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自#058|本を読まなくて、耳学問だけで、人生を巧みに渡って行ける人がいる(自由note)

 Yさんの学級通信③号を読みました。図書館の利用と読書のお勧めと云ったテーマで、メッセージをお書きになっていました。

 私は、司書教諭です。K高校とS高校では、2年間ずつ、図書館の仕事をしていました。K高校は、ベテランの司書教諭の女性の先生がいて、私は、図書委員会の担当をしてたくらいです。S高校では、飲食自由、(カフェ程度の)おしゃべり自由と云う改革に取り組みました。図書館は、第二保健室だと云う言い方がありましたが、私が図書館にいた2年間は、保健室よりも図書館の方に、より多く生徒は来ていました。保健室よりも図書館の方が、居心地良く過ごせる生徒がいます。アルコール消毒の匂いが嫌いで、ベッドが置いてある病院っぽさが苦手な生徒は、図書館に来ました。まあ、私は、基本、自由で放任主義ですから、余計なことは何ひとつ聞かれもせず、黙って放置しておいてくれることが、生徒にとっては、心地良かったんだろうと推測しています。

「夏休み明け、学校に行きたくなかったら、図書館に来て下さい。いつでも待ってます」と発表して、プチ物議をかもした公立図書館の司書さんがいましたが、自粛警察的な人が何人もいて、同調圧力が、クラス担任からも、同級生からもかかって来るHR教室よりは、図書館の方が、take it easyに過ごせるってとこは、間違いなくあります。

 S高の図書館では、しゃべり場と云うイベントを時々やっていました。コーディネーターは、私で、テーマを決めて、男女合計、5、6人に、自由に喋ってもらいます。喋るメンバーは、私が自力で見つけて来ました。テーマは、いろいろです。死刑廃止とか脳死とか、遺伝子組み換えとか、地球温暖化とか、答えのないテーマを選びました。小6の女の子が、同級生の女の子を殺害した事件を取り扱った時、異常なまでに盛り上がりました。「人を殺すとかあり得ないし、絶対に許せない」と云ったステレオタイプの意見は皆無で私ならこういう風に殺すと云った、殺し方の方法論にまで、話は広がって行きました。人を殺す、殺されると云うテーマは、Juvenile時代のどこかで、徹底的に議論しておけば、犯罪を抑止するディフェンス力を、築き上げることに、大きく貢献することができると感じました。

 この日、しゃべり場を終えた後「ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでおけば、絶対に人を殺さない人間になれる」と、きっぱりと明言しました。まあ、最初から「罪と罰」をpushするつもりで、同級生殺害のテーマを選んでいたわけで、あざといやり方でした。が、たとえあざといやり方であっても、ドストエフスキーは読んでもらって、決して、損はしない偉大な文学です。この日、参加していた6人の内、二人が、「罪と罰」を読みました。六分の二。ロシアンルーレットの倍です。司書教諭としていい仕事をしたと、勝手に自己満足しました。

 人を殺す、殺されると云うのっぴきならない状況に、追い込まれることは、多分、誰にとっても、人生のどこかで一度くらいはあると思います。が、ほとんど人は殺しませんし、殺されません。が、殺してしまう人、殺されてしまう人が、ごくrareですがいます。それが何故なのかは、犯罪心理学を専攻しても解りません。文学を読んだ方が、より正解に近い所に、きっと辿り着けます。

 本を読みそうな、つまり読書に向いてそうな人たちには、本を読むことを勧めてあげたいと思いますが、本を読まない人は、まあそれはそれで、いいと考えています。diversityです。読む人もいれば、or notな人もいます。ちなみに、私の女房は本を読みません。新聞も見ません。世の中で起こっていることは、テレビのバライティ番組を見て知ります。ですから、やたらと芸能人関係のネタに精通していて、政治・経済のことは、ほとんど知りません。が、人としての判断力、良識はきちんと備えていて、母の介護をしている時は、女房の方が、自分よりはるかに立派な人間だと、改めてリスペクトしてしまいました。母は、息子の嫁と孫たちのお陰で、多分、幸せに死ねたんだろうと思います(死んでも死にきれないと云った顔ではなく、やすらかな死に顔でした)。

 定時制高校に勤めていた時のK校長は、本を読まない方でした。ある時「ニシモリさん、オレは本を読まない」と言われて、さすがにそれは、嘘だろうと思いました。校長が、ウチに夕食に来いと言ってくれたので、女房と二人で行ったことがあります。K校長の部屋を見せてもらったんですが、本当に本は一冊もないんです。さまざまな民具が置いてありました。K校長は、東京教育大で、民俗学を専攻して、日本史の教師になられた方です。民俗学自体が、新しい学問なので、読むべき古典は、さほどなかったと云う風なことは、多分、言えます。

 ある日、K校長に、校長室に呼ばれ、「レゲエについて、50分間で、教えてくれ」と頼まれました。ボブマーリーのCDは、一通り持っていましたし、最初の学校のイベントを準備する時のBGMは、すべてレゲエでしたから、まあ、喋ろうとすれば、喋れるんですが、音楽を聞いた方が、手っとり早いと思いました。「CDをお聞きになった方がいいような気がしますが」と云うと「音楽を聞いても、多分、解らん」と返事をされました。で、黒人がアフリカから連れて来られた黒歴史とか、サトウキビ栽培の仕事の辛さとか、マイアミから聞こえてくるUSAのラジオ番組のポップな音楽の影響とか、ラスタファと言われる(魂の)アフリカ回帰運動とか、ボブマーリーがライブ中に狙撃されて弾が腕に当たっても歌い続けた逸話とか、癌で死亡する直前に作って歌った「Redemption Song」のメッセージとか、何やかや50分間、喋りました。つまり、ジャマイカの人にとっては、必要不可欠なものなんだなと、K校長はsimpleな感想を述べました。が、K校長は、私の話以上に、レゲエについて、かなり正確に深いとこまで、つかみ取ったと感じました。本を読まなくて、耳学問だけで、人生を巧みに渡って行ける人が、教職の世界の中にもいると云う事実を知りました。

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