見出し画像

自#150|判らないからこそ、追求し続ける(自由note)

 講談師の神田伯山さんと、作家の北方謙三さんの対談記事を読みました。二人の立った姿の写真が掲載されています。北方さんは、今でもマッチョで、ボルサリーノの帽子を被って、白いスーツを着て、ハードボイルドな雰囲気を漂わせています。伯山さんは、和服を着ているので、はっきりとは判らないんですが、やはり、それなりに身体を鍛えているような外見です。講談師は、落語と同じように、座布団に座った状態で声を出します。たとえマイクを使ったとしても、日頃から身体を鍛えておかないと、「芯」のある声は出せません。

 伯山さんは、直木賞のような文学賞の選考について「選考委員の方々に、書く能力があるのは判りますが、全員が、読む能力もあるんですか?」と、北方さんに素朴な質問をしています。これは、私でも答えられます。文章を書いている方は、全員、読む能力もあります。楽器の演奏をしている人が、全員、聞く能力があるのと、そこは同じです。北方さんは「書く能力よりも、読む能力の方が高い人も多い。読む能力に関しては、すごいけど、あなた自身は、ここまで書けないだろうと、自分を含めても、思うことがある」と、正直に返事をされています。読む能力は、書いていれば伸びて行きます。読む能力は、努力で身につけることができます。書く能力は、ある一定レベルまで書けるようになったら、そこから先は、才能なんです。つまり、これも音楽と同じです。楽器の演奏も、才能がなければ、ある一定レベルに到達すると、頭打ちです。

 読む能力は、いくらでも身につけて行くことができます。他人の作品の批判も、正直、簡単にできます。批判が文句を言うことだったら、これは本当に赤子の手を捻るより簡単です。ネットが炎上するのは、文句を言うことが、容易で簡単だからです。正義も公平もバランス感覚も不要です。人間は、本能の赴くままに、文句が言えます。「じゃあ、オマエ、書けるのか、楽器の演奏ができるのか」と聞かれたら、まあ、文句を言っている人にはできません。そういうことができる人は、文句を言ったりと云った非生産的なことは、普通しません。

 作家も講談師も下積み時代があります。北方さんは、若い頃、1ヶ月の半分は、肉体労働をして1ヶ月分の生活費を稼いで、それを奥さんに渡し、残りの半月で小説を書いていたそうです。原稿は売れなくて、売れてない原稿が、いつの間にか自分の背丈を超えていたと仰っています。伯山さんは、24歳で神田松鯉さんに入門し、20代で二つ目に昇進し、32歳の時、読売杯の二つ目バトルで優勝していますから、下積み時代を、最短で駈け抜けたと言えるのかもしれません。

 一般論ですが、男たちは、30歳を過ぎたあたりで、自分の才能について自覚するようになるんだろうと思います。北方さんは、下積み時代、純文学の小説を書いていました。周囲には中上健次や立松和平と云った純文学の旗手がいます。北方さんは、純文学と云うのは、書くべきものを持っている人が書くものだと、気がつきます。中上健次も立松和平も、書くべきものを持っていました。が、自分にはそれがないと理解して、純文学から大衆文学の方に、ベクトルを大きくchangeします。

 その後、ハードボイルド小説を書いて、売れ始め、毎月、単行本が出るくらいのペースで、ハードボイルド小説を書きまくります。が、ある時、このままだと「縮小再生産」に陥ってしまうと気づきます。その内、自分自身の過去の作品をぱくってアレンジするようになってしまいそうです。そこで、男たちが一生懸命生きて倒れる、そういう小説を書こうと思い、歴史の勉強をして、歴史小説を書き始めたそうです。

 伯山さんは、現在37歳。「37歳の私に、何かアドバイスをいただけませんか」と、問いかけると、北方さんは「ない」と、きっぱり言い放ちます。うわぁ、カッコいい、これが大人の男たちの会話って感じです。私がK高校に勤務していた頃の担任クラスの教え子が、現在37歳。手紙とかが届いたら、老婆心で、いろいろと言わずもがなのアドバイスをしてしまいます。教師ってそういうものなんです。いつまでたっても、教え子は昔の生徒のままで、余計な心配をして、お節介なことを言ってしまうんです。

 北方さんは、歴史の勉強をして、南北朝シリーズの「武王の門」とか「破軍の星」と云った作品を書きます。南北朝と云うのは、つまり南北に天皇が二人いた時代です。二人いれば、当然ですが、どっちが正統なんだと云う風な議論になってしまいます。一応、南朝の方が正統ってことなんでしょうが、そうすると「戦前の教育か?」みたいな批判が届きそうです。実際、北方さんは自宅には「殺すぞ」と云った電話がかかって来たそうです。北方さんは、「電話で人殺せんのかよ、バカ野郎!」と、言い返したそうですが、やはり、日本の天皇が登場する小説は、いろいろとリスクが高すぎます。で、三国志とか、水滸伝、チンギスハンと云った中国の歴史小説を書くようになります。中国の歴史小説はいくら書いても、中国の現体制を批判しない限り、クレームは届かないと想像できます。

 北方さんは、「表現と云うのは同じで、どんな題材を扱っても、書く人間の人間観とか世界観が出てくる。それは誰にでも判り、誰にでも面白くないとダメ。が、本当は誰にも判らないものがある。それが表現の本質だ」と語っています。実例として、シェークスピアを上げています。「中学生が読んでも、作家が読んでも、哲学者が読んでも、面白い。しかし、それだけの人が読んでも、シェイクスピアの中に、誰にも判らないものがある」と。誰にも判らないものがあるからこそ、その謎を突き止めようと、ハムレットやリア王が、endlessに上演され続けて来たと云った風なことなんだろうと思います。ジョンレノンの「Imagine」と云う作品が、そういう曲です。「Imagine」は、小学生にだって判ります。all over the worldの人たちが理解できる、simpleな判りやすい曲です。が、「Imagine」の曲の中には、平和の本質のようなものがあります。平和の本質なんて、誰にも判りません。判らないからこそ、平和を追求し続けると云う逆説も成り立つような気がします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?