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アートをやろう


 春から参加している「探究を探究する」LCL本科のプログラム。
その一環として大人が真剣に自分たちの探究プロジェクトを実践します。

 僕たちチームDは、アートをテーマとして、「言語によるコミュニケーション」と「非言語コミュニケーション」を重ねる?比較する?結びつける?プログラムをやってみようということになりました。

そこで、まずアートについてリサーチしてみることに。

この間、触れたアートについて振り返りながら、疑問や、次の手がかりを考えてみます。

1 七戸十和田の現代美術館に行った


見上げる
あの穴はなんだろう?

 見上げる、入り込む、囲まれる、通り抜ける…といった動作を伴う鑑賞体験がたくさんできたのが楽しかった。
⇔ ひるがえって考えてみると、「普通」の絵画や像の鑑賞は「見る」ことが中心だ。見る、じゃない、美的体験もあることがわかる。

2 学生団体による美術展に遊びに行った

 知り合いの高校生が主催している美術展に遊びに行かせてもらった。

 セントリベルさんのスクランブル交差展だ。
 写真、詩、絵画、インスタレーションが展示されていた。
 日常の中の何気ない「出来事未満の出来事」を捉えた言葉や写真の提示が、とても新鮮で胸を打つ作品がたくさんあった。

 中で、特に僕が気に入ったのはこちら、ZOAさんの「友達依存症」。


一時しのぎの薬には「FRIEND」とある

 パズルのピースが崩れ落ちていく世界で、崩壊の進行を遅らせる薬を服用し続けなければならない虚しさをポップに表現している。
…と、解釈した。作者のねらい・演出の効果・意図しない意味の生成。鑑賞という、「(作者ではなく)作品」と鑑賞者のコミュニケーションによって、絵画の意味は絶えず更新され続ける。
(例えば、薬のパッケージが紫色であることに積極的に意味を見出す、など。これは毒だ、とか、いや紫芋なんだ、芋の根の伸長のような生命を表しているなんて読むこともできる。ちなみに、もちろん、作者がそうした読みを否認するのは野暮である)

3 「新しいカギ」のアートプロジェクトを観た

 芸能人たちがアート作品を作成し、オークションに出品する企画をみた。
 値段がつくことで、その作品の正統性が(事後的に)生成されるのは面白かった。つまり、値がつくことでその人は「アーティスト」だったことになる、と感じられた。
 
 窯工、流木アート、油を垂らす?アート、いろんな手法があって、やってみたくなった。

4 疑問・これからやってみたいこと


ムサビの芸祭また行きたいな。

アートってなんだろう。
アートだと自分でどうやったら感じられるんだろう。
味噌汁も食べられるアート?
アートとして認められるためには人に評価される必要があるのだろうか。
生前評価されなかった芸術家、例えばゴッホや、文芸という意味では宮沢賢治なんかは、アーティストではない、のか?
日常の流れに順応する表現は、アート的ではない?
逆流する、逆撫でする、異化する、のが芸術的ではないか。
素人でもとっかかりやすいアートってどんなもの?
アートをダシにしてむしろコミュニケーションを取ることがねらいかもしれない。
対話型鑑賞は楽しそう。私の読みや受け取りを人と交流することの楽しさは、文学研究における読書会ではいつも味わっている。
額縁に入っていればアート?

デュシャンの「泉」をトイレに再配置したら、アートではなくなる?
文脈が付きまとう限り、一度アートになったものはアートでなくすことはできない?
文化祭で作った展示をバラして廃棄する時の不思議。脱呪術化?
非言語の表現としてのアート作品も、それがアートであるのは、言語的な解釈による裏打ちがあってのことなのだから、裏口からの再入室、言語を媒介することによって成立する表現なのではないか。
人の認識が言語的に汚染されている限り、どんな表現も言語的なのではないか。
どうやったら、ただの表現をスペシャルなアートに変えることができるか。
ある種類の傾向の表現がアートとして認められるのは、どのような条件が満たされる時か。
歴史的にいって、「そんなものはアートではない」として否認されてきた表現が批評家たちに受け入れられる過程で、批評家集団による自己批判は伴うのか(多分されない)。
正しさと美しさは関係がないことが多いと思われるが、法を侵犯する表現が美しいと感じるとき、それは侵犯自体が持つ爽快感によるところを差し引いた時、固有の魅力を維持できるのか。
(バンクシーを額縁に飾るのはくだらないのではないか。)
 
伝えたいことが特にないのに、アートを作ってもいいのか。
社会批判とか、チャリティとか、自己表現のためではないアートをなんとなくつくるのは、いいのか(というかないけどやりたいんだけど、認めてもらう…誰に認めてもらいたいんだろう、認めてもらう必要はあるのかな)。

アートで商売するのは、非本来的ではないのか。本当は、資本主義から自由に、何にも遮られることなく表現に邁進した方がいいけれど、仕方がないので売って生活しているのか。それとも、売るところまでがアート行為なのか。

解釈はどのくらい自由なのか。ゴッホのひまわりを見て、本当はこれはチューリップですね、という読みは権利を持つか。作者が否認するからといって、可能な読み(可能であるという説得・正当化が、解釈の提示者には求められる)には居場所が与えられるべき、ではないか(面白いかどうかはまた別の問題として)。

粘土で形づくってみたい
石や木の枝などの自然物に彩色などして、作品に取り込んでみたい
いろんな鑑賞の仕方を学びたい
一緒にみんなで鑑賞をしたり、それぞれが表現をして、表現者と鑑賞者を交代して対話したい。

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