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書く事で、書かなかった未来を追い詰める

ひっさしぶりのエッセイを書く。
とはいえ今日は趣が違う。
ここからはステートメントだ。note街に対しての、そして、これからの読者、今までの読者に対してだ。

1.エッセイストとしての自分

これまでの全記事の中でやっぱり自分のnoteはどう見たってエッセイが多い。悪くない、全然悪くない。
ただ何のために書いているか、と言われれば疑問がいつも残る。
『唯我論』がきっと正解なのだけど、これに全幅の信頼を置くわけにいかない。宮本武蔵が晩年、岩窟の中で書き上げた五輪書じゃないからだ。
現実の自分の中には絶えず他の考え方が入って行くし、すり抜けて行く。それによってぶれるぶれない、そんなこと、過去の自分がもう既に肯定していた。
変化なんて恐れない。揺らぎの中に書けるもの、それがエッセイ。別にそれで上等でしょう。

2.noteで立ち位置を作ってしまった自分

note酒場、noハン会、リアルイベントに結構参加している。で極め付けはこれ、編集部のオススメに乗ってしまったこと、野辺で喚き散らかしていた自分が、普通に出て行って、掴んでしまった立ち位置。そこに関してはイベントレポその他諸々で皆が思った通りの自分だ。そんなもん偽らない。
でもな。これがモデルケースにはならない気がしている。
出て行って、様々なnoterさんと仲良くなって、オススメされて閲覧数が増える。これをもって成功、と言っていいのだろうか。最後にもう一度投げかける。今はここにこだわらない事だけ、記しておくよ。

3.エッセイストとしての死は、死ではない。

そうだよ。俺はこれだけじゃないんだ。
何を書きたいのかの答えはエッセイである必要は無い。ぶれればいい。ふざけた文章を書けばいい。小説でも詩でも、企画でもなんでもいい、そして何かを、変えられればいい。
何か形に出来なかった思いを書き、その事で少し形にするのがnoteの一つの模範的なモデルなら、そこに到達したらしいnoterが見るべきは、次だ。
夢の中に作ったこの世界を、顕現させていかなければいけないのは、piece of cake社ではない。己だ。
エッセイストとして、誰かの涙腺を潤す文章を書けなくなったら、それは死と思うかもしれない。
代わりに現実の自分が、何かを掴んだ事を喜んで欲しい。

過去に繋げなかった気持ちは、今と未来に向けて手をつなぐ、その力にしてほしい。
過去の辛かった事を書いて、皆から優しさを貰うことは、noteの通過儀礼のようなのかもしれない。世界への通行証なのかもしれない。
自分だって、まだ書く必要があるのかもしれない。ただ書くときは、もうどうせなら、未来に向けて何かを掴んでほしい。

4.穏やかな自分は終わっているのか。

noハン会までで、随分と自己開示を終えてしまった。もちろんもう一度書く必要があることもあるのかもしれない。その必要性を今、すごく感じている。ただ自分で自分を追い詰めて絞り出す事を、最早自分だけの力にしたい、口触りの良い美談はいらない。
ならば、なおの事それを振るう目的は何になるか。

書く事をによって、書かなかった未来の自分を追い詰める。

考えた事はあるかもしれない。言葉を放つ事で、それに共感する人々を増やす事で、言葉を放たなかった人々の世界を、書かなかった未来の自分を追い詰める。
正義である必要はない。自分が、良くなれば良いだけだ。高尚なジャーナリズムである必要は無い。
エッセイである必要もない。

ダラダラ書いたから何一つまとまり切ってない。
いいんだ。それはこれから作る。我が身、我が背、錆び切った血刀を振るう、その意味はこれから作る。

言い切るよ。

俺は、未来が見たい。
皆の過去をいつくしむ気持ちを読んで、苦しんだ過去を見て尚、今と未来のあんたが見てみたい。

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