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自#181|句作りなら、まあギリ、言葉を並べられるかな(自由note)

「雨降りて銀杏匂う遊歩道」

 学校から帰って来て、玉川上水沿いの遊歩道を、PM6時台に走っています。秋の今頃のPM6時台は、暗くてもう夜です。暗い秋の夜路、雨の中を走っている爺さん。正直、ぱっとしないsceneです。横溝正史の推理小説に、こういうsceneを挟んでも、正直「何かのギャグ?」と、読者に突っ込まれそうです。よりギャグっぽいことが、しょっちゅう起こります。木の根っこに引っかかって、転んでしまうんです。

 今年の4月8日から走り始めたので、ちょうど半年が経過しました。この6ヶ月の間、数限りなく転びました。玉川上水沿いを走っている人は、私以外にもいますが、その人たちは遊歩道ではなく、車道を走っています。遊歩道を走っていたら転ぶと云うことを、地元で長年、走っている方は、経験的に承知しているんだろうと推測しています。転ぶ度に怪我をします。主に痛めるのは、膝と腕と手のひらです。顔面から地面に激突したことは、まだありません。「年寄りが転ぶと危ない。骨を折ったら歩けなくなる」と、健康指南書的な本には、よく書いてあります。幸いなことに、骨は折れてません(膝が腫れ上がって、ひょこひょこぐらいしか走れない強度の打撲は、2回経験しました)。骨粗鬆症には、まだ陥ってないと云うことを、検査を受けないで確認できたと思っています。アキレス腱を切って、4ヶ月ギブスをはめて、ようやく治癒した時
「今度、また転んだら、再断裂します」と、整形外科の先生に厳かに言われてしまいましたが、今までに20回やそこら転んだと思いますが、再断裂はしてません。ただ、手のひらに傷ができて、そこに土が入るとリスクが高いと懸念して、最近は軍手をして走っています。備えあれば憂いなしってやつです。

 昨日、雨の中、転んで、左手が水たまりの中に、ぼっちゃん入ってしまいました。泥水が頭髪にも顔にもかなりかかってしまい、最悪でした。転んだ瞬間に目を閉じたので、泥水は目には入ってません。倒れた私の傍に、早熟状態で落ちてしまった銀杏が、おそらくいくつか転がっていたんだろうと思います。銀杏の臭い匂いがしました。そのまま起き上がって、「泥水や銀杏臭き遊歩道」と云う句を、即興で捻り出しました。その後、再び、走り出して、推敲しました。泥水と銀杏臭きでは、miserableに付き過ぎていると感じました。そこで、もう少しsophisticatedして、「雨降りて銀杏臭き遊歩道」と、アレンジしました。が、銀杏の臭い匂いが嫌いな人は、多分、いっぱいいます。私もどちらかと云うと嫌いです。で、まあ「臭き」を「匂う」と手直ししました。

 句が整った時点で、句帳に書きとどめておくのがベストです。が、ジョギング中にそれは、したくないので、走り終えて、自宅に戻って来た時、まだ覚えていたら、手帳に書きとめます。覚えている確率は、4分の1くらいです。走り終えて、最後、近所の広場の鉄棒を使って、懸垂を20回やるんですが、懸垂中に忘れてしまっていることが多いです。ジョギング中にできた句を、鉄棒と云う別のメニューに移ったら忘却してしまう、まあそれも自然だなと思います。どの道、駄句です。忘れても構いません。昨日は、たまたま覚えていて、今回のノートのネタに使いましたが、すみやかに忘れると云うのも、一種の美徳です。

 8月の中旬(8月16日)から句作りを始めました。30代の頃、ほんの一時期、俳句を作っていたことがあります。教員俳句会の吟行にも参加しました。その時、神田の古書街に出かけて、歳時記を買いました。歳時記なんて、どれも一緒だろうと思って、軽いノリで、適当に買ったのが、今、使っている昭和34年に発刊された平凡社の俳句歳時記です。今、ちょうど毎日、携帯している秋の部のみ、五七五の区切りに、赤鉛筆で横線を入れてあります。平成2、3年あたりの秋の一時期だけ、句作りをしていたんです。34、5歳の頃です。

 歳時記を読んでいると、和歌を知らないと日本人の伝統的な季節感は、つかめないと云うことが容易に理解できます。山本健吉さんが担当している季語の解説は、たいがい和歌が引用されています。そこで、取り敢えず、古今和歌集を読みました。古今和歌集を読み終えて、このまま句作りを続けて、古典の世界に分け入ってしまったら、教師の仕事が中途半端になると冷静に判断しました。私が教師になったのは30歳で、遅いスタートです。古典を読みながら句作りをしていると、教職は間違いなく疎かになります。教職を全うするために句作りを辞めました。古典も封印しました。

 65歳の教職リタイアまで、あと1年2ヶ月と云う時期に到達した時、源氏物語を読み始めました。30代で古今和歌集を読みましたが、源氏物語を先に読むべきだと、古今和歌集を読んだ後、理解しました。源氏物語を読めば、古今集の世界は、ほぼほぼ理解できます。源氏物語を全部読み終えるのに、7ヶ月半かかりました。2月の中旬から読み始めて、読了したのが9月下旬でした。すぐさま、二巡目に入りました(今、三巡目の半分過ぎあたりです)。何故、飽きもせず、毎日せっせと中古の文章に向き合っているのか、自分でもちょっと不思議な気がします。今じゃない、過去の世界に、ずっぷりと身を浸すことが、やっぱり心地良いんだろうと思います。AM8:00からライブを始めて、全部が終了したのが、PM9:00と云う超絶忙しい日がありました。その日は、夕食をせず、睡眠時間を削って、返りにデニーズに入って、紅茶を飲みながら、毎日のノルマの10ページを読みました。今から、千年くらい前の世界にワープして、一定時間を過ごす、そのことが、毎日の生活の中のルーティーンの日課になってしまったんです。人に教えた方が、より理解できます。コミュニティセンターで、源氏物語の講読会的なものを、やってみてもいいと思っていますが、それは五巡してから、考えます(五巡させるためには、あと2年くらいはかかります)。

 古典のような文章を書くことはできません。短歌も私のキャラ的には無理です。句作りなら、まあギリ、言葉を並べられるかなと、軽い気持ちで始めました。

 「母に似た人を恋せり曼珠沙華」

 多くの男子生徒たちが「どうしてもお母さんに似た人を好きになってしまいますね」と言ってました。そんなことは、あり得ないだろうと、自分では思っていても、男子生徒に成り代わって、むりくり作ってみた駄句です。

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