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心配されたくない。

SNSを見ていると毎日のように知り合いたちの幸せそうな写真とコメントが次々と流れてくる。

私も何年か前まで、美味しそうな食べものの写真を撮ったり、綺麗な景色を撮ったりということを常に意識していた。
写真を撮ると、アプリを使ってより美しく、綺麗に、美味しそうに、より良く見えるように加工して、人の目を意識した取ってつけたようなコメントを添えて周りにシェアしていた。そうして、幸せな暮らしを偽装していた。

投稿した写真の一覧を見ると、周りのみんなと同じ、充実した日々を送っている人のように思える。ニセモノの私。ホンモノの方の私は、毎日からっぽの心で生活を送っているのに。

「幸せ〜」
「最高〜」
「ありがと〜会いたいね〜」

そんな定型文とハートやキラキラの絵文字が乱用された文章。

「誰だよ、おまえ」と毎度突っ込みながら、真顔でキラキラの文章を入力し、画面上に幸せな私を作り上げていく。
しばらくは「いいね!」の呪いに支配され、頑張って最高の私を演じていたが、だんだん面倒くさくなってきたので投稿するのは止めてしまった。


誰に強要されているわけでもないのに、どうして私はマイナスワードをひた隠しにしてしまうんだろう。

以前、みんなのハッピーライフの中にひとつだけ、誰かに対する怒りの感情がぶちまけられた投稿が混ざっていたことがあった。その文章は明らかに浮いていた。空気の読めていない記事であった。

「〇〇さん、最近やばいよね!」
「病んでるよね!」

そんな話題が友人のあいだで浮上したこともあった。
この人の場合は普段のキャラと、それほど仲が良いわけでもなかったおかげでちょっとした笑い話だったけど、人によっては陰で囁かれて、気を遣われる羽目になるかもしれない。

私の場合はきっと後者になるんだろうなぁ。

「あ~この人、ま~たウダウダ言ってるよ。ふふ。」
くらいに思える人だったら良いんだろうけど、そこそこ距離の近い人だったりすると、これは面倒くさい。
「どうしたの?!」「大丈夫?!」なんてコメントを求められているような気がする。
本当はビックリマークを付けるほどビックリしていないのに、ハテナだけでは足りないよね?と、いらぬ気まで使ってしまうだろう。

考えれば考えるほど、知り合いだらけのSNSでストレス発散をするヤツのことが鬱陶しく思えてくる。あちらさんが晴れ晴れとしていく中、こちらは疲弊していくばかりではないか。

絶対、そんな風にはなりたくないぞ私は。
私という人間は人から心配されるのが苦手なのだ。
人様に気をつかってもらうことになんて耐えられない。
悩みなさそうでイイネと思われているほうがよっぽど気が楽である。

そんなわけで、知り合いが見ていると思うと、全く本心が言えなくなってしまう私にとって、noteとはオアシスのような場所であることが分かった。

映えを気にするSNSの世界では、どんどんストレスを溜め込んでいってしまうけど、noteにいるときはその逆で、色んなものが放出されていっている気がする。

noteを書きながら、「私はこんなことを考えていたのか?!」と日々発見することができ、私は最高に幸せだ。


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最近は旦那に、自分の気持ちを少しずつ言えるようになったけど、あんまり言いすぎると「この子、大丈夫かな」と心配そうな顔をされるので、全部が全部は言えません。noteが私の一番。

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