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光の啓示「第2章 賞ラッシュ!」

こんにちは、現在は世界初の新技法「ホログラムズコラージュ」のパイオニアとして活動しているTakayuki Hibinoと申します。


定期購読マガジン「光の啓示」では、1989年の夏、私がアート活動を始めたきっかけになった光の啓示から現在に至るまでの経験や出来事を記憶にある限り綴っていく実話です。

第2章 アート脳に改造?のつづき 賞ラッシュ!

1995年、ペインティング、ホログラム コラージュ、オブジェなどいろんな作品を出品したアートコンペから徐々に結果が届きだした。

その結果は、

入選!
金賞!
入選!
入賞。

おっ!
なんと、賞金30万円!!

マジかっ!賞金をゲットした!

アートコンペの勝率5割以上の結果だった。

その中でも当時、
国内最大級のアートコンペ、
パルコアーバナート#4からの

地区予選通過の通知には驚きだった。

このアートコンペは、1992年~1999年までパルコ主催で行われていた、若手アーティストの登竜門といっていいほどの、当時最大級のアートコンペだ。
全国から4,000作品以上の作品が集まり、
全国4地区で予選があり、
これを通過するとその時点で入選が決まり、
いよいよ本審査、
そこから入賞が決まるアートコンペだった。

しばらくして本審査も終わり、
結果の通知が届いた。

そして、

なんと、なんと
審査委員賞 伊東順二賞を受賞したのだった。

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伊東順二
伊東 順二(いとう じゅんじ、1953年9月2日 - )は、日本の美術評論家、東京藝術大学社会連携センター特任教授。
経歴
長崎県諫早市出身。早稲田大学第一文学部仏文科(1976年)卒業。早稲田大学大学院仏文科修士課程(1980年)修了。仏政府給費留学生としてパリ大学、及びエコールド・ルーブルに学ぶ。
フランス政府給費研究員としてフィレンツェ市庁美術展部門嘱託委員(1980年)、「フランス現代芸術祭」副コミッショナー(1982年)などを歴任。1983年帰国後、美術評論家、アート・プロデューサー、プロジェクトプランナーとして、展覧会の企画監修、アート・フェスティバルのプロデュース、アート・コンペティションの企画実施、都市計画、また、企業、協議会、政府機関などでの文化事業コンサルタントとしても幅広く活躍。株式会社JEXT(ジェクスト)代表取締役を経て、2004年長崎県美術館館長となる。2005年10月より2013年3月まで富山大学芸術文化学部文化芸術学科 教授。
妻は女優の小川知子[]。

出典:Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E9%A0%86%E4%BA%8C


そして、パルコのはからいで、
名古屋パルコの1Fムーンカフェでの個展もゲットした。

東京での授賞式に参加し、
審査員の方々から出品したホログラム コラージュの作品について、

「この表現技法は、世界で初めてだから追及していくといいよ。」
と言われた。

マジで、世界初!!

世界で唯一の技法を考案(発明)したのか?

それには2度おどろいた。

ホログラム コラージュという新技法を世界で初めて私が考案したのか!!

そうなのです。

あの「光の啓示」を受けて、
わずか6年目に、
アート界の試みとしての新技法を考案し、

賞をいただき
「これが、世界初です。」と認められたのです。
アーティストとしての証明はされたのです。

それしても、「光の啓示」のお導きは凄すぎます。

翌年も、いい結果が続き、

第11回日匠記念展では、

なな、なんと。

大賞を受賞したのでした。

大賞といえば日本一!!ということになる。

大賞の作品はペインティングだったので
まさか、大賞とは自分でも驚いた。

ペインティングの作品は、
ほかのコンペにも入賞していたので、
それなりに自信があった、しかし大賞とは。

オブジェについても数点入選をはたした。

これで、バリ島の「光の啓示」は
本当だったことの証明になる。

バリ2009 146

アートの「ア」の字も頭の中になかった凡人の私が、
独学をはじめてたった6年で、

アーティストとして認められた。
しかも、世界初の新技法を考案!!
信じられない。
アートの女神がほほ笑んだ。
神様はホントにいるのだ。

この結果が証拠になる。
これまでの6年間、わき目も振らず毎日続けた。
あんなに大好きな旅も封印して。

自分を信じて、孤独にやり続けた。

名古屋パルコの1Fムーンカフェでの初個展も無事終了し。

よし、これで今後はホログラムズコラージュのパイオニアの
アーティストとして胸を張って活動ができる。

ひどいのは、あれほどぼろくそに私のことを言って、
距離を置いていた友人たちだ。

彼らはげんきんなもので、
アートコンペで賞を取ったことの噂を聞きつけて戻ってきた。

「やっぱタカちゃんは才能あると思っていたよ。」
「さすがタカちゃん、やると思っていたよ。」
なんてことを言っていた。

私は「嘘つけ、まったく。」と言ったが、
人間は勝手がいいものだ、まあ許してやろう。

これだけ入賞、入選をすると翌年からは、
審査員とも顔見知りになっていた。

岐阜の明かりのオブジェ展に入賞した時、
ある審査員からアドバイスをいただいた。

「これいじょうコンペに出すとコンペ作家になるから、
もうコンペに出品するのは、やめたほうがいいよ、
十分実力あるから大丈夫。」と言われた。

コンペ作家?
なるほど、評価を求めすぎるのはよくないということだろう。
コンペに出品し続けると、
アートの本質からはずれていくということなるのだろうと思った。

私はそのアドバイスに従い、
2年でアートコンペに出品することを
きっぱりやめた。

このアートコンペに挑戦した2年間は、
アート活動を始めてから、
はじめての楽しい時間だった。
新たな人との出会いも沢山あった。

そして、その出会いによって今後のアート活動も、
どんどん広がって行くのだった。

つづく

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