、「サイコパスなんかじゃないよ〜」などとはしゃぐ人々の姿には、小学校の教室で、虐め被害者の体に触れて「〇〇菌が移った〜!!」と無邪気にはしゃぐ子供のようなグロテスクさを感じてしまう。

それから、これはもちろん仮定の話だけど、特定の人たちの排除を許すということは、今の社会規範が覆って、サイコパスのルールが社会に適用されたとき、今度は自分たちが排除の対象になっても、文句は言えないということでもある。

ここまで言っておいて、万が一「てんかん患者は殺処分しろ」と言った人物がサイコパスだったら、僕の主義主張はとんだ悲劇になる。でも憶測で人をサイコパス呼ばわりするのは差別だし、もし本当にそうだったとしても、僕の主張は変わらない。

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僕はさっき、サイコパスが他者を傷つけるその特徴故に、なかなか人権問題として扱われてこなかった、と言った。これはどうしても難しい問題で、僕自身、答えが出ないのが正直なところだ。

排除の発想は論外として、でも、身近にサイコパスの人がいて、自分の身に危害が及ぶような場合。そのときには相手と距離を置くというのが、現段階で一人ひとりにできる、限られた対処法のひとつだ。

サルトルの実存主義では、人間の本来性の否定によって、性善説も性悪説も無効化されている。というのは、生まれながらの悪人が悪事をするのではなく、悪事を働いた時点でその人は悪人になるという考え方だ。今では常識だけど、これが通用しないのが、サイコパスの厄介なところだ。でも、サイコパスもこれに適応するよう目指す以外には、最終的な道はない。

『パーソナリティ障害とは何か』に、「中年期に『燃え尽きる』かのように驚くほどまっとうな一般市民になる」という「晩熟現象」について書かれている。それに至るには諸条件が満たされる必要があるそうだけど、ここに注目すれば、何か希望が見えてきそうな気がしなくもない。

これもネタバレにならないよう名前を伏せるけど、ある有名作家の人気ミステリー小説シリーズの中に、犯人が実はサイコパスだったという事件があった。作中の時代設定によって「反社会的精神病質」という言い方がされている。(その作品はコチラ

これについて読者の感想の中で、「単なるサイコパスで片付けてしまうとは」みたいなのも見かけた。でもそれは違う。その作者の主義として、どのような事件でも、犯人を「異常者」とすることは徹底的に戒められてきた。そんな作者にとって、もし犯人がサイコパスだったらというケースは、いつかは通過するべき課題だっただろう。そしてその事件は、以下のように総括された。

 どんなに異常に見えたとしても、それが〇〇〇〇と云う人なのだろう。
 人は皆、狂気と背中合わせだ。異常ならざる者などはいない。
 否、それを狂気と呼ぶことも一種の差別となるだろう。
 そう云う人はいるのだ。ただ法律に照らすなら、そうした人間の行いは時に罰せられるべきものとなるだろう。



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