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社会とマイノリティ

おはようございます!
 
脳性まひのお医者さんである
熊谷さんのお話の続きを書こうと思います。
 
障害は少数者と社会のずれであり、
ずれを調整する方法は
少数者が社会に近づく「医療モデル」か、
社会が少数者に近づく「社会モデル」か、
の二つという話でした。
 
この社会と表現されている
標準や常識や平均といったものの
守備範囲が狭くなってきているのではないかと私は感じています。
 
ある環境が比較的安定的に続くと
効率を追究し無駄のないやり方を求めて、
それが標準だとされていきます。
私がそれを初めて感じたのは
中学受験の学習塾の教材でした。
私が受験した時と同じ有名塾なのですが、
そのプログラムの精緻華麗さには
舌を巻きました。
これ以上ない、この他にはないというほど
突きつめられていました。
しかし、そのプログラムの狭さも感じました。
勉強とはもっと、
無駄や試行錯誤があるものではないか?と。
 
こうしたことが会社や病院や学校など
いろいろなところで進んで、
社会の標準が狭い道になったと思うのです。
 
また、別な観点から言うと、
社会が成熟していくと
多様化が進むとも言われます。
ビジネスの世界では、
その製品の普及がひと段落すると、
製品の種類がどんどん増えていきます。
自動車ひとつとっても、若者向け、女性向け、
家族向け、高齢者向け、
スポーツバックのようなカジュアル車
というコンセプトも出てきます。
 
ネットの普及もこれに拍車をかけています。
昔は朝日、読売、毎日の新聞を
皆が読んでいたので
その中に常識がありました。
しかし、今は、ネットで
個人が好きなニュースに触れますから、
えっ?!そんなことも知らないの?
となる場面が増えています。
 
熊谷さんは障害を
少数者と社会のずれと表現されましたが、
社会自体が
マジョリティというものではなく
狭くなり、細切れになって、少数化している
と感じます。
 
そして、
自分は少数者だと孤独を感じる場面が
増えているのではないでしょうか?
 
今日もよろしくお願いします。
 
安島

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