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自#118|勢津子おばさんの青春物語~その11~(自由note)

 広島で被爆された、切明千枝子(きりあけちえこ)さんと云う方のインタビュー記事を読みました。切明さんは、広島第二高等女学校に入学しましたが、勉強をしたのは、1年生の時だけで、2年生からは、学徒動員で、軍の施設で奉仕活動をしていました。広島には、被服支廠(ひふくししょう)、兵器廠、糧秣支廠(りょうまつししょう)と、陸軍の兵站(へいたん)を支える三つの軍需工場がありました。切明さんは、この陸軍の三廠全てに行っています。

 切明さんの実家は被服支廠の正門近くにあって、子供の頃は、工員さんたちが通勤して来るザクザクと云う足音で、目が覚めたそうです。切明さんの母親が被服支廠の会計係の仕事をしていたので、切明さんは、構内の保育所に預けられます。ダッダッダッと、動力ミシンの音が、外まで響いて、新しい軍服が次から次へと、縫われて行ったそうです。構内に鉄道の線路が引き込まれていて、倉庫から荷物を貨車に積んで、港に運びます。広い構内では、ウサギも沢山飼っていたそうです。あらゆる種類のウサギがいて、ウサギに大根やニンジンの葉っぱをあげるのが、楽しみだったそうです。このウサギは、軍服の外套の裏に付ける毛皮の保温力を調べるために、飼育していました。

 切明さんは、第二高女時代、被服支廠に行って、最初はミシンで軍服を縫っていました。が、戦争末期になると、軍服の古着の洗濯をするようになります。銃弾の跡で穴が開いていて、反対側にはべっとり血がついています。血染めの軍服を、洗濯板の上に載せ、固形せっけんとタワシをこすりつけて、手洗いします。乾いたら、破れた部分を繕います。新しい軍服を縫う材料が、なくなっているんです。先生に
「日本は大丈夫でしょうか?」と聞いたら
「言霊が生きている。(そんなことを言ったら)本当に負けてしまう」と、叱られたそうです。

 切明さんは、1944年からタバコを作る広島地方専売局に動員されます。
「戦争の役にたたん」と、不平をこぼすと、先生は
「たばこも、立派な軍需品。これ以上、働けないと云う時に、一服したら、元気になる。心をこめて作れ」と、激励したそうです。

 専売局は、毎日、立ち仕事で、足が関節炎になり、8月6日の朝、2時間ほど休みをもらって、病院に向かう途中、ピカっと光って、気を失ったそうです。爆心地から2キロくらい離れた場所です。意識を取り戻して、頭にガラスが刺さっていることにも気づかず、昼前に自宅に戻ります(その後、学校に行った様子です)。第二高女の後輩たちは、爆心地近くの建物疎開の片付けに行っていて、多くの女学生が犠牲になりました。何人かは学校に戻って来ますが、助ける手立てはなかったようです。全身水ぶくれで裸同然。真っ黒いワカメのようになった皮膚を、引きずっています。それを先生が、手でちぎって捨てたら、細い声で「ありがとう。これでちゃんと歩ける」とつぶやいて、理科の実験用の机をベッドにして寝かせると「お母ちゃん、お父ちゃん」と言いながら、ふと安らかな顔になって、次から次へと死んで行ったそうです。木造校舎の窓枠をへし折って、薪の代わりにして、遺体を焼きます。火が回ると、胃とか腸とか、空気が入っている臓器が、自転車がパンクするように、パンパンと破裂して、刺激で手足が動くそうです。「まだ生きてるじゃありませんか」と仰天したら、先生に「見るな」と叱られます。が、震えながらも見てしまったそうです。下級生たちの骨は、桜の花びらのような淡いピンク色をしていて、それを見て、初めて涙が出たそうです。

 沖縄の多くの戦後のひめゆりたちが、そうであったように、切明さんも、多くの同窓生が死んでしまったのに、自分は生き残ってしまったと云うトラウマを抱えて、生活をされて来た筈です。戦後、第二高女を卒業し、広島女子専門学校(現、県立広島大)に進み、県庁に就職します。進学、就職、結婚、出産、子育てなどで忙しく、戦争のことを積極的に思い出したことは、なかったそうです。が、5年前、85歳になった時に、広島平和記念資料館で修学旅行生に語る活動を始めます。

「あと、いつまで生きているか判らないような時になって、初めて、本気になった」と、切明さんは仰っています。被服支廠が、地震で倒壊する恐れを理由に、広島県は解体を表明しています。切明さんは、被服支廠の保存も訴えています。あと10年もすれば、被爆体験をリアルな思い出として語れる人は、ほぼいなくなってしまいます。が、建物を残しておけば、「戦争はいけん」と訴える「物言わぬ証人」として生き続けます。

「黙って、じっと座っとっても、平和は向こうからやって来てくれません。一生懸命、たぐり寄せて、つかんで、力を尽くして守らないと。それをわかってもらいたい。でないと、平和なんてものは、うたかたのごとく消えてしまう」と、切明さんは仰っています。

 府立第四高女に通っていた勢津子さんたちと、切明さんたちとの時代の差は、わずか5、6年です。わずか5、6年ですが、天と地の違いがあります。東京と、原爆が落ちた広島の違いも無論あります。が、東京だって、東京大空襲もあり、勢津子さんも戦争末期は苦労されています。私が、若い頃に話を聞いた、勢津子さんと同世代のお茶の先生や、社中の方々は、直接の戦争の被害(家族や親類が戦死したと云う悲劇はありますが)は、受けてません。戦争よりも、戦後すぐに起こった南海大地震の方が、はるかに大変な悲劇だったようです。子供の頃から、南海大地震のことは、それこそ何回も聞かされました。B29戦闘爆撃機が、上空を通過したと云う話すら聞いたことがありません。四万十川の河口のごくちっちゃな小京都の町を、攻撃するメリットは、多分、ほとんどなかったと、理論的にも言えます。私の母は、大阪の海軍の寮で、まかないの仕事をしていました。空襲に遭って、焼け出されています。生きている間に、少しくらいは、話を聞いておけば良かったかもです。

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