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下り坂ほど景色がよくみえる~ゴッドファーザーを見ながら…

 死んだ父の晩年の愉しみのひとつが映画だった。病床の中で『ゴッド・ファーザー』を何度も繰り返し観ていた。テレビでの放映があると必ず呼ばれて、一緒に観たものだった。

 まだ、ビデオデッキも珍しい時代、当時、貧乏な我が家には当然にそのような文明の機器はなかった。だが、テレビ鑑賞中の父親の詳細な解説もあり、小学生の自分でも「マフィアの掟(コーザノストラの誓い)」や「ファミリーの裏切り」など、人生にまつる悲哀のあらましは、大まかに理解することができたつもりだった。

 解せなかったのは、映画の最中に突如父が嗚咽する場面があることだった。ふと病床の父をみるとティッシュで顔を拭っている。何度も何度も涙を拭いている。私はいけないものを見るようで、画面に集中するふりをした。

 だが、心中はストーリーどころではない。結局、なぜ、このシーンで父が泣いているのか、当時の私はさっぱり理解できなかった。その父が他界し、改めてひとり『ゴッドファーザー』を観ると、少年の浅はかさゆえに気づかなかったものがみえてくる。

 人間の欲望は果てしなく、その背景にある人間関係は重層的で、かつ、すべての人生には終わりがあるということがみえてくる。映像の中に浮かぶのは、上がれば、必ず下がる時がくるという道程の必然だ。人が死を迎えるシーンよりも、下っていくシーンこそが私の心を揺さぶる。

 ふと気づけば、父の号泣したのと同じ場面で、私自身も詰まらせるようになっていた。

 私は、なにもここで映画評論をしようというのではない。そもそも、この不朽の名作に、ニューヨークの米紙で働いたことがある程度の極東のジャーナリストごときが批評を加えようなどという気持ちは微塵もない。もちろん、日本語ででしか洋画評論のできないような町山何某などというような映画評論家のごとき奢りも持ち合わせていない(淀川長治さんや水野晴郎さんは別格であり、彼らは尊敬に値する)。

 単に、久しぶりに観た【ゴッドファーザー』の作品を振り返って、自らの下り坂を感じたから筆を執っているだけだ。齢50を超え、あの時分、父が解説し、ときに涙したシーン、そして、マリオ・プーゾが作品の中に忍ばせた意味が少しだけわかった気がする。そのシーンは解説する必要もないし、示すことも不要だ。

 プーゾは、マフィアの抗争そのものよりも、人生における執着や欲求など尽きぬエゴイズムを浮かび上がらせた。そして、それを映像化したのがフランシスコ・コッポラ監督の天才だ。私は、その作品を何度でもかみしめる幸せに浸っている。

 人生の山は、下りの時こそ、景色がよく見えるものだ。


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