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菅さんの出自について思うこと

8月末から自民党総裁選のニュースでもちきりだ。次の首相があと数日で確定するというのだ。確定は9月中旬。緊急で決する前提条件でいうと、各派閥が誰を推すのか、その表明を総合して考えると菅さん一強でほぼまちがいないだろう。各派閥の人数を足し上げると、客観的に過半数を突破できる外観になっているからだ。

菅さんの経歴は総裁選の出馬表明で出自の説明がされたこともあり、この短期間のうちにメディアも多く取り上げている。わたしは以前から菅さんの出自について、わたしなりの思いもあって知っていた。相当の苦労をした方だと思っている。

菅さんは地方(秋田)で育ち、地元の高校を卒業して、集団就職で都内の段ボール工場(肉体労働)に就職する。現実の厳しさを知って、視野を広げるために働きながら貯金をして大学入学を志す。2年間、アルバイトでお金をためて、「私立で一番学費が安かった」法政大学第一部法学部政治学科に進学し卒業する。その後は政治の世界で頭角を現し、直近では令和おじさんとして知名度もかなり上がっている。

菅さんの出自と経歴は、わたしと共通する部分がある。これから首相になる確度が高い方と自分を並べて共通点を見出すことは、大変おこがましいことかもしれない。このような比較に違和感を持たれる方も多いと思う。菅さんの出自については一度、ご自身の目でも確認してみてほしい。おなじような苦労をしていなかったとしても、当時たいへんだったんだろうな、と想像することはできると思う。

地方で育ち、地元の高校を卒業して、集団就職で東京にきて、肉体労働についた点について、わたしも自分の半生を思い返すと、思うところがある。


わたしの場合は、地元の高校を卒業して地元の専門学校を卒業した。高校生のころ大学への進学は考えもしなかった。勉強も好きではなかったし、成績もよくなかったし、家計も苦しかった。高校2年生くらいから大学進学について考えることをやめた。

当時、わたしは大学に進学しなかったが、最終学歴は法政大学法学部法律学科だ。いきさつなど詳しいことは別な機会で整理したいと思っているが、実のところ、つい数年前まで法政大学の学生だったのだ。大きなくくりでいうと、法学部の後輩にあたる。菅さんは「私立で一番安かった」といっている。当時から通学の学費も、通信制大学の学費も私立の中では安かったのだろう。

通信制大学の学費は通学に比して割安だ。わたし場合は入学金12万円と、毎年8万円の学費だった。あとはテキスト代、スクーリング代など、必要に応じてかかる。テキスト代、スクーリング代など、入学から卒業までの費用をトータルしても、卒業までの4年間合計で、100万円はかかっていない。スクーリングを多く取れば、それだけスクーリング費用が別にかかるのだが、参考文献は図書館を活用したり、古いテキストを格安で手に入れたり、地味な節約の努力も欠かさずにしている。現在でも、私立の通学過程とくらべれば格段に安いことはご認識いただけけたと思う。学びの質については、通学課程と変わらない。同じ学位を取得することができるので、いまも昔も、経済的な事情や働きながらでも学位取得をしたい方におすすめできる大学の一つである。必要な人にはいつも門は開かれている。

わたしが就活しているころに話を戻す。

1990年代後半は、就職氷河期を迎えていた。地元の求人はまるでなかった。専門学校の掲示板に、求人票が張り出されているのだが、笑ってしまうくらい求人票が増えることがなかった。わたしの記憶ではトータルでも20社くらいしか求人票は張り出していなかったように思う。

<当時のリアルな求人票を思い出した範囲で記載>

・営業 歩合制 5万円

・ホテル 深夜勤務込 12万円

・某有名ホテルの海外勤務 12万円

これが当時の地方にある専門学校で、就職氷河期のリアルな現実だ。いまの就活の状況はどうなのだろうか。コロナ禍で就職氷河期よりもさらに厳しい状況になると個人的には見ている。若い世代にはおなじような苦労はしてもらいたくないものだが、就活の用語に「NNT」という言葉があるそうだ。「ないないてい」と読む。「内定がない」という意味らしい。ここ数年、売り手市場と感じていた中、既にこのような言葉が流行っていることからも、今年の就職戦線は厳しいものになると予想している。

当時は求人すらないので「QNT」といえるかも。求人も、内定もない。限られた選択肢の中から、条件が悪かろうが、たくさんの同期とたった一枠程度の採用枠を奪い合うことが行われた。あの頃、席を奪い合ったみんなは、いまもげんきに過ごしているのだろうか。

わたしは当時、某有名ホテルの海外勤務に絞っていた。海外勤務なら、同期との競争率も低いだろうと思っていた。高校に在学中、短期ではあったが、海外留学経験をさせていただき、海外で働くのなら若いうちならよいかな、と考えていた。勝手に海外勤務に照準を絞っていたのだが、思いのほか希望者がいた。結局、同期との競争に負けてしまった。ここからわたしは就活で負けまくることになる。

仕方がないので、地元のビジネスホテルやら、求人雑誌を調べまくって、申し込んだ。残念ながら上記のような月給と待遇がほとんどだ。採用してもらえるような枠がほんとになくて事前に断られたことのほうが多い。

出遅れたことも確かだが、そもそも給与があまりにも低いと感じていた。ピザ屋の配達のほうがよっぽど稼げただろう。まともに一人で生活できるわけがない。そこで都内での就職に気持ちを切り替えた。専門学校は都内にツテはほとんどなかった。それに就職活動でなんども都内に行けるほど、お金の余力もなかった。2社ほど遠征したものの、1社はおなじく同期との競争にまた負けた。もう一社は箸にも棒にもかからず連絡すらなかった。

就職できない状況になるくらいなら、高卒で早く働いたほうがよかったのではないだろうか。そんな思いも感じていた。高校は奨学金を受けていたので、わたしの感覚としては専門学校の学費は決して安くはなかったのだ。進学できたのは、高校のときに祖父が亡くなり、決して多くはない遺産相続を受けた。その中から専門学校の学費を優先して捻出していただいたのだ。専門学校に行ったことは無駄だったかもしれないなと感じていたが、最終的には、卒業前に就職先はなんとか決まったので、よかったと安堵したのを覚えている。

最終的には、ギリギリのところで、都内勤務の話が舞い込んだ。これ幸いと、その案件にすがりついて、どうにか内定いただけた。ほんとにこれでよかったと思ったが、決まったのは、個室の寮がある運送会社(肉体労働)だ。基本給は12万円だった。もうこれしかない。条件については気にしないことにした。労働条件は働いてみるとよくわかるのだが、就職するとき、転職するときは、就業規則をよく読んで、あらかじめ理解したほうがよいことだろう。違法ではないが、休日の数とか、労働時間とか、定休日とか、条件は企業ごとに相当違うのだ。転職を考えるときにはよく吟味したほうがよい。客観的な意見を求めるのもよいかもしれない。

運送会社では隔週2日、つまり土曜日は2週間に一度は出社だった。日曜出勤も数ヶ月に1回は出社が必要なローテーションだった。代休は取得できなかった。営業所の人数が最低人数しかいないからそもそも体調不良で休むことも難しい前提なのだ。勤務時間8:30-21:30までが前提。これは貨物の発送スケジュールと、一日の締め作業時間を勘案すると、毎日、定時で帰れるわけがない。残業ありきの業務なのだ。寮から勤務先まで1時間半かかることも想像が足りていなかった。仕事は完全な肉体労働である。当時のわたしにはその選択肢しか残っていなかったのだ。それでも働くことは楽しみで、地元を離れて東京で働くことを想像すると、夢が膨らみ気分も高揚した。

卒業式を済ますと、3月から研修があるということで、わりとすぐに入寮することになった。入社前の研修としてアルバイトをするように言われていた。3月は引っ越しシーズンだ。運送会社は引っ越し荷物の取扱いが多く、てんやわんやの日々なのだ。研修と称しているが、若い労働力の確保が目的なのだ。寮から1時間半かけて出勤。そこでは毎日、延々と荷物を積みこみをした。朝の8:30〜22:00頃まで。引っ越しの荷物を延々と積み込んだり、おろしたりだ。頭も体もおかしなことにすぐなった。

まず、わたしは考えることをやめた。余計なことを考えはじめてしまうと心が折れてしまうと思った。この頃、音楽で成功したい想いもあったが、想像していた東京での暮らしは、わずか数日で、現実の厳しさを叩き込まれた。地元に逃げ帰ることもできない。頭の中では常にハードロックをよく流すことにしていた。当時も今も好きなX JAPAN、LUNA SEA、LOUDNESS、OZZY、そういう曲を頭の中でよく流していた。肉体労働を続けるにはハードな曲があっていると思う。そうやって頭を空っぽにして、音楽を頭に流していたほうが体も動きやすいし、心も折れにくい。そういう目の前の苦難をやり過ごす方法を体得した。単に音楽でつらい現実を逃避しているのだが、そうでもしないとやってられないのが現実だ。地方から出たばかりで、無限に感じる10tトラックへの荷物の積み込み作業を延々続けているのを想像してみてほしい。そして何人かが脱落した。

当時は長時間労働と肉体労働が続いていたので、体は筋肉質になった。昼に弁当を2個食べても痩せるくらいだった。それだけ消費カロリーが高いのだ。アルバイト期間を終えても本質的には業務内容はかわらなかった。仕事との因果関係はなかったと思うが、この頃から群発頭痛という頭痛にたびたび悩まされるようになった。

群発頭痛は今でこそ知名度も上がっていると思うが、当時わたしは片頭痛の一種と思っていた。群発頭痛なんて名前は知らなかったし、調べようもなかった。どうやら1,000人に一人程度はいるらしくて、男性に多いそうだ。必ずどちらかの目が痛くなる。あまりにも痛すぎて、痛みから逃げるために、自殺してしまうこともしばしばあるという頭痛。ただし、この頭痛が原因で生死をさまようようなことにはならない。死にはしないが、発作中の30分〜1時間程度は、猛烈に目の奥がえぐられているように痛いだけだ。群発期は毎日頭痛になるので日に日に精神的にも参ってくる。当時は頭痛のこともよくわからなかったが、毎日、右目が猛烈に痛くなるのだ。発作中は車の運転どころではなかったので、危ないと思っていた。

群発頭痛はその後20年以上、付き合い続けた結果、ここ数年は格段に落ち着いている。直近で発作が起こったのは1年くらい前に1週間程度のごく短い期間の軽い発作にとどまっている。ようやく寛解状態になったと言える。発作が収まっている理由は本人もよくわからない。もしかしたら過度なストレスと過労が原因なのかもしれないし、たまたまいまは発作が少なくなっただけで、これから先のことはわからないが、率直な感想として、かなり生きやすくなったと思っている。頭痛がないことが、こんなにも素晴らしい日々なのだと、素直に言える。群発頭痛のことを知らずに悩んでいる方もいると思うのと、1,000人に一人って結構な人数だと思うので、案外多いようにも感じる。別途、もう少し踏み込んで整理したいと思う。

群発頭痛がなくても車の運転には常に危険があった。そもそも車の運転が下手だったので、とことん運送会社の仕事は向いていなかった。仕事として続けることで、2tロングまでは運転できるようにはなっていた。乗用車に比べて、トラックのほうが視点も高くて運転しやすいとは思う。

ある日、運転中、車道に落ちていた段ボールが風に煽られてフロントガラスに張り付いたことがある。自分でも恐ろしいくらい冷静にフロントガラスの段ボールを取り除いたが、視界が遮られていたので、あと数秒時間がかかっていたり、パニックを起こしていたら死んでいたかもしれない。

都内に大雪が降った日。わたしはチェーンを装備して、細心の注意を払っていたが、T字路で大型の車に巻き込まれた。怪我はなかったが、わたしの車はベッコリと凹んだ。このまま車に乗る仕事は危ないと心底思った。

これだけが原因ではないが、色々と限界を感じていたので、なるべく上司と揉めないように、(とても怖い人だったので)退職日の引き伸ばしを受け入れながらも、揉めないことには最大限の気を配りながら、入社して1年半で次の就職先も決めずにやめた。当時は苦労した反面、色々と精神的にも肉体労働で鍛えられたことは間違いない。経験なのですべて否定することはしないが、もっと自分にあった会社を選択できる環境だったらよかったのになとは思っている。

菅さんの場合はわたしよりも、もっと過酷な労働環境だったと思う。働きながら学ぶのも、今よりもっと、たいへんだったことだろうと思う。こういう事情もあって、菅さんの出自について勝手ながら尊敬の念をいだいている。

※初稿で菅さんは法政大学第二部と記載しましたが法政大学一部の誤りでした。記事を修正しました。お詫び申し上げます。


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