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長崎の夏

    おととしの夏休みだった。パパが運転する車の助手席に乗り,休憩を挟みながら高速道路を走ること約2時間。僕らは午後3時前に長崎のおばあちゃんの家に着いた。おばあちゃんちの庭ではセミがうるさく鳴いていた。暑い日だった。
 長崎には坂が多く車が通れない道も多い。家と駐車場が相当離れていることも珍しくない。おばあちゃんちもそうだった。おばあちゃんは,縁側で扇風機の風を受けながら座っていた。
「よう来たね。待っとったよ。」
 
 パパは仕事の関係で直ぐに出かけなければいけなかったらしく,冷蔵庫から麦茶を取り出すと勢いよくコップに注いでゴクリと飲み干し,
「そいじゃ行ってくるけん。晩ご飯は先に食べとって。」と1度も座ることなく駐車場に向かって行った。
「あぎゃんあせがらんちゃよかやろに。」おばあちゃんは呆れたように言うと,
「クーラーば点けようか。あんた達が来る時間の分かっとけばいれとったとに。」と居間のクーラーのスイッチを入れた。
 1学期の通知表で図工と音楽以外はまあまあだったことを伝えていると幾分クーラーが効き出した。おばあちゃんは,僕の話を嬉しそうに聞いていたが,
「そうやった。そうやった。ちょっと待っとかんね。」
 おばあちゃんは,思い出したように台所に向かうとトウモロコシを持って来てくれた。朝から茹でていたようだ。

 ザルに山盛りにされたトウモロコシの中から僕は一本を手にし、太い方から細い方へ回しながら食べていた。
「今日は長崎の小学校では登校日になっとるとよ。」
 おばあちゃんがそう言って話し始めた。
「えっ?」
「なんでか,知っとるね?」
 知らなかったので,黙っていた。
「今日は8月9日。長崎原爆の日。」
「げんばく?」
「そう。原爆の日。アメリカから『ピカドン』ていう原子爆弾ば落とされたとさ。」
 正直,僕は,おばあちゃんが何を言っているのか分からなかった。
 おばあちゃんは,遠くを見ているような目をして,
「十歳やったから,あんたと同じくらいの年やった。」と言った。
 そして,その目が再び僕に向けられると,話が続いた。
「いつか話してみようと思うとったとよ。おばあちゃんもあんたのパパも長崎で生まれ育ったけん,原爆の話ばするとは大げさに言うたら役目みたいなもんじゃろと思うとった。パパから原爆の話は聞いた事あるね?」
 僕は,首を横に振った。
「おばあちゃんは,あんたのパパには,あんまり話さんやったけんね。」
「どうして?」僕は,聞いた。
「よか話じゃなかけんね。思い出しとうもなかし。」
 おばあちゃんは話を続けた。
「おばあちゃんが小学生の頃はアメリカと戦争しよって,最初は日本が負けるとは思いもしよらんやったとばってん,そんうち子供ながらに本当に勝てるとやろかて思いよった。おばあちゃんの兄ちゃんは2人も戦争にとられたし,おばあちゃんのお父さんも最後の年に赤紙が来て,男はみんな戦争に行くようになるし,長崎は造船所のあったけん空襲もひどくて,しょっちゅう防空壕に入りよった。」
 僕は戦争があったことは知っていたけど,おばあちゃんの話に出てくる言葉がよく分からず,だまって聞いていた。
「忘れたくても忘れきらん。昭和20年8月9日。空には雲が出とったけど,今日のごと暑か日で,昼に食べるトウキビ(*トウモロコシ)ば畑に取りに行かされた帰りやった。何となしに空を見上げたら,キラキラ光る飛行機が2つ飛びよった。今思えば、そいがB29やったとたい。空襲警報が鳴りよったかどうかも覚えとらん。その後が凄すぎて。突然,雷が足元に落ちたようにピカッて光って,それからメリメリメリ,ドーンって耳ばつんざくような音がして。それから地面から真っ黒な雲が湧き出して,昼なのに真っ暗になって。台風のごたる風が一瞬で向こうて来て,いろんな物が飛ばされたり,上から降ってきたりしよった。…もう何が何か分からんとよ。何もできんやった。何も聞こえんごとなった。しばらくつっ立っとったとかな。自分がその後に何ばしとったかも思い出せん。気がつけば目の前に地獄が広がっとった。長崎の町が消えてなくなっとった。一面が焼け野が原になって,自分の家に帰る道も分からんようになっとった。焼け落ちたコンクリートの建物だけば目印にしながら家に帰ろうとした。火事が当たり前のように感じるくらい,あっちもこっちも。亡くなった人たちば何人,何百人と見ながら,自分の家だけは奇跡的に無事じゃなかやろかって,うっすら考えとった気もする。今,思えば馬鹿んごたるけど。」

「爆弾が落ちてからずっと夕方みたいになっとったけん,家に着いたとが何時やったかも覚えとらん。家と言うても家の跡。いつの間にか裸足になっとって,一生懸命おばあちゃんのお母さんと弟ば探したけど,もう焼け出されとって。ほかの遺体と重ねられて,焼くのば待たされとった。」

 話が途切れたので,僕は,聞いてみた。
「悲しかった?」
「悲しいと思ったのは,だいぶ後。涙が出たともずいぶんと時間が経ってから。本当に悲しかときには涙も出んとよ。畑に行く前と帰ってからでは世界が変わっとった。『ピカドン』が…。ピカドンが一瞬で,なんもかんも家族も家も長崎の町も全部奪うてしもうた。そんときの背中に背負っとるトウキビのむなしかこったい。誰のために畑に行ったとやろかと思ったら背中がずしーんと重くなったとば覚えとる。」

「おばあちゃんは,助かってよかったね。」
「そう。あんとき畑に行かされとらんやったら,おばあちゃんも死んどった。そしたら,あんたもあんたのお父さんも生まれとらんやった。命は奇跡が繋いでいくとよ。そいけん,命は大切にせんばとよ。」
 命は奇跡が繋いでゆく。その言葉を思い出しながら,先月亡くなったおばあちゃんに手を合わせた。涙は出さなかった。          

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