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自分に安心する

はーい、Keicoです。
今日は11月29日、いい肉の日それも12年に一度の丑年のいい肉の日だそうですが、いかがお過ごしでしたでしょうか。

私は友達と現地で待ち合わせをして紅葉を観に行く予定だったのですが、横須賀線が遅れていた影響で乗車した埼京線も快速なのにスピードを落としたり、途中止まりながらの走行でかなり遅れ気味に。
結果、防寒対策万全で着込んでいた私は長いこと車内に閉じ込められたことで暑くなって体調が悪くなってしまい、やっと着いた池袋駅で友達にお詫びのLINEをして、現地に向かうことなくそのままUターンして家に戻ってきました。

帰ってからはもうひたすら寝る、寝る、寝る…先週の旅行を挟み今月はずーっと出掛けていたので疲れが蓄積していたところに、一昨日からの急激な寒さで身体がちょっとオーバーヒートした模様。
毎年恒例の等々力渓谷と九品仏浄眞寺での紅葉だったのだけれど今日の私にはハートの保養<身体の休養だったということで自己納得。お陰でこうしてnoteを書けるまで無事に回復して、いい肉の日の夕飯はお寿司をいただきました。



私はみんなと同じが苦手。
奇抜な行動をして輪を乱して目立とうとかではなくて、全体を守りつつも自分も守るというべきか。きっと全体の中に自分が埋もれるのが嫌なのだろう。ちょっとひねりを入れて静かなる自己アピールしている節が自分にはあると思う。もうそれは子どもの頃から。
ああそうか、年子の弟の方に両親の関心が向けられていたことに対する小さな抵抗だったのかも知れない。小さい頃から妙に落ち着きある私と違って、弟は家族で出掛けるといつも迷子になったり、ケガが多く親に常に心配をかける子だったから。ただ、親の愛情が弟ばかりでなくて私にも十分向けられているということを幼いながらも感じられていたこと、特に母親には感謝し切れない。お陰で自己アピールが過度でなく歪んでもいない真っ直ぐなものになったと思う、ちょっとエッジが効きすぎている感はあるけど笑。

それと、何か自分が他人より劣っている点、苦手があるとしてだから全部ダメな自分という解釈はどうやら私の辞書には無いらしい。
例えば私は昔から喋ることを苦手にしていた反面、文章を書くことは好きで得意としていた。だから、自分のことを多くの人に理解してはもらえなくても、福岡にいるおばあちゃんに始まり数少ない友達には手紙や交換日記を書くことで分かってもらえたらそれでいいやと思っていた。
高校、大学と周囲の人の数が増えるにつれて学生生活を謳歌するどころか暗黒の中に佇んでいた時代もあるけれど、それでも書いていたからこそ、今SNSやこのnoteで色んな人に自分の言葉を届けることが出来たり、思いも寄らぬ人と繋がることが出来ているのだと思う。

だから、人と比べることを止めようとは言わないけれど、何か劣っていてもそこで全てダメの烙印を押さずに、みんなもっと自分に安心していいと思う。
ただし安心だからそのまま何もしなかったり人任せにするのではなくて、安心して自分で進むということ。私みたいにバカみたいに突き進んでもどうにかなるから。



3年前、ワークショップに参加するために京都へ行った時のこと。駅から会場に向かうタクシーの中で、運転手さんから「私は今までイチローはじめ人気俳優など著名人ばかり乗せているんですよ」と話かけられた。その時に「今日は平々凡々な私で申し訳ない」という気持ちよりも「私もいつか(運転手さんにそんな風に語ってもらえるような)一人になれるようにその言葉を励みにしよう」と思ったのだけれど、私の無鉄砲さに拍車がかかったのって間違いなくそれ以降だな笑。

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