自#200|恋愛と云うのは、そもそも、正解のない、ある種の魔道(自由note)

 キャリーは、友人のスタンフォードとランチをしています。芸能事務所のマネージメントをしているスタンフォードは、ゲイです。下着のモデルのデレックが恋人です。デレックのために尽くすことが、自分の愛だと、公言するスタンフォードは「今やゲイの世界にしか、本当の愛はない」と、キャリーに伝えます。
 私の世代ですと、ゲイと云うとフレディマーキュリーでも、デビットボーイでもなく、「真夜中のカウボーイ」のジョンヴォイト扮するジョオと、ダスティンホフマン扮するラッツォを思い出してしまいます。映画の舞台は、Sex and the Cityと同じ、ニューヨークですが、同じニューヨークとは、とても思えないほど、みじめな暗い世界を創り上げていました。この作品は、私が中3の時に、ロードショー公開されていましたが、その時は、見てません。その時期に見た映画は「明日に向かって撃て」です。この年(1969年)のアカデミー賞の監督賞、作品賞、脚本賞を、「真夜中のカウボーイ」が獲得しました。高校生になって、名画座でリバイバルされた時、この映画を見ました。正直、「へっ?」って感じでした。最後、二人は長距離バスに乗って、マイアミに向かいます(この時にBGMで流れるニルソンの「噂の二人」は文句なしの名曲です)。USAのパラダイスのような、マイアミに向かっていても、この二人には、未来と云うものがまるでないなと感じました。 高校生くらい頃は、恋愛と云うものを、信じていました。今も、信じてない訳でもないんですが、信じるに足りるだけのコンテンツを備えた恋愛と云うものは、まあ、そうめったやたらにはないなと、人生の場数を踏んだだけに、そこは正しく理解しています。40代の半ば頃、映画ばかり見ていた一時期があって、その時「真夜中のカウボーイ」を見ました。高校時代と同じように、未来のない救いようのないstoryだと思いました。が、この二人の恋愛には、realityがあると感じました。日本の古典でも、道行きの果ては、結局、心中で終わるみたいな作品が、沢山あります。そういう作品を、観客が繰り返し見るのは、そこにrealityがあるからです。未来がなくても、realityがあれば、納得します。それは、未来とか結果とかではなく、過程の中で、人間があがきながら、せいいっぱい生きていれば、そこに意義を感じて、共感できるからです。「真夜中のカウボーイ」の救いようのない恋愛に関して、私の理解度は大きく広がったと、自負しています。映画や文学は、自分がまったく経験してない世界の真実を、理解させてくれると云う意味でも、偉大です。
 男同士の恋愛が、男女のそれに較べて、純粋でhappyだなんてことは、絶対にありません。男同士の恋愛も、男女の恋愛も、本質は同じです。わくわく、どきどきするようなバラ色の一時期もあれば、どろどろの断末魔のような修羅場だってあります。女同士の恋愛については、不案内ですが、女同士の恋愛もありだし、本質は、男女のそれとやはり同じです。
 スタンフォードは、ぱっと見、友人として、すばらしい人だと云う印象を与えます。好々爺のおじいちゃんを子供っぽくしたような、可愛さ、親しみ、安心、あったかさを感じます。第一印象は、やはり大事ですし、ある意味、決定的だとすら思えます。私は、人生の大半の時期、第一印象最悪と云った雰囲気で、過ごして来ました。後悔は、まったくしてませんが、損をしたか、得をしたかと云うと、圧倒的に損をして来たと、そこは充分、自覚しています。今も、第一印象最悪的な日々を、平気で過ごしています。損をするdisadvantageに、もう慣れ切ってしまって、第一印象で得をしたりすると、不当利益を得てるんじゃないかと云った、天邪鬼な習性が、骨の髄まで、しみ通ってしまっています。
 シーズン③までしか、見てませんが、スタンフォードとデレックの恋愛は、理想的な形で描かれ、無事、結婚にゴールインします。これは、ドラマツルッギー的、作劇上の問題です。どこかに、安定した幸せな部分がないと、視聴者は不安になります。所詮は、テレビドラマなんです。チャンネルを変えられてしまったら、そこでThe Endです。入場券を買って見てくれる映画や、映画に較べるととんでもなく高額の料金を支払って、入場してくれるミュージカルなどと違って、テレビドラマと云うのは「存在の耐えられない軽さ」みたいなとこがあります。スタンフォードとデレックの恋愛を見せて「二人がそこにいるだけで、安心できて、何かほっこりする」と、視聴者をつかんでおく必要があります。
 キャリーとシャーロットとサマンサの三人は、女同士の恋愛には、嵌(は)まらなさそうな気がします。が、サマンサは、一時期、女同士の恋愛にも、興味を持ちます。男女の恋愛と同じように、女同士の恋愛も、その場の成り行きで、そういう関係になってしまうっとこも、あり得るのかもしれません。私は、一時期、井原西鶴を好んで読んでいました。西鶴を読んでいると、男同士の恋愛など、ごく当たり前の普通だなと、思うようになります。chanceさえあれば、誰だって、男同士の恋愛にはまるかもとすら、感じてしまいます。源氏物語には、成人男性とJuvenileの童(男の子)との恋愛は、普通に描かれています。成人女性とJuvenileの童(女の子)の恋愛だって、正直、普通にあったと考えられます。それを、紫式部が書いてないだけです。あれだけの成人女性と、あれだけの童(女の子)がいて、恋愛状態が、発生しないとは正直、考えられません。まあしかし、成人とJuvenileとの親密な関係を、恋愛と云っていいかどうか、判りません。別の概念規定が必要だと云う気もします。
 Sex and the Cityの4人の中で、ジェンダーが、もしかしたら男(?)だと私が感じるのは、ミランダです。ねちねちしてなくて(女子=ねちねちと、断定しているわけでもありませんが)、さっぱりしていて、男を壁に押しつけて、キスしまくるとかって、何か男っぽいです。ミランダのジェンダーが男だとしても、だからと云って女の人と、恋愛をするとは限りません。ジェンダーが男だと感じる女の人は、多くはないですが、少なくもないです。高校のクラスに、確実に一人くらいはいます。種の保存のために、ジェンダーが男の人も、男性と結婚して、子孫を残した方がいいのか、思い切って、性転換をした方が、幸せなのか、そのヘンは、判りません。恋愛と云うのは、そもそも、正解のない、ある種の魔道だと私は思っています。

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