見出し画像

自#089|人生はfantasticで、わくわくできるもの(自由note)

翻訳家の鴻巣友季子さんのインタビュー記事を読みました。

「日本は翻訳大国です。読者のレベルは高く、要求水準も高くて、加工するのには抵抗感がある一方で、読みやすさも求める。翻訳家は大変です」と鴻巣さんは、仰っています。

 私は若い頃、翻訳小説は、かなり読みました。高校時代に、自分が納得して読めた文学は、翻訳された小説だけだったと思います。納得したのは、中身(コンテンツ)が、すぐれていたからです。コンテンツが、すぐれているから、苦心して原文を読むと云う方向性も、本当はあった筈ですが、そこまで勉強熱心ではなかったですし、私が熱中したのは、まずドストエフスキー、そしてバルザック、ゲーテでしたから、ロシア語、フランス語、ドイツ語と云った語学の壁が、立ちはだかっていました。

 語学力をつけ、文学的な広い素養を身につけ、文章力も磨き上げなければ、翻訳家としていい仕事はできません。かつて裏方とみられていた翻訳家は、知的で創造的な職業だと認知されるようになって来ているそうです。

 鴻巣さんは、父親が54歳、母親が45歳の時の子供です。遅く生まれた末っ子ではなく、結婚25年目に、やっと誕生した第一子でした。両親にどれだけ可愛がられたかと云うことは、容易に想像できます。小さな頃から、親との別れが早く来るんだと云う強い強迫観念があったそうです。
「人間が死ぬとわかったときは怖くて、夜中に目が醒めて、パパとママは息しているかなと確かめに行った」と語っています。死を知って、それに対して強烈な怖れを抱いたわけです。そういう人じゃないと、厳しい茨の道である文学の世界には、お進みにならないと思います。翻訳家であれ、小説家であれ、文学をやる方は、やらざるを得ないから、文学の道に入って行くんです。損得を考えてやれるテーマでは、ありません。

 小学校3年生の時「あしながおじさん」の主人公ジュディアボットが、夢中で読む西洋文学に魅了されて、「ジェーンエア」「嵐が丘」「宝島」などを、次々にお読みになります。小4で、英語教室の門をくぐった瞬間、英語を学ぶことが、天命だと直観されたそうです。英語で生きて行くと云う人生の方向性が、小4の時に、定まったわけです。

 翻訳家と云う職業の存在を知り、通っていた大学(成城大学)の英文学科に、ルイスキャロルの翻訳で知られていた柳瀬尚紀先生がいることを知って、押しかけて、弟子にして欲しいと申し入れたそうです。柳瀬先生に
「弟子はとらない。君、ジョイスは読んだのか?」と言われて、鴻巣さんは、辞書にしがみついて、2ヶ月間で必死になって、ジョイスの「若い芸術家の肖像」を読破され、もう一度、柳瀬先生に体当たりします。柳瀬先生は、鴻巣さんのやる気を認め
「弟子はとらないが、運転手なら」と許可してもらい、柳瀬先生の運転手をしながら、背中を見て、翻訳を学ぶことになります。
「背中を見て学ぶ」。若い頃、何度も聞かされた台詞です。良き先輩、師匠は、確かに、基本、教えませんし、説教もしません。ただ、とんでもなく猛烈に頑張っている背中を見せてくれます。
「翻訳家になろうと決めてから、人生観から人間関係の築き方、生活習慣まで、何もかも変わりました」と、鴻巣さんは仰っています。

 ローリングストーンズのキースリチャードが、チャックベリーの「ジョニーBグッド」を聴いて、その瞬間、人生の何もかもが決まったと語っていた台詞を思い出しました。キースリチャードは、晩年、チャックベリーのドキュメンタリー映画の制作に、全面的に協力しますが、キースリチャードなりにチャックベリーの背中を見続けて、その恩返しの意味もあったんだろうと想像しています。

 鴻巣さんと親しい漫画家の久住昌之さんは
「ITは、はてしなく役に立つけど、使いこなすにはセンスがいる。鴻巣さんには、センスがあったから、ITを活用して伸びていき、翻訳家の最前線に躍り出た」と語っています。人間の使える時間には、限りがあります。古今東西の大文学をことごとく読み通していける時間はありません。ポイントをしっかり掴(つか)んでおいて、あとはITを使って、文学的教養の肉付けをして行くと云った風なことを、おそらく鴻巣さんは、されて来たんだと思います。このはてしなく役に立つITを、私は今だに、まったく使えてません。step by stepで、少しずつ慣れて行かなければいけないと云う気持ちは、抱いています。

 久住さんは、鴻巣さんが、お父さんのために作った料理を記録した、何十冊ものレシピも見せてもらったそうです。鴻巣さんは、翻訳の仕事をしながら、お父さんの介護もなさっていたんです。15年間、介護生活は続いたようです。親の介護をするために、翻訳家と云う自由業を選択したと云う見方もできそうです。父親が亡くなったのは、鴻巣さんが、35歳の時です。親の介護をやりきったと云うことは、人生の大きな自信になります。鴻巣さんは、より一層、仕事に熱中し、エンタメ路線から、純文学に軸足を移し「嵐が丘」と云った超ビッグネームの古典の翻訳の依頼も受けるようになります。

 結婚するつもりはなかったんですが、38歳で、趣味のワインの会で知り合った3歳下の男性と結婚。40歳で長女を出産します。人生、何があるか解りません。思い通りにはならないし、どうなって行くのか解らないから、人生はfantasticで、わくわくできるものだと云う風な見方もできます。

 鴻巣さんの娘さんは
「翻訳ではできないことがある。(directに)英語で表現したい」と言って、15歳で海外に留学されたそうです。
「ある意味、私のレゾンデートルの否定です。二つの言語の狭間で、一生どっちつかずで暮らす私への強烈なノーです」と、鴻巣さんは、仰っています。ですが、母の背中を見て、娘さんは、大きく飛翔されようとしているわけです。偉大な翻訳家のお母さんとは、まったく別の道を進んで行く、まあ、普通に考えられる人生の選択肢だと思えます。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?