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自#076|まさに自己責任、まさに正解のない世界(自由note)

 稲垣吾郎さんと、伊坂幸太郎さんの対談記事を読みました。伊坂さんは仙台にお住まいになっているロックが好きな人気作家です。以前、稲垣さんが「ゴロウデラックス」のテレビ出演を伊坂さんにお願いしたんですが、伊坂さんは、テレビには出ない主義らしく、出演してもらえませんでした。

「テレビは、影響力が大きくて、怖いので(笑)、出ないようにしているんです。基本的に仙台で、のんびり過ごしていたいので」と、伊坂さんは説明しています。

 伊坂さんは、自宅では仕事をしないそうです。家にいると、好きな本を読んだり、Netflixを見たりするので、街のカフェで原稿をお書きになっています。
「スタバとかだったら、さすがに遊べないというか、勝手に『見張られてる感』を感じて、ちゃんと仕事をしようって気になるんです」と、仰っています。さすがに、仙台では超有名人ですから、嫌でも見られてしまっていると云うことは、容易に想像できます。

 朝、7:30くらいに家を出て、仙台の街中のカフェで仕事をして、夕方の17:00くらいに戻って来るそうです。つまり、サラリーマンと同じ生活スタイルです。土日は休むので、完全週休二日制です。自宅では、メール作業くらいしかしないようです。自宅に戻って来て、夕食までの時間帯に、メールを処理するんだろうと想像しています。

 執筆の際のルーティーンは、特になくて、珈琲を飲むことくらいらしいです。資料なしで、執筆するのはちょっとすごいなと、思ってしまいます。が、カフェの方が、周囲の変化があって、書き易いってとこも、多分、あります。

 私もたまに、スタバや、エクセル、ドトール、ミスドで、プリントやノートの原稿を書いたりします。店が違えば、文章のニュアンスは、少しずつ違って来ます。見えてる景色が違うからです。そこはまあ、確かに面白いなと思います。

 伊坂さんは、最新作の「逆ソクラテス」で、小学生が主人公の短編のアンソロジーを書いています。短編にしたのは、子供たちに読んで欲しいと、お考えになったからです。伊坂さんは
「僕の作品にしては珍しく、メッセージ性が強いというか、説教くさい感じです」と語っています。読んでないので、本当にそうなのか、or notなのかは解りません。

 私は、たかやん思い出ノートを書いて、小学校時代を振り返ってみようと、多少、努力したんですが、正直、片手間では、振り返られないと、2、3個書いて、痛感しました。小学校の頃は、やっぱり相当、しんどかったんです。客観的に見て、人生で、一番、辛い時代でした(正確に云うと中1の冬まで)。私は三人の子供の父親ですが、いい父親だったとは、お世辞にも言えません。家庭サービスも、子育てもしないで、学校の仕事(バンドの部活の顧問)に没頭していました。バンドの部活の顧問の仕事が、自分の人生のミッションだと云う確信はありましたが、結局の所、子育てから逃げていたとも自覚しています。それは、幼稚園から小学6年生までの子供に、語りかける文法と言うか、思考の枠組みと言うか、会話のコンテンツと言うか、とにかく語るべきものを、私が持っていなかったからだと、自己分析しています。まあ、もう子育てのサビの時代は終わりましたし、小学校の子供たちのためにボランティアをやったりすることもないだろうし、子供に語りかけることができなくても、別段、困りませんが、自分自身の子供時代のあの辛さを、文章の形で表現して、誰かとshareできるものなら、してみたいと云う気持ちはあります。これはまあ、完全リタイアしてからの課題です。

「『こうやって生きればいいよ』なんてことは、全然、僕も分からない」と、伊坂さんは仰っています。正直、そんなことは、誰にも分かりません。私は、高校の教師です。今も、取り敢えず、現役です。高校生に語りかける文法は、持ち合わせています。もっと正確に言うと、高校生以上、私自身の年齢にいたるまでの世代の人たちには、語りかける自信があります。高校生は、子供だけど、大人だと私は判断しています。その大人の部分を、相当、アテにしています。私は「こうやって生きればいいよ」と云った風なことを、割と具体的に提示します。その提示と云うか命題をAとします。そうすると、その命題を受け取った高校生は、自らの内部から、自身の決断で、命題Bを引き出して来ます。命題Bが引き出されるためには、命題Aと云う一種の触媒が必要なんです。私は、大前提として、「教師の言うことを鵜呑みにするな。自分自身の内部から結論を出せ」と、あらかじめ伝えてあります。

 コロナ禍で、自粛警察が大活躍しました。大活躍するのは当然です。小学校の教室は、自粛警察の巣窟みたいなとこです。自粛警察を助長する担任の先生だって、沢山います。先生が、たとえ助長しなくても、自粛警察は、自ずと発生します。日本は、つまりそういう社会なんです。漱石は、あれだけ苦心して、近代小説を書いたわけですが、ヨーロッパやアメリカのような個人主義は、これだけ西欧の文明をシャワーのように浴び続けて来ても、いまだ確立されていません。村八分になることを、コミュニティの構成員のほとんど全員が、やはり怖れています。

 稲垣さんは「前までは『国民的』とおっしゃっていただけるような大企業にいたけれども、今はフリーランスになった」と語っています。伊坂さんも、サラリーマン勤めの後にフリーランスになりました。UKロックですと、コステロあたりがそうです。

 コロナ禍で、テレワークが増えました。人間関係の曖昧な「あうん」の呼吸で、仕事をすると云うことがなくなり、シビアに成果が問われます。報酬はミッションを達成したかどうかで、支払われます。そうなると、「あうん」の呼吸で、経産省が、電通に全部、丸投げと云った事態は、起こり得なくなります。役所は、まだまだ、そこまでは行かないと思いますが、民間は成果主義で動くようになります。会社が社員の人生に責任を持つと云ったイミフな常識は、もちろん消滅します。食って行くために、人生設計をするために、複数の会社の仕事をこなしたりもします。つまり、フラーリンスです。フリーランス現象は、今後、加速します。

 稲垣えみ子さんと云うアフロのコラムニストは「自分はどんな人生を送りたいのか、仕事とは何か、お金とは何か、それをどう使えば幸せになれるのか、どんな人と仲間になり、生きていくのか、すべて自分で決め、その結果も自分が追う」それが、フリーランスだと云う風なことを書いていました。まさに自己責任、まさに正解のない世界です。with コロナ時代は、より面白い社会になって行くだろうと云う気はします。長生きして、私もwith コロナ時代を、自分なりのスタイルでenjoyします。

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