精神年齢について
※あらかじめ記載しておきますが、宗教的な話ではありません。
宗教は一つの価値観ですが、私はどこにも信教していませんし、
その仕組みを認識しています。
最近不思議に思ったので考察してみる。
身近にこんな人たちはいないだろうか。
・結構年も離れているのに、自分の年代に流行ったことに精通している
・仕事中、嫌なことがあって泣く
・非常に冷静な未成年
このような思いを抱かせる要因は、見た目と態度(振る舞い)のギャップ、ではないか。
そう、俗にいう精神年齢である。
私は仕事の都合上、顧客や従業員の精神年齢の値が記録されている書類を目に通すことがある。
そこに記載されている数値は、総じて実年齢から乖離している。
どうやら、人は実年齢=精神年齢とみなさないようだ。
ということは、肉体と精神は別のものであると認めていると言える。
肉体と精神の話は延々と続くので、「別のものとして存在している」を前提として話を進める。
過去の記事に記載したことがあるが、「時間」は人間が都合のために作り上げた概念に過ぎない。
すなわち、人間の年齢も都合がいいから設定されていると言える。
ある規則に従った数字がそれに当たるのだが、
年齢とは「四季の1サイクルの回数」だろう。
春夏秋冬を何度迎えたか。(日本の場合)
その数により、肉体は変化する。
ある地点を迎えるまでは肥大し、登頂後は機能不全に向かい始めるのが特徴だ。
そして、現在では四季を80回ほど迎えた後、肉体は機能停止する(寿命を迎える)。
これが肉体の周期なのだが、どうやら精神は異なるらしい。
上記した精神年齢の調べ方は、ペーパーを使った簡単なテストにより算出される。
このペーパーは人間がある基準に基づき作成したものであることが想定される。
つまり、絶対的なものとは言い難い。
相対的な存在でしかない人間が、相対的に知りたいを見たいために選択した方法だからだ。
しかし、それでも明らかに、年齢を重ねた肉体と統合できないような振る舞いは見受けられる。
やはり、肉体と精神の変化には差があると言わざるを得ない。
その変化の速度は個体差なのか?
どのようにして変化を測定すればよいのだろうか?
そもそも変化するものなのか?
私が考えたことはこうだ。
「精神の変化=経験」
個体差といえば個体差、測定方法は無いが、変化はする。
エビデンスがあるだろうとインターネットを調べたら、ずらずら同じようなことがヒットする。
どうやら仮定はだいたいその通りらしい。
そこでもう一つ気になることに思い至る。
この精神にも、肉体同様、寿命(機能停止する)はあるのか?
インターネットの記事は、特徴だとか、高め方ノウハウだとか、表面上の話題に終始しているようなので、そこで確認は取れなかった。
測定方法は存在しない。
それは他人の考えていることがわかるか?ということと同義だからだ。
そうして突き詰めると「精神とは?」の無限ループに突入する。
つまり、何が何やらわからないものの上に立つ概念なのだから、わからない、に尽きるのだ。
だから、そもそも「精神年齢」は存在しないし、上限なども当然ない、と至る。
しかし、肉体と独立した精神というものは存在している。(前提条件からすると)
ということは、精神は、経験を重ねれば重ねるほど、無限に変化するものなのではないだろうか。
そう考えると、ワクワクしてこないだろうか。
肉体の強化には限度はあるが、精神はいつまでも鍛え続けられる。
世の中は努力したからといって、必ず思いが成就するとは限らない。
なぜなら、その努力の先が外部に向いているからだ。
1番になる。お金持ちになる。モテたい。いい成績を出したい。・・・
しかし、精神の成熟にフォーカスすると、全て成就する。
経験を重ね続け、身に着ければ良い。
金も、
異性も、
名声も、
はっきりいってくだらない。どうでも良くなる。
哲学の父、ソクラテスはこういった
「人間にとって最も大事なことは魂の世話をすることだ」
肉体が機能停止するまで、精神は鍛え続けられる。
いや、それも怪しい。
肉体が止まっても、精神は止まらないかもしれない。
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