きれいなのに伝わらない文章、雑なのに伝わる文章

「きれいなのに伝わらない文章」「雑なのに伝わる文章」があります。

すごくきれいで整っているのになぜか頭に入ってこない文章があります。日本語も合っているし丁寧なのになぜか心に刺さらない文章があります。

一方で日本語がちょっと破綻していたり雑で粗削りなのに、なぜか伝わる文章、心に刺さる文章もあります。

「この違いは何なんだろう?」ってときどき考えます。

SNSやネット上の文章を眺めていても、きれいで流れるような文章だけがたくさん読まれているわけではありません。

すごく粗削りで雑なんだけど、なんかグッとくる。「これは本当に本音で書いてるんだろうな」「体重を乗せて書いてるな」と思うような文章は、口コミでもどんどん広がっていったりします。

朝、箕輪さんが「きっちり編集されたコンテンツは逆にウケない」というような主旨のツイートをされていましたが、まさにそうだなと思うわけです。

ある意味「予定調和的」にきっちりと編集されたコンテンツは、世の中にあふれてしまっていて、逆に耳目を集めづらかったりします。それよりもあえてきれいに整えずに出すことでダイレクトに熱が伝わる

これからの編集者はそこまで計算して逆算してコンテンツをつくることが大切なのでしょう。「どういうコンテンツであれば伝わりやすいのか?」「どういうコンテンツであれば目的を達成することができるのか?」。そこから逆算してコンテンツの制作をする。

とにかくきれいに整えて「それっぽいもの」にするだけでは伝わらない時代になってきてるなと思います。あえて雑に、あえて素材のまま出す。そうすることで、結果的により伝わるのであればそのほうがいい。

なんなら文字おこしでいい

たまに「取材はすごくおもしろかったのにできあがってきた原稿がイマイチおもしろくない」ということはないでしょうか?(ないでしょうか?って誰に聞いてるんでしょうか?)

ぼくはこれがいちばん残念だなと思います。もちろん原稿には書けないこと、トーンを抑える配慮が必要なときもあるでしょう。ただそうでない限り、文字おこしよりも原稿のほうがつまらないということはあってはならないと思うのです。

そして、原稿のほうがつまらないのであれば、もう文字おこしをコピペして公開してしまったほうがいいとすら思います。多少ロジックがおかしくても、読み手はそこまで汲み取って文字おこしを楽しんでくれるはずです。

原稿をいじるのであれば、文字おこし以上の魅力になるようにする。そこは最低限超えるべきハードルだと思います。

「届いたあと」のことまで考える

なんか話がそれる気もしますが、気にせず続けます。

「相手に届いた先で何が起こるか」というところまで考えるのも編集者の役目な気がします。

数日前、ワクチンの注射が始まったニュースを見ました。ある病院の院長が「注射は痛くないですよ」と言っていました。それをうけてテレビでも新聞でも「注射は痛くない」ということをわりと大きめに扱っていました。

それを見たぼくは「そうか、筋肉注射だったよな、痛いかもしれないな」と思ってしまいました。ひねくれているだけでしょうか? ただ「注射は痛くない」というニュースをわざわざ流すということは、筋肉注射というのはやっぱり痛くて、だからあえて「注射は痛くない」ということを強調しているのではないかと疑ってしまったのです。

報道機関や政府の意図としてはみんなにワクチンを安心して打って欲しいから「注射は痛くない」ということを強調したのかもしれません。しかしぼくみたいに疑ったり、逆に不安になる人もいます。

ぼくがコミュニケーションのディレクションをするのであれば「痛さ」にはフォーカスされないように設計すると思います。実際は難しいのかもしれませんが、痛さにはなるべく触れず、ワクチンの安全性・有効性を強調する。「痛い/痛くない」の問題がすごく小さな問題であるかのように情報をコントロールすると思います。

編集者は「どうやったら正しく伝わるか」、そして「伝わったあとみんながどう思うか? 何が起きるのか?」まで考えられるといいんだろうなと思ったわけです。

結局「何がしたいのか」に戻ってくる

着地点がわからなくなりましたが、やっぱりいつも思うのが「文章とはどうあるべきか?」「編集とは何か?」「コンテンツとは何か?」「編集者は何をする仕事なのか?」みたいなことはどうでもよくて、結局「何をどうしたいのか」というところに立ち返るだけの話だなと思うわけです。

目的を達成するために何をするべきなのか? そこが問題です。

「文章を書きたい」と思ったときに大切なのは「なぜ文章を書きたいと思ったのか?」「いったいその文章で何を伝えたいのか?」という部分です。

別にきれいな文章を書かなくたって伝えることはできます。「きれいな文章を書かなければ」と思っているのは本人だけだったりします。自分のプライドが咎めているだけです。今は音声入力だってあります。ただしゃべるだけでも文字にしてくれます。

文章術の本ばかり買いこんで結局書かない。それでは意味がありません。勉強法の本を読みまくって勉強しない人みたいな感じです。もしくは仕事術の本ばかり買って仕事しない人みたいな感じです。

みんな日本語は書けます。文章は書けます。もちろん「構成をどうするか」とか「表現をどうするか」という部分も気になりますが、それはあとでもいいんです。

書く技術を磨きたいなら、文章術の本を読むよりも、どんどん書いたほうがいいでしょう。もしくは、人と話したり映画を観たり、いろいろインプットして感性を磨いたほうがよっぽどいい。

「きれいな文章を書かなければ」「頭がよさそうな文章を書かなければ」と考えてしまうと書くことが楽しくなくなります。文章は楽しむのがいちばん。楽しんで書けたら、それはもう100%成功なのです。

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